第23話 懐かしき城

 母との久しぶりの夕食に心を和ませた翌日。充分な睡眠をとって元気になったインノツェンツァは、ルイージからもらった休みを有効利用するべく、王城へ向かった。


 高級住宅地に続いて役人たちが行き交う区域を抜け、二年ぶりに間近で見る灰白の王城の姿は、インノツェンツァが働いていた頃と変わらず威厳を備えていた。重々しい門扉を守る青年たちも、二年前と同じだ。宮仕え最後の日に振り返って見たときとまるで同じだから、インノツェンツァはあの日に戻ったような気さえ一瞬した。


 門番たちもインノツェンツァのことを覚えてくれていて、自分たちに近づいてきた少女の顔を見るなり、懐かしそうに名を呼んで通してくれた。次に出迎えてくれたのは、手入れが行き届いた庭園から薫る花々の匂いだ。清々しいその香りを嗅ぐと、花の香りを追って木を登り、足を滑らせて落下するという実に不名誉な記憶がよみがえり、インノツェンツァは遠い目になる。あのあとはマリオに怒鳴られ、両親にもさんざん怒られたものだった。――――イザベラだけは目を輝かせ、木の登り方を知りたがっていたが。


 顔見知りの使用人や役人たちに声をかけられながら、道案内がなくても迷わない足に任せて城内を歩くと、記憶のものとわずかも違わない扉の前にインノツェンツァは到着した。扉を控えめに叩くと、ほどなくして扉は開かれる。

 顔を出した黒髪の青年は、インノツェンツァを認めるなり真っ青な瞳を見開き、懐かしそうに細めた。


「インノツェンツァじゃないか。久しぶりだな」

「お久しぶりですラツィオさん。お元気そうでなによりです」


 幼い頃から知っている気さくな青年に、インノツェンツァも笑顔で挨拶を返す。彼は第三王子たるマリオの侍従であるから、インノツェンツァは自然と彼とも話すことが多かった。庶民のインノツェンツァがマリオに無礼な態度をとっても、咎めたりしない。


「マリオはいますか?」

「ああ、いらっしゃるよ。今ちょうど謁見から戻られたところでね。――王子、インノツェンツァです。入れても構いませんか?」

「インノツェンツァが? 入れろ」


 ラツィオが部屋の奥にいる主に呼びかけると、すぐにマリオの許可が下りる。それを受けて、インノツェンツァは金の線で飾られた白い壁と臙脂色の絨毯の、広々とした室内へ足を踏み入れた。

 若草色の私服をまとって応接間のソファに腰を下ろすマリオは、インノツェンツァを見上げて両腕を組んだ。


「インノツェンツァ、何故城へ来た。もう門をくぐらないんじゃなかったのか?」

「できればそうしたかったけど、赤竜騎士団の砦のほうへ行っても無駄だったから、こっちへ来るしかなかったんだよ」


 苦虫を噛み潰した顔で、インノツェンツァは言った。

 実は今朝、彼女は‘楽譜’の写しをもらうため赤竜騎士団の砦まで行ったのだが、トリスターノに会わせてもらえなかったのだ。彼は今、面会謝絶中らしい。国王にそう命じられているなら仕方ないが、まだ通り魔に殺されかけたことで怯えているとしたら、情けないにもほどがある。

 そんなわけでインノツェンツァは泣く泣く王都へ戻り、マリオに助けを求めるしかなかったのだった。


 紅茶の用意をテーブルに並べたラツィオが二人に一礼し、下がる。優雅な様子でソファに座して紅茶を一口飲んだマリオは、で、と対面するインノツェンツァに話を促した。


「一体何の用だ。音楽会のことなのだろうが」

「ああ、うん……そのー、ものすごく言いにくいんだけど………………あの‘楽譜’、写させてくれる?」

「……は?」


 視線をさまよわせ、頬を掻きながらインノツェンツァが用件を口にすると、マリオは胡乱な目になった。当然である。


「どういうことだ? まさかあれをなくしたとでも言うのか? ……いや」


 問いかける声音が低くなり、目がすっと細められた。その探る色に、インノツェンツァはぎくりとする。


「……盗まれたのだな。しかも、お前が書いた楽譜ごと」


 言い当てられ、インノツェンツァはああやっぱりと項垂れる。ばれると思っていたのだ。

 自分の推測が正しいことを確信したマリオの目は、たちまち険しくなった。


「お前が参加者だからか」

「多分、ね。どこのどいつの仕業だか知らないけど、参加者かその周りの人間がたくらんだのは間違いないよ。ああもう、黒幕見つけたら二発頭殴りたいっ……!」

「賛成はできないが心情は理解する。ないとは思うが一応、擁立した者にそれとなく聞いておく。父上にも報告しておこう。楽譜を盗むような者を、ジュリオ一世が遺した謎を秘めた音楽会に参加させることはできない」


 真面目なマリオはインノツェンツァに理解を示しつつも、冷静で真っ当な意見を言う。常識人であり、先祖を尊敬する彼なら当然である。

 しかし、インノツェンツァは駄目、と首を振った。


「犯人がもしわかったとしても盗んだ証拠はこっちにないし、どうせ犯人はしらばくれるに決まってるよ。それに、音楽会のことはできる限り伏せておきたいんでしょう? 本格的に犯人探しなんてしたら、すぐ噂になっちゃうよ。国王陛下が音楽会を中止になさるかもしれないし。そういうろくでなしのために中止なんて、絶対に嫌。マリオは反対だろうけど、このことは黙っててほしい」


