第30話 それから

「……それで、結局どうなったんですか?」


 フィオレンツォがそう続きを促したのは、扉に休憩中の看板を下ろして紅茶をティーカップに注ぐ、立っているだけで玉汗が浮かぶ日差しとは無縁の『夕暮れ蔓』の昼下がりのことだった。


 音楽会から二日後の午後である。講師の都合により今日は午前中で授業が終わったというフィオレンツォは、練習や勉強の時間に充てず『夕暮れ蔓』へやって来た。昨夜『酒と剣亭』でインノツェンツァの無事を確かめてはいるものの、音楽会で何があったか聞いていないので気になったらしい。インノツェンツァも音楽会でのことは話すべきだと思っていたので、語ることに躊躇いはなかった。

 フィオレンツォに問われ、インノツェンツァはもちろん承諾してくださったよと答えた。


「国王陛下は、先祖の願いを叶えることを何より大事になさってるから。精霊を傷つけることは法に反してるし。ノームの子にも、あの装置の警護をすることで、民を殺めた罪を償ってほしいって仰ってたよ」

「そうですか……まあ実際のところ、人間の法は加害者も被害者も人間であることが前提ですからね。裁きようがないというか……装置の守り手は必要でしょうし、妥当な判断だと思います」


 そう頷くと、ところで、とフィオレンツォは話を変えた。


「その共感覚、ですか。そんなものが存在するとは、初耳ですよ。色を見れば音が聞こえてくるなんて……想像できませんね。そんな感覚で、ずっと目を瞑っているわけでもないのによく演奏家をしていられますよ。目を開けているだけで、音が聞こえてくるんでしょう?」

「あーうん、でも目を閉じたら色からは何も聞こえなくなるし、小さいときに自分の感覚が人とは違うんだなーって気づいてからは、色から聞こえる音と本物の音を聞き分けるよう意識してきたし……慣れてるといえば慣れてるんだよ。今でもたまに聞き間違えるけどね。強烈なやつが見えたり聞こえたりしたら、気分悪くなったりするし」


 そう、インノツェンツァは苦笑した。

 色から聞こえる音も空気を震わせた音も、インノツェンツァにとっては外部からの音であることには変わりない。だから音の発生源を見たり、周囲の状況を把握したり、視界を閉ざしたりといったことで、インノツェンツァはこれまで二種類の音を区別し、一般的な感覚を持つ人々の中に溶け込んでいた。共感覚という感覚の存在そのものが、一般常識の範囲外である。インノツェンツァは特殊な感覚の持ち主であると知られることもなかった。

 他人とは異なるこの感覚を面倒だと思うが、もう慣れている。それより今は、この感覚を持っていたからこそジュリオ一世の曲を演奏し、精霊たちの器を癒すことができたのだという誇らしさがあった。これは、自分にしかできなかったことだ。子供っぽい自慢だの安っぽい自己満足だのと言われようと、インノツェンツァは大きな仕事をやり遂げた満足感でいっぱいだった。


 ただ、とフィオレンツォは顎に指を当て、憂い顔で言う。


「精霊の器を癒す装置を起動させたのはいいことなのですが、これからが大変ですよ。装置の中には精霊の器がいくつも入っている上、装置には‘神の器’が用いられているのでしょう? 他国や商人に知られたらまずいですよ」

「確かに、精霊を捕まえたり他の器に移したりなんて、他の国じゃそう珍しくない話だというからねえ。精霊を癒す装置なんてあれば、実質無制限に精霊を使役できるようなものだし、欲しがるのは当然だよね。‘神の器’だけでも、かつてそれを巡って戦争が起きたわけだし」


 両腕を組み、ルイージはうんうんと頷いた。

 それは、マリオや国王、神官長も言っていたことだ。精霊を癒す装置の存在を知って興味を示し、手に入れるための方策を練る者や国は数多だろう。ガレルーチェに戦乱をもたらす要因になりかねない、と憂慮していた。


 精霊の憩いの場、それも自ら禁足地としたクレアーレ神殿という安全な場所に装置を設置しておきながら、ジュリオ一世が装置の起動を簡便なものにしなかったのも、悪用の危険性を理解していたからだろう。装置を狙う者たちにとって、彼が発した禁止令は無意味なのだから。ベルナルド一世や神殿が音楽会と‘楽譜’を徹底的に秘匿したのも、父王の遺志に気づき、守ろうとしたために違いない。


