第29話 ヴァイオリン弾きの秘密と願い・二


 人間は、五つの感覚を持って生まれる。中には何らかの理由で感覚を失う者もいるが、種族としては五つの感覚を持つと考えていい。五感はそれぞれが独立したものとして機能しており、対応する器官への刺激でそれを感じる。女性の歓声を『黄色い声』とたとえたり、料理や食材の辛さを赤で表現するのは、あくまでも文学上の表現にすぎない。歓声は歓声で、辛さは辛さだ。普通、他の感覚と連動するものではない。

 だが、正常な者からすれば表現上のものでしかない感覚を有する者は、世の中にはまれに存在するのだ。学術的には共感覚と呼ばれているその感覚の持ち主は、たとえば、何かに触れるとそれに味を覚えたり、数字を見ると色が見えるといったふうに物事を感じている。比喩のように、声を黄色いと感じることも。連動する感覚の組み合わせは様々で、どのように感じるかも人それぞれ。同じ感覚の連動でも人によっては感じ方に違いがあることが、近年他国の学者の研究で明らかになっている。


 知識豊かな神官長がインノツェンツァに代わって丁寧に説明すると、マリオや国王、精霊たちはそれぞれ感心した表情やら仕草やらをした。


「そんなことがあるのか……」

「人間って変わってるね。黄色いものを見たら、声が聞こえるなんて。精霊でそんな感覚を持つ奴なんていないよ」

「精霊は肉ではなく、大自然のものに魂が宿るからだろう。肉体に魂が宿る人間だからこその感覚か……」


 神官長は彼らが理解したのを見てとると、静かな表情でインノツェンツァを見た。


「ここで共感覚について語ろうとしたのは、ジュリオ一世が色に音や形を見出す‘音視’の共感覚の持ち主だったと君は考え、それを踏まえてあの‘楽譜’を編曲したということかね?」


 問われてインノツェンツァが頷くと、そうか、と神官長は目を細めた。 


「ジュリオ一世が共感覚の持ち主であったというのは、どんな文献にも記されておらず、学説もない。それを提唱できる上、その推理を前提に曲を編み、正しく演奏することができたということは……君も共感覚の持ち主なのだね?」


 それは、問いかけるようでいてその実確信した神官長の声音だった。視界の端で、国王とマリオの顔が驚きに染まる。

 当たり前だ。インノツェンツァは今まで幼馴染みのマリオにも、自分が他者とは異なる感覚の持ち主であることを明かしたことはなかった。幼い頃には音を色にたとえ、物を見て音が鳴っている、ただの風景をうるさいと言っていたが、それは幼児のよくある戯言として片付けられている。おそらくは母すら、娘が特異な感覚の持ち主であると気づいていないだろう。


「……はい。ジュリオ一世と同じ、色を見て音を感じる‘音視’の共感覚です。ジュリオ一世が見ていた音階とは、一つしか同じじゃなかったんですけどね。でも、何とか解読することができました」


 この数日間の苦労を思い出し、インノツェンツァは苦笑した。

 宮廷に出入りしていた頃から、疑ってはいたのだ。王城を初めとする国の主要建築物の配色にこだわっていた逸話は、自分にもあてはまることだったから。他の逸話にも、自分と重なるものがあった。だから、もしかしてこの人も、と思っていた。

 トリスターノに渡された‘楽譜’がジュリオ一世のものかもしれないと考えるようになった頃は、こういうときにこそ色インクで書くべきなのに何故書いていないのかと疑問に思い、確信が揺らぎはした。トリスターノの部下が手抜きをしたのではないかと疑いつつ、マリオたちには話すなと脅されているために確かめることもできず――――思いきって彼の元を訪れたあの日、やっと自分の考えが真実であることをインノツェンツァは知ったのだ。


 それからインノツェンツァは、まず、法廷に使用された紫に対応する音階を確定させた。不愉快なことに、このときに役立ったのが、トリスターノが寄越した資料だ。それを手がかりに必要な楽譜を探し、そこで多用されている音を拾って紫に当てはめた。

 その他の色も、手持ちの資料や図書館にあるジュリオ一世の語録、王城の主要な部屋の配色の記憶などを頼りに推測し、色と音を組み合わせては実際に弾いてみることを繰り返し、インノツェンツァはジュリオ一世にとっての色と音階の相関図を完成させた。そうすれば、あとは‘楽譜’に記された旋律をインノツェンツァが読みやすいよう書き起こし、標語や記号を書き加えて曲に深みを加えるだけだ。ルイージには仕事を休ませてもらい、ひたすらインノツェンツァは旋律を色づかせていく作業に明け暮れた。


 もちろん、それだけではジュリオ一世の構想をそっくりそのまま再現できるわけがない。だが、ジュリオ一世が精霊たちを癒すためにこの曲を作ったことは疑いようがない。だから精霊たちの故郷である大自然を表現することを念頭に置いて、インノツェンツァは自分なりに大自然を表現しようと試みた。

