第五章 王様の旋律
第24話 音楽会、始まる・一
音楽会当日。下町と楽器街の祠を巡り、神々と精霊に祈りを捧げたインノツェンツァは、トリスターノが寄こした馬車でクレアーレ神殿へ向かった。
険しい坂道での揺れに辟易したあと、インノツェンツァが馬車を降りると、四本の尖塔が雲を突き刺さんばかりに伸び、左右対称の姿で鎮座する建物が視界に入ってきた。彫像や装飾はまったくといっていいほどなく、しかし鏡映しのように左右でまったく違いのない姿はただ美しく、壮麗で迫力がある。
インノツェンツァは、神殿を見上げてあんぐりと口を開いた。
生まれも育ちもこの王都のインノツェンツァであるが、岩山を登り、世に名高いクレアーレ神殿を間近で見たのはこれが初めてなのだ。いつもは町から見上げたり、王城から眺めたりするばかりだった。
神殿の扉を開けて一歩入ると、やはり左右対称の造りが美しい内部の様子が眼前に広がった。一流の芸術家の手になるものに違いない精霊や神の彫像、白黒の壁画が、数は少なくとも最適な位置に配され、青や灰がまじる白の石壁を背景にして際立っている。
さらに、等間隔に柱が配された中庭から陽光が入り、高い天井から吊るされた鉱物が人々の頭上できらめき、床に幻想的な光を落としているのだ。それも設計に組み込まれた演出効果の一つなのだろう。インノツェンツァの家の近くにある祠がこれの何分の一かでも立派なものだったなら、先日祠へ参拝したときについてきたノームの少年はあんなに怒らなかったろうに。インノツェンツァは少し残念に思った。
しばらくして、参加者が全員揃ったのを確認した衛兵隊長マリアが、きびきびとした口調と無駄のない動きで部下と共に参加者を控室へ案内した。インノツェンツァにとって良き仕事仲間であるフィオレンツォの姉の、灰白に白い意匠が飾られた軽鎧をまとう姿は、今日も並みの男たちより格好いい。女性の参加者も、彼女の凛とした姿にうっとりとため息をついていた。
王族たちの休憩を兼ね、演奏者たちが楽器の準備をする時間が設けられたあと、一行は改めて会場へ向かう。ここから先導は神官長が務めることになったが、マリアは一行に付き添い、普段は入れない場所へ立ち入っている物珍しさからかつい立ち止まってしまう者に注意を促している。彼女が随行しているのは、むしろこの役目のためなのだろう。
列の端からインノツェンツァがマリアに近づくと、彼女は目線だけインノツェンツァに寄こしてきた。他に気づかれないよう、インノツェンツァは小さな声で挨拶する。
「お久しぶりです、マリアさん」
「久しぶりだな。お前がこれに参加すると噂で聞いたときは、驚いたぞ」
「脅されたんですよ。まあ今はやる気になってるんで、一発殴れたら気が晴れるかなって感じですけど」
「なるほど」
誰を、を省いてインノツェンツァが答えると、マリアは一つ頷いてくつくつと笑う。こんな場所に詰めていても、風の噂は入ってきているらしい。
「愚か者は北へ飛ばされるから大丈夫だろうが、困ったことになったら、私に言うといい。王族への苦情は、クレアーレ神殿の領分だ。うちの弟も使ってくれて構わん」
「……二人には、もう助けてもらってますよ」
助けようとしてくれることが嬉しくて、インノツェンツァはひっそりと笑んだ。
本当だ。フィオレンツォにはこの件で充分すぎるほど助けてもらったし、今もマリアと話ができるだけでこんなにも気が楽になっている。参加者の中で唯一親しいマリオが父王のそばにいるため話ができない現状では、彼女との語らいは不意に訪れた夏の木漏れ日も同然だった。
マリアはふっと表情を緩め、インノツェンツァの耳に唇を近づけた。
「あそこの馬鹿を連れ戻さねばな。――――よく似合っている」
「――――!」
そして何事もなかったかのように、壁画に見とれて列から離れた王族のもとへ向かう。高くも低くもない笑み含みのささやきが脳内で繰り返され、真っ赤になったインノツェンツァは今すぐどこかへ走り出したくなった。何故あんなに格好いい人が女性なのだろうか。
