第27話 よみがえる旋律

 インノツェンツァが演奏を始めてしばらくして、起こらないと思っていた異変を誰もが目の当たりにした。


 まず、壇の周囲に張り巡らされていた水が、青い輝きを放った。それに呼応するかのように、‘アマデウス’もまた光を放つ。

 すると彼女の傍らに、人影がうっすらと存在をあらわにした。


 一糸まとわぬ姿のその女性は、髪も肌も唇も、身体を構成するすべてに木目が見えていた。引きずるように長い髪は数多の小枝が垂れ下がっているかのようで、たくさんの色とりどりの花が咲いている。――――明らかに、人間ではない。


 さらに、インノツェンツァとその不思議な女性を守るように、楽弓が光を放つと共に現れた大蛇がとぐろを巻き周囲を囲んだ。色が混ざり合って極彩色に見える鱗は一枚一枚が宝石でできていて、濃緑の瞳も鉱物の硬質な光を放っている。


 そんな異様な舞台の上で、インノツェンツァは何も気づかず、何も見ても聞いてもいないかのように無心に演奏しているのだ。――――まるで心を持たない演奏人形のように。

 マリオはぞっとした。


「インノツェンツァ! 何をしている! こっちへ来い!」

「王子! おやめください!」


 マリオが声を張り上げ、棺のそばで我を忘れて演奏している幼馴染みのもとへ駆け寄ろうとすると、ラツィオが羽交い締めにしてそれを阻んだ。離せと暴れるが、自分とそう変わらない体格の彼の身体は離れない。


「インノツェンツァ!」


 せめてと叫ぶが、幼馴染みは答えない。代わりに彼女へ近づこうとした兵士たちも、鉱物でできた蛇に威嚇され、近づけない。その間も、インノツェンツァは‘アマデウス’を奏でている。


「あれは精霊……ドライアドとノームが、何故彼女を……」

「! 精霊だと? 馬鹿な、魔法使いでもない者が精霊を従えているなんて…………!」


 神官長の驚愕に、マリオは思わず反論した。

 インノツェンツァがどれほど音楽一辺倒であるか、マリオはよく知っている。インノツェンツァ・フォルトゥナータは、身体の半分が音楽でできているような少女なのだ。魔法や精霊なんて、一般知識以上のことは知らないし、使うことも使役することもできないはずだ。


 ‘曲’の半ばを過ぎると、インノツェンツァが奏でるヴァイオリンの旋律は、変化を箱にもたらすようになった。


 岩に根を張っていた植物が溶け、鈍色のどろりとしたものとなって岩や箱の蓋、布を溶かし始めた。溶けた青い布は水へと変じ、蓋に空いた穴から中へ注がれる。瞬く間に溶けた岩から、純水を凍らせたように透明で大きな結晶が現れ、これもまた箱の中へ沈む。周囲の花は無事だったが、箱の変化と連動するようにほのかに輝いていた。


 箱の蓋が完全に溶けると、箱から天井へ向け、半透明の青い柱が立ち上った。内部には炎や氷塊、岩石や宝石、眩い光などが漂っている。おそらく箱の中を覗けば、沈んだ石英があるだろう。

 それらの内包物は各々が明滅を繰り返したり、柱の表面に触れては水面のようにさざめかせていて、その異様さに人々の顔が引きつり、畏怖とも恐怖ともつかない感情に染まる。しかし逃げることはできず、立ち尽くすだけだ。


「これは……光の力か……? ………………これは…………」


 衛兵たちに守られる父王と共に柱を見上げる神官長は、魔法使いとしての能力でもって何か感じ取ったのか、そこで言葉を詰まらせた。目を見開き、呆然とする。


「‘神の器’の力か…………!」

「……!」


 神官長が転がした単語に、マリオは言葉を失った。思考が一瞬、そこで止まる。

 ‘神の器’。この世を創造した神々の力を留めたという物。伝説のように空想上のもののようで、しかし確かに存在する、神が世界に贈った奇跡。

 それが今、マリオの目の前にあるというのか。


 ようやくインノツェンツァの演奏が終わりに差しかかり、広間の扉の外が急に騒がしくなって、呆然と事態を見つめていたマリオはどこか救われた気持ちでそちらへ目を向けた。


 誰かがこちへ向かってきていて、それを衛兵たちが止めようとしているようだ。重なるいくつもの足音と怒号が、侵入者が手だれであることを暗に示している。


 しかし、扉が内側へ地響きを立てて倒れてきたことにより、マリオの何かに救いを求めような気持ちも推測も、何もかもが吹き飛んでしまった。しかも、衛兵たちを背景に姿を現したのは、いかにもやんちゃそうな美少年だ。彼は広間を一目見るや目を見開き、柱へまっしぐらに走りだす。


 ラツィオは羽交い締めにしていたマリオを不審者から守るべく、マリオを背に庇って佩いた剣の柄を握った。我に返った女衛兵隊長が捕らえよと部下たちに命じるが、数多の宝石の刃が彼らを襲い、足止めした。


