第1話 そうぐう
水可町は東京近郊にある小さな町で、本当に何もない町だ。あるものといえば町の中心にある心臓破りの坂くらいだろうか。心臓破りの坂は別名黄泉坂と言って、急勾配な上に頂上までがひどく長かった。
その心臓破りの坂にはぽつぽつと住宅街が並んでおり、坂の下にはこじんまりとしてはいるが暖かい商店街がある。そして、駅の方に行けば大学や高校があるのが、この町だった。
駅近辺や坂の下の商店街は栄えているが、それ以外、特に坂の上になると本当に静かになるのが特徴だ。
坂の上には、首吊りの木と呼ばれる大きな木があった。何十年か前に何人もの人がそこで自殺したのだ。狂った、と言われていた。
その事件があってから、坂の上に住む人はあまりいなかった。しかし、僕は見てしまったのだ。坂の上の洋館に、灯りがつくのを。
坂の上の、首吊りの木にほど近いところには洋館があった。真っ白い煉瓦造の建物であり、洋館、という言葉で想像するほど大きいものではない。小さな館だ。個人経営のお洒落なレストランなんかを想像してもらえれば良いかもしれない。そんな、小さい、真っ白い洋館。そこに住む人はあまりいなかった。首吊りの木がすぐ近くにあることや、坂を登るのが大変だっていうこともあるのかもしれない。
大学の帰りにふと、首吊りの木の方を見た僕はずっと空き家だったそこに小さな灯りがついているのをみた。一体誰が来たのだろうか、と思いながら。僕の足は自然とその館に向いていた。坂道はやはりきつく、じっとりと背中が濡れるほどに汗をかきながらも僕は心臓破りの坂を登った。
洋館の扉には、小さな立て札がかけてあった。
『買い取ります。 揺り籠屋』
たったそれだけの短い文章だ。何を買い取るのかもわからない。館と同じく白い板に、ブルーブラックで書かれた文字が鮮やかだ。嫋やかな文字はあまりにも柔らかく、穏やかな色をしていた。それに、惹かれてしまったのかもしれない。かろん、と軽いベルの音を鳴らしながら僕はそっと扉を開けた。
玄関先には誰もおらず、呆然と見ていると小さな子供が走る足音が聞こえてきた。たた、と軽い足音がすぐさま玄関から見て右側の扉から出てきて、僕の眼の前で止まる。
一目見た感想は、無声映画だった。綺麗な白髪を丁寧に三つ編みにした、黒いスカートに黒いシャツ姿の少女がそこにいた。長い白髪は細い三つ編みに集約されており、そこだけまるで時が止まったようにモノクロだった。しかし、僕の目を見るその瞳は鮮やかな絵の具のような赤色をしている。そこだけはっきりと彩色された少女は、異端の色をしていた。
「お売りいただけるのですか」
「え、えっと、何を?」
薄い桃色の唇が紡ぐ言葉に首をかしげれば、少女はこてりと首をかしげた。まるで真似するような仕草に思わず笑ってしまう。
「ご存じ無いのですね」
「うん。まず、ここに人が住んでいるのに驚きだから」
「ではまずは自己紹介から。私はユリカゴ」
少女、ユリカゴはスカートの裾を摘んで恭しく礼をした。その動作はあまりにも柔らかく鮮烈な少女性と、老獪した女性特有の強かさを感じさせるものだった。
「私は皆様の体験した怖い話を買っております」
「買って、いるの?」
「ええ、買っております」
ふ、とユリカゴが笑った。化粧ひとつしていない顔が匂い立つような色気を帯びる。薄桃色の唇、上気した頬。睫毛の白さまでもが鮮やかに、咲いているようだった。
「……食べますので」
「何を、食べるの?」
「怖い話を、です」
急に目の前の少女が恐ろしくなった。これは正邪でいえば邪に違い無い。そんな確信が湧いてきたのだ。鮮やかな微笑みにはきっと、毒がある。
「お客様、お売りになれるものはございますか」
「ぁ、いや…」
「ないのですね」
今この瞬間が、怖いでしょう。
彼女のそんな声が聞こえてきた。その瞬間僕は、弾かれたように走り出した。彼女の小さい笑い声の残響を耳元で聞きながら、玄関から走り出し一目散に坂を駆け下りる。転がり落ちそうになりながら心臓破りの坂を駆け下りて、一番下で、やっと一息つけた。
あの少女は一体なんだったのだろう。洋館の灯りがまた誘うように明滅しているのが見えた。
「またのご来店、お待ちしております」
息を整えようとする僕の耳に、ぞくりとするほど嫋やかなあの少女の声が響いた、気がした。
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