 と、インノツェンツァは主張する。マリオはカップを置き、少し首を傾けた。


「お前は、まだやるつもりなのか」

「そりゃそうだよ。ジュリオ一世の秘密に迫るなんて面白いこと、そうそう関われないし、あの楽譜ってジュリオ一世が作った曲の楽譜かもしれないんでしょ? そんな一生に一度あるかないかの舞台、逃がすのは損じゃん。ここで音楽会を中止にしたり、編曲できなくなったから参加辞退なんてできないよ」


 大体、とインノツェンツァは眉を吊り上げた。


「人のもの盗んで妨害する上、人の作品を自分のものにするような卑怯者に負けたくない。絶対見返してやるんだから」


 トリスターノの思惑なんてどうでもいい。曲を完成させたい、負けたくないという思いがインノツェンツァの胸に渦巻いている。これは音楽家としての意地だ。たとえあと数日しか時間が残っていなくても、やり遂げなければ気が済まない。

 インノツェンツァの目を見つめたマリオは、やがて短く息を吐いて頬を緩めた。


「……わかった。父上には報告しない。が、音楽会の終了後には報告させてもらうぞ。窃盗犯を見過ごすわけにはいかないからな」

「わかった。じゃ、あの‘楽譜’写させてくれる? 申し訳ないんだけど」


 インノツェンツァが改めて申し出ると、マリオは快諾してくれる。一度立ち上がると、執務机の引き出しを開く。


「ほら、‘楽譜’の写しだ。演奏者にはこれの写しを渡してあるし、私はどうせ編曲できなかったからな。これごと持っていくといい」

「あ、これごとくれるの? ありがと、助かる」


 と、インノツェンツァはマリオが渡してくれた‘楽譜’をありがたく受け取り、目を落とす。

 そして、目を見張った。


「おい、どうした」

「これ…………やっぱりあの子の言うとおり…………」


 インノツェンツァは呆然と呟く。マリオの呼びかけに応えるには、衝撃が大きすぎた。まるで、失くしたものを探しているのに全然見つからなくて泣きたくなっていたところにそれが転がり込んできたような気分だ。


「インノツェンツァ、一体どうしたんだ」

「マリオ、‘楽譜’の写しって、誰が写したの?」


 マリオの再びの問いかけには答えず、インノツェンツァは逆に問いかける。答える間も惜しかった。


「……参加を表明した王族の人数だけ、父上が用意してくださったんだ。もっとも、私のようにそれをさらに写した者は他にもいるだろうが」

「つまり、馬鹿王子の部下は馬鹿ってことか……」


 王城、それもその馬鹿王子の異母弟の前であることなどまるで構わず、インノツェンツァは毒づく。驚きが去ったあとにこみ上げてくるのは怒りだ。昨日、絶叫するほど怒ったというのに再び沸点を超す。


「あの馬鹿王子、あんな手抜きを渡して謎を解けだ? ふざけんな。手抜き楽譜で正確な曲作れるわけないじゃん。というか原本の写しもまともにできないの? 馬鹿? 誰が書いたか知らないけど、私の労力、最初っから無駄だったじゃんこれ。私の苦労の時間を返せっ…………!」

「………………怒鳴り散らさないだけましだが、その‘楽譜’に八つ当たりすることだけはしないでくれ」


 低い声でぶつぶつ呟くインノツェンツァに、マリオがぼそりと注意を促す。一応それを聞いていた彼女ではあるが、それだけだ。右から左へ言葉は抜けた。‘楽譜’に皺をつけないのは、音楽家としての理性ゆえである。

 しばらく間を置いて、ひとまず落ち着いたインノツェンツァは‘楽譜’を鞄にしまった。


「ごめん、マリオ。これもらってくね。一応ライバルなのに、すごく助かったよ」


 冗談めかしてインノツェンツァが言うと、ふんとマリオは鼻を鳴らした。


「前にも言っただろう。私の目的は、先祖の遺志を知ることだ。確かに、私の手で‘楽譜’を編曲することができないのは悔しいが、私に編曲の才能がないのだから仕方ない。ならば、誰がその‘楽譜’を再現できようと同じだ。擁立した演奏者には、結果はどうあれ充分報いるつもりであるしな」

「はいはい。マリオはご先祖様が大好きだもんねー。そういうとこ、ホント陛下とそっくりだよね。王子の中で一番似てる」


「先祖を敬うのは当然のことだろうが。……ともかく、これでもう帰るなら、ついでに妹の顔を見に行ってやってくれ。お前が城に来ていたのに会えなかったとあとで知ったら、うるさくて敵わないだろうからな」

「わかった。今もあの部屋?」


 インノツェンツァが尋ねると、ああ、とマリオは頷いた。


「おそらく、礼儀作法の授業中だろう。……くれぐれも、血生臭い話やお前の武勇伝の話はするな。あれが聞きたがってもな」

「私に武勇伝なんかあるわけでしょ、しがない城下のヴァイオリン奏者なんだから。――じゃあねマリオ。ありがとう、助かったよ」


 注文をつけられマリオを睨んだインノツェンツァは、ふっとその顔を緩めた。

 いつもは腹が立つ幼馴染みだが、彼は自分の名誉に頓着せず、己の知的好奇心に忠実で、頼ればインノツェンツァの話を信じ、こうして力になってくれる。それどころか、先日の夜のように何故頼らなかったと怒るのだ。それが頼もしくて、ありがたくて――――嬉しい。


 自然とほころんだ表情を隠すようにインノツェンツァが背を向けると、マリオがそうだ、と声をかけてきた。


「インノツェンツァ。お前はさっき手抜き楽譜と言っていたが、トリスターノ兄上の部下は、一体何を楽譜に写し忘れていたんだ?」

「…………正確な音符だよ」

「……は?」


 少し間をおいて、むすっとした顔でインノツェンツァは答える。マリオは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。

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