インノツェンツァの数年ぶりのドレスは、淡い緑と白の絹の布地に金の縫いとりがされた、初夏らしい色のものだ。同色の薄絹を重ね、衣服に色の濃淡を生み出している。宮廷時代に使っていたドレスは生活費の足しにと売り払っていたので、仕方なく知り合いの衣装店から借りたのだが、金の鳥籠に赤いガラス玉が入れられた耳飾りや花と蔦の透かし細工の髪飾りは、以前から使っていたものだ。生活費の足しにするべく売ろうとしたものの母に止められ、手入れを時折しながら宝石箱に大事にしまっていたのである。あのときの母の判断に、インノツェンツァは心から感謝した。
だが一般的な社交場に相応しいこの装いも、神々と精霊を祀る神殿の中では場違いなものでしかない。このクレアーレ神殿の構造や装飾の配置、配色にいたるまで、すべてが厳粛な空気を生み出すよう計算し尽くされていることを、インノツェンツァは全身で感じ取っていた。見かける神官や衛兵の身なりさえ、神殿の空気を邪魔しないよう個性を殺し、同化するよう考えられている。インノツェンツァは、自分たちが神事に紛れ込んだ道化になったような気にさえなった。
色とりどりの服装に身を包んだ一団の異様さは、神官長が大きな扉を開けて中へ王族と演奏者を招き入れたことで、さらに実感させられることになった。
これまで通った通路とは違い、その広間は様々な色合いで満たされていた。純白が基調であるが、灰白や薄紅、甕覗き色など、ごく薄い調子の色が壁や床、天井に点在している。広間最奥の両端の窓や天井のガラス窓から差し込む光は、純白を一層引き立てて眩しく見せる演出のためだろう。光の女神が鎮座する祭壇が最奥にあり、入口から祭壇まで等間隔に並べられた飾り柱の上では、神や精霊の像が色彩豊かな姿で人間を見下ろしていた。
そして広間の中央、周囲より数段高く設けられた壇上に、白い棺――――いや、棺と呼ぶにはいささか大きな箱が置かれていた。
箱には煌めく塗料で縁取りされた青い布が被せられていて、茎から花まですべてが黄金に淡く輝く蔦を絡みつかせた岩が上に乗せられ、完全な封印がされている。箱の周囲には、岩に咲くものとは別種の花が色とりどりに咲いており、死者に手向けられているかのようだ。壇の下をぐるりと囲む深い水掘も、尋常ならざるものが安置された内を外から隔てているような印象さえある。
神殿の外観よりも美しく、非日常的な光景にインノツェンツァはすっかり飲まれた。なんと贅沢で壮麗、幻想的な場だろうか。眼前でオーケストラが壮大な世界観からなる大曲を演奏しているかのようだ。
場の空気に酔ってか不安すら覚えたインノツェンツァだったが、突然腕に感じた二つの振動で、はっと我に返った。鼓動は一度や二度ではなく、焦っているように、何かを伝えたがっているように、速い速度で繰り返される。
ぎょっとしてインノツェンツァが腕の中を見ると、ヴァイオリンと楽弓が淡い光をまといかけていた。慌てて彼女はヴァイオリンと楽弓を抱きしめ、落ち着いてと祈るように心の中で彼らに語りかける。これのことは、マリオにも知られてはならないのだ。精霊の存在を周囲の者たちに知られてしまえば、大変なことになってしまう。
祈りは届いたようで、ヴァイオリンと楽弓は光を失い、脈動も絶えた。感情を抑制させてしまったことを彼らに詫びたインノツェンツァは、周囲を見回し、誰にも気取られていないことを確認して安堵の息をつく。皆広間の素晴らしい意匠や眼前の箱に目を奪われて、小娘の楽器になど気を払っていなかったようだ。床から天井まで室内が純白に埋め尽くされ、陽光も差し込んで非常に明るいからかもしれない。
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