 そして完成したのが、あの曲だった。


 正確な‘楽譜’を渡された他の参加者たちの中には、音符に付された色に着目し、ジュリオ一世の言葉や設計に関与した建築物の配色を調べた者もいただろう。先ほどの演奏を聞いていても、正解にかなり近い編曲をした者はいた。

 だが色と音階の組み合わせは膨大で、現存するジュリオ一世の語録や彼が設計に関与し一般に公開されている建築物の配色だけでは、彼にとっての音と色の関係を推理しきることはできない。その点、‘音視’の共感覚の一般的な傾向を知識として持ち、王城を去るまでは王族か王族と親しい者しか入れないような部屋への出入りが許されており、さらにはジュリオ一世と言葉を交わしたノームの言葉を知ることができたインノツェンツァは、他の演奏者たちと比べて有利だった。


 そしておそらくは、ドライアドとノーム――精霊が身近にいたことも、装置の起動に寄与している。まだ正解かどうかわからないのにインノツェンツァの演奏の途中から装置が起動し始めたのは、そうとしか考えられない。

 ‘音視’の共感覚と、精霊の存在。ジュリオ一世が有していたそれらを偶然にも持ち合わせていたことが、インノツェンツァの成功の要因だったのだ。


「そうか……音と色が融合し、人間と精霊が共存した世界、か…………なるほど、それでは誰も解けぬ。何よりも強固な暗号だな」


 虚空を見上げ、国王は呟くように言った。


「当然と言えば当然だな。ジュリオ一世は、精霊と戯れることを好まれる方だった。どこにいるかわからぬ神よりも、目の前に確かに存在している精霊のほうが身近に感じられると。だから精霊の保護に努め、この神殿に立ち入ることを禁じたのだ。そればかりでは足りなかったのであろう…………今のガレルーチェを見れば、精霊たちが変わらず傷つけられていることを嘆かれるやもしれぬな」


 と国王は視線を装置からインノツェンツァへ向け、苦く笑った。日に焼け浅くしわが刻まれた顔に、諦めや無念、寂寥、やるせなさ、羨みといった感情がにじむ。

 見つめられ、インノツェンツァはいたたまれない気持ちになった。


 国王もまたベルナルド一世のように、自分の手でこの箱を開けようとしたのかもしれない。王家の音楽会にかける情熱やこの広間に来たことがある様子は、ここでヴァイオリンを肩に乗せたことがあるからではないだろうか。国王が亡父に作曲や編曲の教えを乞うていたことを、インノツェンツァは知っている。

 熱意は叶わず、時間だけが過ぎて、それを自分に代わって別の誰かが叶える瞬間を目の当たりにして、国王は何を思ったのか。たまたま持ち得た能力とひらめきで‘曲’を再現できたにすぎないインノツェンツァには、到底わからない。

 わかるのは、ジュリオ一世やノームの少年が望んでいたことだけだ。


 インノツェンツァはヴァイオリンと楽弓をドライアドに預けると、国王陛下、と改めて国主に向き直った。片膝をつき、宮廷音楽家時代によくしていた、貴人を前にしたときの姿勢をとる。マリオやノームの少年が怪訝な顔をした。

 彼女の真摯な表情と声音を聞いた国王の顔から複雑な感情がすっと消え、国主の威容が表れた。緊張から乾く喉をこくりと鳴らし、インノツェンツァは願った。


「ノーム――彼の手元にある精霊の器たちを、この装置で癒すことをお許しください」

「……」

「彼が人々から奪ったものだとは承知しています。仲間を救いたいという思いが強すぎて、何の罪もない人を殺めてしまったことも理解しています。でも、彼は仲間が人間に傷つけられていることや、何百年も経ってもまだ人間のもとに仲間がいることを悲しみ、怒っていたんです」

「……」

「彼は、ジュリオ一世と同じこと――――精霊たちの傷が癒されることを願っているんです」


 インノツェンツァは言葉を強め、拳を握った。


「だからどうか国王陛下、傷ついた精霊たちの器をあの装置で癒させてください。精霊たちに人間を、これ以上嫌いにならせないでください」

「……!」


 そして、インノツェンツァは深々と頭を下げる。隣でノームの少年が息を呑む音を聞いた。

 インノツェンツァがジュリオ一世の曲を演奏したのは、彼女が音楽家だったからだ。だが、ノームの少年のことを少しも考えていなかったわけではない。ノームの少年の仲間へのひたむきな思いは、インノツェンツァの音楽会へ向けた意欲を強く刺激していた。あんな一途な思いをぶつけられて、簡単に忘れられるわけがない。そんなことは、インノツェンツァにはできない。


 インノツェンツァの思いを確かめるように、国王は彼女に頭を上げさせる。揺るがない気持ちを見せつけるように、インノツェンツァはかつて仕えた王の目をまっすぐ見返した。

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