第25話 音楽会、始まる・二

 インノツェンツァが心の底から安堵の息をついていると、国王や神官長の周辺では、マリオが父王に疑問をぶつけていた。


「父上、あの箱は一体何なのですか? 父上はジュリオ一世の霊を慰めるのだと仰っていましたが、あれが棺とは思えません」

「落ち着くがよいマリオ。お前が言うように、あれはおそらく、棺ではない」


 国王はそう、マリオを宥めつつも彼の疑問に是と答える。予想外の答えにマリオは驚愕し、場もざわついた。

 だが、インノツェンツァだけは驚かなかった。ノームの少年から聞いていたからだ。何故クレアーレ神殿へ忍び込もうとしているのか、そこに何があるのか。――――それがまさかこんな、人を圧倒する形をしているとは思わなかったが。


 静かに、と神官長が静まるよう促すと、ややあって人々は国王の説明を待って口を閉ざす。静粛になったところで、国王は口を開いた。


「あれが何なのか、何が入っているのかは私も知らぬ。王家に伝わる書物にも載っておらぬのでな。歴代の王や神官長たちも知らなかったであろう」

「……」

「だが、ジュリオ一世があの箱に何かを入れ、強力な魔法で封じたのは紛うことなき事実。魔法を解く鍵となるのがあの‘楽譜’であることも、ベルナルド一世が父王の遺した箱を開けることを望んで‘楽譜’の再現に腐心したことも、王家にのみ伝わる文献に記されておる。そして音楽会は王家の伝統となり、歴代国王によって代々行われてきた」


「……」

「あの‘楽譜’に記された曲を再現し、あの箱に捧げることで何が起こるかはわからぬ。ただ、ジュリオ一世がやり残したことを知りたいと欲したベルナルド一世の遺志を継ぐことは、歴代国王と神官長の責務だ。――――それが、この音楽会を催した理由である」


 国王はそう、太く、威厳そのものの声音で音楽会の意味を語る。言葉の一つ一つが空気に、参加者に、擁立者の心に沁み通っていく。

 さて、と国王は言った。


「この意義を明らかにした上で、私は諸君に問う。この神事に参加するか否か。意義に賛同する者のみ、あの箱に自ら再現した楽曲を捧げ、またそれを見届けよ」


 結びの言葉さえ力強く、国王は覚悟を居並ぶ者たちに問いかける。空気はいつの間にか重く、張りつめたものに変わっていた。


 音楽会を神事と言い換えることに、言いえて妙だとインノツェンツァは納得した。音楽という魔法によって封じられた箱を開くための行事なのだ。音楽会ではなく、神聖な儀式といって差し支えない。国王がこの箱を開けることに並々ならぬ思いをかけているのだとインノツェンツァは感じ、背筋に震えが走った。

 だが、そんな王の決意を意に介さない者がいた。


「……父上。これを神事と仰るのですか。音楽会ではないのですか」


 そう、非難の声音と表情で国王に問いかけたのは、トリスターノだった。人々の視線が彼に集中する。


 彼がこの催しの呼び方にこだわるのは、得られるものが大きく違うからに違いない。音楽会であれば演奏者やその擁立者に対して報酬や褒賞が与えられるのが普通だが、神事での演奏ではそうしたものを与えないのがこの国の風習だ。報酬とは対象に対して人の世の価値を付与することであるから、神霊に捧げられた聖なる演奏に俗世間の価値を与えて穢してはならない――――という古い価値観が、今も暗黙の了解として残っているのである。


 国王がこの催しを神事と定義しているのであれば、トリスターノの願望なのだろう、褒賞によって宮廷に留まることはできなくなる。ここにいる理由さえ失せるのだ。そんな第二王子の考えと焦りを見抜き、インノツェンツァは改めて腹が立った。異母弟であるマリオも、怒りを孕んだ眼差しで異母兄を睨む。


 国王は、国主としてあらゆる物事を裁定する目を息子へ投げた。その瞳に、赤竜騎士団長に就けてまで矯正を願った父親の情けは、もはや見当たらない。


「……帰るがよいトリスターノ。努力も働きもせず大きな見返りを求め、己の名誉回復のために自ら蔑んでいる者すら利用しようとするお前に、この神事に参加する資格はない」


 そう、淡々と告げる。殊更激しい口調ではないが、国主に相応しい、抗いがたい響きがあった。

 インノツェンツァは居並ぶ人々の合間から、トリスターノの拳がわなわなと大きく震えたのを見た。


「っでは父上、御命令どおり、私は帰らせていただきます! 貴方の暇潰しに付き合っている暇はない! 荷造りをまだ済ませていませんのでね、失礼します!」


 悔し紛れにそう宣告するやトリスターノは踵を返し、驚く人々の肩に自分のそれが当たるのも構わず、扉へ向かっていった。誰もが唖然とするばかりで、止めようとはしない。インノツェンツァも、あんな馬鹿王子が第一王子じゃなくてよかったと心の底から思いつつ、脅迫者の退場を見送った。


 半開きになっていた扉の向こうにトリスターノが消えると、再び王は口を開いた。


「今あれに告げたように、今回私は、演奏者を擁立した者たちに褒美をとらせるつもりはない。ただ、あの箱へ音楽を捧げることを望むのみ。誰にも語れぬ自己満足では足りぬというなら、広間を出るがよい。私は止めぬ」


 さあ、と国王は血族と演奏者たちに決断を促した。

 ここに集った王族の何人かは褒美目当てだったのか、期待のものは与えられないと明言されたことに動揺し、戸惑っていた。もちろん、驚きはしても出ていきそうにない者はいて、その筆頭たるマリオは、だからどうしたと言わんばかりに落ち着いた様子で時を待っている。それを見て、インノツェンツァは頬を緩ませた。


 結局、数人の王族が広間を去った。演奏者も一人去ったが、他の者は室内を去っていない。――――動機が報奨か好奇心か、音楽家としての矜持かはわからないが。同じ道を歩む者の欠けがほとんどないことを、インノツェンツァは心の中でひそかに喜んだ。


 かくして、箱開きの神事は始まった。

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