 当代の国王も先祖の遺志に従い、インノツェンツァたち数人を除く音楽会の参加者の記憶から音楽会の記憶を消すよう、国付きの魔法使いに命じた。もちろん、トリスターノからもだ。

 参加者たちに配布していた‘楽譜’は、予め譜面に仕込まれていた魔法によって処分された。各自が制作した‘楽譜’の写しまでは処分できなかったが、それがジュリオ一世の曲であるという記憶は参加者たちの頭から忘れられてしまっているから、神殿での秘された音楽会に辿り着く可能性は低い。放置するとのことだった。


 クレアーレ神殿に強大な魔力の気配が生じたことそのものは隠せないので、これには無言を貫き、噂が流れるに任せている。そのため巷間では様々な憶測が飛び交うようになっており、噂を聞いたくらいでは、クレアーレ神殿の中で何が起こっていたのか把握することは難しい。事実に近くても、近すぎて信憑性が薄いものもある。そもそも王家の音楽会からして、ほとんど知られていない催しなのだ。これなら次の噂が広まる頃には、真相は闇の中に葬られることだろう。


 マリオはマリオで、自分が雇った音楽家に前払い分の報酬を怪しまれないため、改めて仕事を依頼し、ごまかすことにしている。神殿の地下で聞いた彼の演奏は、繊細で優雅そのものの美しいものだった。あれならきっと、貴族たちにすぐ気に入られることだろう。あの音色を失わず成功してほしい、とインノツェンツァは願うのだった。


「……用意周到というか、力押しな隠蔽工作ですね。……それで、僕たちの記憶が消されることは……」


 息をつき、フィオレンツォはちらりとインノツェンツァを見る。平静を装っているが、不安を隠せていない。

 インノツェンツァは首を振った。


「それはないよ。国王陛下は、もし私がこのことを話してる人がいるなら、口止めするか、できないなら魔法使いに記憶を消去させるように仰ってたけど、フィオレンツォが誰かにこのことを話すようには思えないからお断りしたの。……もちろん、忘れたいなら陛下にそうお伝えするけど……」


 と、最後のほうは小さな声で、インノツェンツァは付け足した。

 人の記憶を勝手に消すことに抵抗があったし、助けてくれたフィオレンツォと王家の音楽会のことや自分の変わった感覚のことを話せなくなるのはさみしい。けれど、彼が口をつぐみ続けることに耐えられないというなら、強いるわけにはいかない。フィオレンツォは口やかましい、大事な仕事仲間なのだ。忘れたいと望むなら忘れさせて、楽にしてあげるべきだとインノツェンツァは考えていた。


 しかし、フィオレンツォはあのですね、と両腕を組んで眉を吊り上げた。


「忘れたいわけがないじゃないですか。いいですか。ジュリオ一世の秘曲中の秘曲やベルナルド一世が催していた謎の音楽会に隠された秘密、彼らが込めた想いを知って、忘れたいと思うわけがないでしょう。僕は覚えていますし、誰かに話したりもしません。わかりきったことを言わせないでください」


 迷いなく、躊躇いもなく。傲慢なほどまっすぐにフィオレンツォは宣言する。その堂々とした姿は、疑うことを許さない。この目を疑うことこそが罪だった。

 晴れやかな気持ちと共に、インノツェンツァの心の底から喜びが湧き上がってくる。インノツェンツァは衝動のまま、フィオレンツォの腕に抱きついた。


「なっ……!」

「ありがとうフィオレンツォ! やっぱりフィオレンツォは良い子だよね!」


 フィオレンツォが真っ赤になっていることに気づきもせず、インノツェンツァは彼の腕をぎゅうと抱きしめる。感謝されてよかったねえなどと、ルイージは二人のやりとりを微笑ましく見守っている。フィオレンツォがインノツェンツァから離れたがっているのに、助けもしない。

 フィオレンツォが本気で離れてほしそうにしていたので、仕方なくインノツェンツァは離れる。耳まで赤いフィオレンツォは、横を向いたまま話題を逸らす。


「それで、ヴァイオリンと楽弓はどうしたんです。ドライアドとノームが宿っているのでしょう? それに、ルイージさんへの口止めはまだじゃないんですか?」


 と、フィオレンツォは矢継ぎ早に質問してくる。抱きつかれるのは嫌だったらしい。わかっていても、嬉しくなるとついやってしまうのだ。インノツェンツァは反省した。

 ここは不満を言わず、彼に合わせたほうがいい。インノツェンツァは苦笑して、ちらりとルイージを見たあと、フィオレンツォの問いに答えた。

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