第22話 ろくでなし・二

 勝手口を出て辺りを見回すと、通りを目指して薄暗く細く、人気のない路地を走る人影がインノツェンツァの視界に映った。それを目指し、インノツェンツァは全速力で走る。だが所詮は音楽家の少女の足である。追いつけず、むしろ距離は広がるだけだ。

 ついに男は光の中、通りを行き交う人の流れに紛れてしまう。足を止めたインノツェンツァは、肩で息をいくらかしたあと、昂る感情のあまりにだんと思いきり足を地面に踏みつけた。


「インノツェンツァ! 怪我は」

「ないよ。あーもう悔しいっ! 逃げられたー!」


 駆けつけてきたフィオレンツォの心配をよそに、インノツェンツァは地団太をしてわめく。こんなに走ったのに逃げられるなんて、悔しい以外の何物でもない。自分にも男にも腹が立って仕方がなかった。

 しかし、それがいけなかった。


「インノツェンツァ! 貴女は何をやっているんですか! ナイフを投げてくるような人間を丸腰で追いかけて……貴女は馬鹿ですか!」

「あ、いや、気づいたら追いかけていたというか」

「怪我でもしたらどうするんですか! 貴女は音楽会を控えたヴァイオリン奏者でしょう!」

「いやまあそうなんだけど…………ごめん」


 後先考えない無謀な行動を指摘され、インノツェンツァはたじたじになる。先ほどまでの吠える様子はどこへやら、一転して平謝りだ。

 怒り心頭といった様子のフィオレンツォにびくびくしながらインノツェンツァが店内に戻ると、いつかの日のように、ルイージが安堵の表情で彼女を出迎えた。


「インノツェンツァ! 大丈夫かい? まったく、急に走り出したからびっくりしたよ」

「すみません、不審者を追いかけなきゃって、そればっかりで……」

「駄目だよそんなこと。身の安全のほうが大事だよ」


 ルイージも優しく、けれどフィオレンツォと同じことを言う。今日はやたらと怒られる日だと思いながら、インノツェンツァは大人しくそれを聞いていた。

 ルイージはすぐさま終業時間の切り上げを決めると、鍵を壊された勝手口を一時的に封鎖するため、結界の効果を持つ魔法道具を取りに二階へ上がっていった。その間、インノツェンツァは一人で店の片付けやら帳簿付けやらをする。フィオレンツォが手伝いを申し出てくれたが、彼は今夜『酒と剣亭』でウーゴと二重奏をするのだ。早く行かないと駄目だからと帰した。彼の優しさが嬉しくて、インノツェンツァが懲りずに彼の頭を撫で、また怒られたのは言うまでもない。


 後片付けを終え、男が出てきた部屋へ入ったインノツェンツァは、狭い室内に置かれた棚の引き出しなどを確認した。ここは従業員が荷物を置く部屋で、実質インノツェンツァの倉庫のようなものになっており、自宅の棚には収まりきれない楽譜や書籍を置かせてもらっている。ヴァイオリンはケースごと店内へ持ち込むのでこの部屋には財布以外特に貴重品を置いていないが、そういうことを知らない泥棒ならあさってみようと思うだろう。


 箱に入れて棚へしまっていた楽譜などをざっと確認したインノツェンツァは、最後に鞄の中身を確認しようと鞄の口を開ける。財布に入れてあったささやかな所持金の無事を確かめて安堵の息をついた彼女は、しかしようやく気づいた。


 ノートがないのだ。


 慌てて鞄の中をひっくり返してみるが、今朝自宅で鞄に入れたはずのノートが見当たらない。さらに書類入れを開いてみると、例の‘楽譜’もなかった。今日も持ってきたものの眠気に負けて編曲作業をする気になれず、鞄の中に入れたままだったのに。


 あの不法侵入者に盗まれたとしか考えられない。それも、多少なりとも金が入った財布には目もくれず、犯人は楽器専門店の従業員のノートと、ぱっと見には意匠としか思えないはずの‘楽譜’を奪っていったのだ。音楽会での成功に執着する王族、もしくは擁立された演奏者の誰かが、インノツェンツァの成功を妨害しようと犯行に及んだのは間違いない。


