第21話 ろくでなし・一

 瞼が重い。体がだるい。頭がぼーっとする。それらの症状を抱えて、インノツェンツァは『夕暮れ蔓』のカウンターに座っていた。


 当たり前である。昨夜、ノームの少年の一言で眠っていられなくなったインノツェンツァは、彼からジュリオ一世――クレアーレ神殿がそびえる岩山で精霊たちと交流していた青年について、聞けるだけのことを聞いた。編曲作業はほとんど終わりかけであったが、ジュリオ一世が意図した旋律の再現のためには、彼のことを知る者の証言を聞かないわけにはいかない。結果として睡眠時間を削ることになり、インノツェンツァは寝不足になったのだった。


 午前中に客の応対をしているうちはまだ、インノツェンツァも若さと気合いで眠気をこらえていられたのだが、昼食を終える時間帯になるとさすがに厳しくなってきた。寝不足に加え、昼食後の大して忙しくない、快適な環境の店内とあれば眠くならないほうが不思議だ。インノツェンツァはそれを懸念していつもより昼食を少なくしていたのだが、無駄だった。店の奥で水を張った盥に顔を突っ込み、あくびを必死に噛み殺しながら数組の客の帰りを見守った昼下がりには、インノツェンツァはもう眠くて眠くて仕方がなくなっていた。


 眠いですと書いてあるような顔でカウンターに横向きに突っ伏しうとうとする従業員を見下ろし、ルイージは苦笑した。


「……眠いなら、奥で寝たほうがいいんじゃないかな」

「いや、でも、仕事中ですし……」


 体を起こし、眠い目をこすってインノツェンツァは言う。少しの間だけでも目を閉じていたからか眠気や目の疲れは多少ましになっていたが、それでも眠かった。


「その状態じゃ、仕事にならないだろう? 『酒と剣亭』で演奏しなきゃいけないんだし……今のところお客さんは少ないし、僕一人でも大丈夫だよ。だから仮眠をとっておいで」

「あ、今夜は休みなんです。だから大丈夫……」


 そう言ってるうちから、インノツェンツァの瞼は閉じては空けるのを繰り返す。傍から見ればまったく説得力のない、間抜けで面白い光景だったのだろう。見ていたルイージはこらえきれず、ぷっと吹き出した。


「……ルイージさん」

「ごめんごめん、可愛いものだからつい」

「ものすごく間抜けだったからと正直に言ってください……」


 店主を力なくねめつけたインノツェンツァは、眠さと恥ずかしさでまたカウンターに沈む。眠りたくて仕方がないのだが、このまま熟睡することはさすがに後ろめたい。今夜は家で食事と風呂を済ませたら即刻寝るのだと、すでに決めているのだ。それまでの我慢なのだから、何としても起きていなければならない。


「その間抜けな顔で接客することが、すでに従業員として失格だと気づくべきだと思いますけどね」


 あとほんの一時間半とインノツェンツァが気合いを入れ直した直後、そんな情け容赦ない科白が、彼女の気合いを一刀両断して沈没させた。見上げると、先ほど備品を買いに来たフィオレンツォが、白い目でインノツェンツァを見下ろしている。


「まったく、そんな間の抜けた顔で接客業をしているなんて、従業員として失格なんじゃないですか。どうせ昨夜、例の‘楽譜’の編曲作業をしていたからでしょうけど……本来の仕事に支障を出してどうするんですか。これで『酒と剣亭』の仕事があったなら、店長に店から叩き出されていますよ」

「うわ、ありえそー」


 働いているうちは大らかで優しいが怠けた途端形相が変わる店長の強面を思い出し、インノツェンツァは乾いた笑みを浮かべる。確かに、ただでさえ遅刻をしているのにこの寝る気満々の状態では、酒場に入れてもらえもすまい。休みでよかった。


「早く僕の清算を終えて、早く家へ帰って眠ればいいじゃないですか。ほら、清算を済ませてください」

「うう~」


 ヴィオラ用の備品をカウンターに置かれ、インノツェンツァは仕方なく首を振って立ち上がり、レジに数字を打ち込んで清算した。体と頭を動かすことで、わずかに眠気が晴れる。