 マリオがはっと箱のほうを見てみれば、インノツェンツァを守るように侍る尋常ならざる蛇が人間たちを睥睨している。彼の仕業に違いない。――――この尋常ならざる蛇は、ノームなのだ。

 衛兵たちの中にいた魔法使いや神官長がそれに気づき、ノームを対象に魔法を放つべく呪文を唱えようとするが、樹木の女の腕が枝に変じるや蔦のように伸びて彼らを薙ぎ払い、阻止する。こちらはドライアドなのだろう。


 衛兵たちの動きが完全に抑えられている間に箱のもとへ駆け寄った少年は、柱を見上げ、歓喜の声を上げた。


「皆、生きてる……! よかった……これで皆元気になれる…………!」

「元気に……? お前、その柱、いやこの音楽会の秘密をお前は知っているというのか? おい、答えろ!」


 混乱している一同の中、マリオが声を張り上げて少年に問う。それしかできなかった。

 歓喜と感動に水を差された少年はそれを騒音とばかり、眉をしかめて振り返った。ものすごく迷惑そうな顔だった。


「君、王族? じゃあ知ってるはずじゃないの? あのヴァイオリン奏者の魔法使いの末裔なんだからさ」

「っ、それを知らないから聞いているんだ!」


 どこか馬鹿にしたような反応に、マリオはかっとなって怒鳴り返した。

 そう、マリオはこの音楽会について、何も知らない。王家の霊廟たる神殿にこんな場所があることも知らなかったし、父王に告げられるまでは王家の音楽会なんて都市伝説にすぎないと思っていた。それを恥じ、先祖の遺志を知らねばならないと思った。――――なのに、何者かもわからない子供は知っているというのだ。恥ずかしさと怒りで頭に血が昇らないはずがない。


 そんな中、場違いにもほどがある声が上がった。


「ちょっと何これこの柱! しかもドライアドとノームがなんで出てきてるの? ……って、君なんでここにいるのっ? 置いてきたはずなのに!」


 いつの間にか演奏を終えたインノツェンツァが、自分の傍らにいるドライアドやらノームやら、箱と天井を繋ぐように伸びる青く半透明な柱やらに忙しなく目をやり、最後に少年へ疑問をぶつけた。マリオや国王、他の者たちの姿は視界に入っているはずなのに、まるで認識していない。


 ――――――――人の気も知らず、呑気に演奏していたくせにそれか。

 インノツェンツァの第一声に対する率直な感想が、ぽつりとマリオの心中に転がった。風がない日の水面のように静かな心持ちになる。


 一方、マリオの目の前では、少年がインノツェンツァに言い返していた。


「君があんな‘曲’弾いてるから、起きちゃったんだよ。君の演奏のおかげでそこの魔法が発動して、今以上にものすごい魔力と神の力の気配がしてたんだから。しかも、仲間の鼓動と気配もするし。じっとしてられるわけないだろ」

「その姿でここまで来たの? ってまさか……」

「人間を殺したかって? ……あのね、精霊が約束を破ると思ってるの? 僕らは人間みたいに約束を破ったりしない。君のヴァイオリンケースの中で、さっきまで大人しくしてたよ」


 見くびるなと、少年は怒りの眼差しでインノツェンツァを睨みつける。それだけでまとう空気ががらりと変わり、場に冷えたものを漂わせる。

 傍観していたマリオは瞠目した。どこからどう見ても少年にしか見えない彼が、ノームだというのか。想像だにしなかった正体に、周囲もざわめく。


「…………そうだね。人間に頼むのを嫌がってた君が約束して、私を信じてくれたんだから、疑っちゃいけないよね。……ごめん、疑ったりして」


 インノツェンツァは、マリオたちとは別の意味ではっと目を見開き、恥じて彼に頭を下げる。少年はインノツェンツァの心からの謝罪を受け入れ、わかればいいよ、と偉そうにふんぞりかえった。


 どうやら彼らの話は一段落したらしい。そこでマリオは幼馴染みにゆっくりと近づき、声をかけることにした。


「…………お前にはさんざん秘密主義だのなんだのと言われたものだが、お前のほうがよほど秘密を抱えていたようだな」


 何も考えずこぼした己の声音は、思っていたよりも低く、どすが利いていた。ラツィオが小声でたしなめてくるが、構うものかと心中で呟く。

 びくりと肩を跳ね上がらせたインノツェンツァが、からくり仕掛けのようにぎこちなくマリオを振り返った。


「マ、マリオ、これにはわけが…………」

「ほう、では、話してもらおうか? その精霊たちについて、箱の中について。その他にも知っていることをすべて」

「…………!」


 引きつっていたインノツェンツァの顔が、身体ごと硬直した。

 だがマリオに同情心なんて欠片も湧かない。知っていることを話し、マリオに心配をかけたことを謝るまで許してやるつもりもない。

 黙っていたほうが悪いのだ。

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