 犯人が誰であるかは、音楽会で‘曲’が演奏されれば明らかになる。だが、そんなことよりもまず、インノツェンツァは先ほど同様、地団駄を踏んだ。


「ふっざけんなー! 私がどんだけ苦労して曲作りしてきたと思ってんの! 脅されて仕方なく、楽譜と読む気になんない音楽理論の本に目を通して眠い目こすってやってきたっていうのに……それを横取り? 何その泥棒精神! 宮廷音楽家辞めた小娘なら何も背負ってないから何してもいいとか思ってんの? 優越感丸出し? ふざけんな、私だって色々背負ってんのよ。人のを盗むなんてそんなせこいことするなら、音楽家辞めてよ。人の苦労の結晶盗む汚い根性で音楽家名乗るなー!」


 沸点を瞬時に越えたインノツェンツァの怒りの絶叫が、室内どころか店中に響きわたった。

 当たり前である。叫んでいだように、あの‘曲’にはインノツェンツァの苦労が詰まっているのだ。始まりは仕方なくであったが、めげそうになりながら作っただけに、それなりの愛着がある。完成させ、演奏するのを楽しみにしてもいた。それを妨害工作だか編曲作業が難航しているだかで盗まれたのだから、ふざけるなとしか思えない。


 吠えるだけ吠えて、毎度のことのようにインノツェンツァはぜいぜいと肩で息をする。それでもまだ腹立ちは消えなかったが、叫んで地団太を踏みもすれば、体力も気力も削がれるものだ。思いきり叫んだだけに、気力が失われて喉が痛く、これ以上怒鳴ることもできそうになかった。


「……インノツェンツァ、とりあえずそのくらいにしとこうよ、ね? ご近所さんに聞こえるとまずいし」


 いつの間にかやって来ていたルイージが、躊躇いがちにインノツェンツァに声をかける。インノツェンツァはまだ暴れ足りなかったが、ルイージの視線や近所からの苦情を指摘されると、怒り心頭の最中でも冷静な思考が彼女を宥め、行動を制限する。怒りで眉を吊り上げ、彼から受け取ったコップの水をぐいと一気にあおった。

 無言で要求した二杯目を飲み干してインノツェンツァが少しは落ち着いた様子になったところで、ルイージは口を開いた。


「何があったかはさっきので大体わかったけど……ノートを盗まれたのかい?」

「はい。それとあの‘楽譜’も。誰がやったのか知らないですけど、私が曲を完成させないよう、徹底的に妨害する気みたいですね」


 毎日目を皿のようにして見つめていたのである程度は‘楽譜’を暗記しているが、それでも‘楽譜’は必要だ。間違った旋律を記憶していないとは言い切れない。

 ルイージは憂いを帯びた目で言う。


「そんなに大事なのかな、例の音楽会。いくら褒美が出るからって、ここまでする必要はないだろうに」

「音楽会は、自分はこんなにいい演奏をするんだぞ、こんな素晴らしい音楽家を囲ってるんだぞって自慢したい貴族だの豪商だののお披露目会ですから。国王陛下は、良い演奏をする人や擁立した人への援助を惜しまない方ですし、音楽で国王陛下の目に留まろうと考える貴族や豪商、音楽家は多いんです。……そのために手段を選ばないろくでなしも、ですけど」


 と、インノツェンツァは彼女にしては珍しく、軽蔑の声音で吐き捨てた。生粋の音楽家である彼女にとって、音楽を汚すようなこと――他の音楽家への侮辱や陰湿ないじめ、作品の盗作をする同業者は面汚しなのだ。そんな卑怯なことをする者たちと、同じ業種で呼ばれたくないとすら思っていた。


「しかしインノツェンツァ、こうなると‘楽譜’をどうするんだい? あれがないと、もう一度最初から全部譜面にするのは難しいだろう? 時間もないし」

「それは、まあどうにかします。馬鹿王子のところへ行けばいいですから……行きたくないですけど」


 事情を話したあとのことが容易に想像でき、インノツェンツァはげんなりする。トリスターノは、演奏者や擁立した者に主催者から与えられる褒美を利用して王城に留まるつもりに違いないのだ。インノツェンツァがあの‘楽譜’と編曲した楽譜を盗まれてしまったと知ったら、罵倒するに決まっている。


「……黒幕見つけたら殴ろう。二発くらい」

「やめなさい。女の子なんだから」


 トリスターノの書類の件に続き、据わった目で物騒なことを呟くインノツェンツァを、ルイージがたしなめる。だってルイージさん、とインノツェンツァが口を尖らせぶつぶつ言っているうちに、結局彼女の帰りはいつもと同じ時刻になったのだった。

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