第26話 出番

 端に並んでいた者からということで、トランペット奏者の青年が箱のそばに立った。他の者は壁際へ下がり、演奏を見守る自分の番を待つ。


 何度も何度も、閉ざされた箱の蓋を開ける鍵が繰り返し奏でられる。不思議なことに、誰として同じ曲を弾く者はいなかった。旋律そのものは、皆同じはずだ。だが音符に当てた音階や強弱、音の出し方や伸ばす長さ、曲の速さといった様々な要素が違えば。同じ旋律でも雰囲気が違ってくるし、旋律そのものが違って聞こえることもあるのである。加えて一人一人の楽器が違い、音色が違う。まるで変奏曲を聞いているかのように、インノツェンツァはまったく飽きなかった。


 しかし、国王はそんな音楽会らしい光景をまったく楽しんでいなかった。演奏者の誰もが技量の確かな者ばかりだというのに、頬を緩めもしないでずっと箱ばかりを見つめている。演奏を聞いていないのではと思えるほど、演奏者には一瞥もくれない。箱が開くことしか考えていないかのようだ。


 国王が拍手をしないので、他の者たちも一々の演奏に称賛を送るわけにはいかず、淡々と演奏が始まっては終わる。これもまた、ノームの少年がこっそり音楽会を観察した仲間から聞いたという過去の音楽会の様子だ。確かに音楽会というより、品評会や神事と呼ぶに相応しい光景であった。


 宮廷音楽家時代に数度だけ言葉を交わしたことがある、嫌味な伯爵令嬢の演奏が始まって数節もしないうちに、インノツェンツァは大きく目を見開いた。


 流れる軽快な、聞く者に色鮮やかな花束を見せるようなその旋律は、インノツェンツァが作曲したものとまったく同じだったのだ。よどみのないヴァイオリンの音色だから、はっきりとわかる。ほんの数小節だけならまだしも、一つの違いもなく音階や強弱、音の長さまで一致するなんて、どれほどの低確率か。――――間違いない。彼女、もしくは彼女の周囲の者が、人にインノツェンツァの楽譜を盗ませたのだ。


 かっと頭に血が昇ったインノツェンツァだったが、すんでのところで思い留まった。ここで事実を明らかにしても、どうしようもないのだ。それに、結果はわかっている。どうせ彼女は失敗する、怒りを持続させるなとインノツェンツァは自分に言い聞かせ、深呼吸を繰り返した。


 その確信と言っていい予測は的中し、令嬢のヴァイオリンが最後の一音を鳴らしても、箱は何一つ反応を起こさなかった。インノツェンツァは内心でぐっと拳を握り、すごすごと壁際へ戻る間際に睨んできた彼女に負けじと睨み返してやる。マリオが視界の端で、馬鹿かお前はと言わんばかりの表情だったが、結局あの令嬢は栄誉を得ることができなかったのだ。自分が必死に考えて音を当てたのに箱を開ける鍵ではなかった悔しさはあるものの、多少は気分が良かった。


 そして、ついにインノツェンツァの番になった。


 神官長に名を呼ばれ、インノツェンツァは箱のそばへ向かいながら、落ち着いて、と楽器に宿るドライアドとノームに心の中で話しかける。あの距離で脈打ったのだ。そばに近づけばどうなることか。精霊が宿っていると知られたくないインノツェンツァは、演奏するものとは別の緊張で、いささか顔が強張っていた。


 言うことを聞いてくれるドライアドとノームに感謝しつつ、インノツェンツァは譜面台に譜面を並べた。代わりに譜面をめくってくれる者が見当たらないからか壁際の演奏者たちはざわめき、国王も不思議そうに問いかけてくるが、彼女は首を振り、誰かつけようかというありがたい言葉に断りを入れる。楽譜は白紙に詰めて書いてあるので、めくらずに最後まで演奏できるのだ。そういう工夫をした。


 目を閉じて精霊たちに思いを馳せ、深呼吸をすると、インノツェンツァはたちまち平静な心持ちになった。緊張も不安もおそれもなく、所詮は庶民の小娘と侮る者たちへの怒りもなく、ヴァイオリンを構える。

 箱を見下ろし、次いで国王と神官長に目を向け、ドライアドとノームに心の中で声をかけ――――――――インノツェンツァは演奏を始めた。


 子供が遊ぶように四本の弦を爪で弾き、一拍置いて楽弓を弦の上に滑らせる。力強く、そして優しく。演奏しながら、望む音色を紡げるようにと、それに連なるものを連想していく。


 身近にある存在や遠く眺める景色、歩いた場所、感じた熱。確信する絆。数多の記憶と覚えた感情が、祈りが、インノツェンツァの心の奥底から湧いてくる。そればかりか、見たことがないはずの景色や音さえ思い浮かんできた。どこまでもどこまでも続く樹海、命を潤す川のせせらぎ。洞窟の中できらめく宝石の数々。知らないはずの記憶にもインノツェンツァは着想を得て、音色と旋律で表現できるようにと願った。


 そうしてひたすらに意識を内側へ向けているうち、インノツェンツァの視界には、現実ではない世界が広がっていった。

 五線のない譜面から飛び出した、色づいた音符が眼前に整然と並び、インノツェンツァの眼差しに貫かれるのを待っていた。音符はインノツェンツァが目を向けるだけで音を発し、奏でる音やその律動、曲の速さや音の強弱、音の長さ――――紡ぐべき想い。そうした曲のすべてを教えてくれる。

 五線は必要なく、むしろ、何も告げてくれないそれらは邪魔だった。だからジュリオ一世は五線を外したのだ。インノツェンツァはもうそのことを知っている。


 感覚と想像力の極致に見つけたジュリオ一世の‘楽譜’の世界の中、音が紡がれるほどにインノツェンツァは旋律に心を奪われていく。その世界に色が満ち、力があふれ出してくることに、何の疑問もなかった。

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