「フィオレンツォ、今日はいつもより容赦ない……」

「貴方がそんな顔で仕事をしているからです。していなければ口出しなんかしませんよ。これでもしまた通り魔に襲われでもしたら、今度こそ殺されますよ」

「ああ、それについては大丈夫だよ。……多分」

「何が大丈夫ですか。通り魔がこれまでの風説どおり見目の良い者を狙うのではないというのは、貴女自身が証明しているでしょう。……まあ、そんな間の抜けた顔をした人を狙いたがるのは、通り魔よりむしろスリのほうでしょうが」

「ひどいフィオレンツォ。財布は鞄の底のほうに入れてあるから大丈夫だよ。それに、通り魔はもう出ないよきっと。そんな気がするもん」

「……呑気ですね、貴女は」


 へらりと笑うインノツェンツァをフィオレンツォは呆れる。それはそうだろう。

 それをまあまあと宥め、ルイージはインノツェンツァも嗜める。


「彼の心配はもっともだよ。一度は狙われたんだからね。二度目がないとは限らないんだから、気をつけないと」

「そうですよ。貴方はいつも呑気すぎですよ。僕やルイージさんに家までついて行かなくてもいいと言うのなら、もっとしゃきっとしてください」

「ほら、フィオレンツォ君がこんなに心配してるんだから、もう少し気をつけようよ。ね?」


 小首を傾け、ルイージは言う。まったくの正論であるどころか、成年男性らしからぬ可愛らしさがどこかある仕草だ。本当のことを話していない罪悪感もあり、インノツェンツァは逆らう気が失せる。


 はあい、と間延びした声で返事したインノツェンツァは、次いでフィオレンツォに目を向けた。へにゃりと間の抜けた笑顔になる。


「フィオレンツォも、心配してくれてありがとう。やっぱりフィオレンツォはいい子だねぇ」


 そして、カウンター越しにフィオレンツォの頭を撫でる。いつものことながらさらさらした髪の感触が心地良くて、インノツェンツァはつい調子に乗って必要以上に撫でてしまう。羨ましいくらい質の良い髪なのだ。

 しかし、年頃の少年がそれを甘受するわけがないのである。


「っだから、人の頭を撫でないでください! 僕は貴女と同い歳なんですっ」

「いーじゃん別にー。減るもんじゃなしー。フィレンツォの髪、触り心地いいしー」


 フィオレンツォが真っ赤な顔で頭に乗った手を払い落すと、インノツェンツァは口を尖らせて文句を言う。が、フィオレンツォはそういう問題ではありませんと、噛みつくように拒否するばかりだ。ルイージは微笑ましいと言わんばかりにやりとりを見ているだけで、止めるつもりはまったくない様子である。まったく和やかな、のんびりとしたやりとりだ。

 だから、インノツェンツァがその音に気づけたのは、本当に偶然だった。


「……? ルイージさん、奥で何か音がしませんでしたか?」

「? 音がしましたか?」

「僕は聞こえなかったけど……」


 フィオレンツォとルイージは目を丸くして、互いに顔を見合わせる。まったく聞こえなかったらしい。

 だが、インノツェンツァは釈然としない。どうしても、店の奥から音がしたような気がしてならない。感覚がそう告げている。


「……気になるから、ちょっと奥見てきます」


 どうしても気になって、インノツェンツァは様子を見に行くべく立ち上がる。直接確かめに行くほうがよほど正確だし、いい眠気覚ましになる。


「そうだ、ついでにルイージさんも何か飲みます? フィオレンツォも……っ!」


 ドアノブに手をかけたままインノツェンツァが二人に尋ねた刹那、扉の向こうから確かに物音がした。扉をそっと開く音だ。

 そう認識するや、インノツェンツァの眠気はどこかへ吹き飛んだ。俊敏な動作で扉を開ける。

 インノツェンツァが扉を開けると目の前の廊下に、見たことのない若い男が立っていた。男はインノツェンツァに気づき、ぎょっと目を開ける。


「! だ」


 誰何しようとした瞬間に男が腕を一閃したので、何も考えずインノツェンツァは扉を閉めた。間をおかず、どす、と何かが刺さる音がする。

 ぎょっとして次に扉を開ければ、男の背中はもう勝手口だ。


「ちょっ、待ちなさいよこの泥棒!」


 インノツェンツァはフィオレンツォとルイージの制止も聞かず、後を追いかけた。

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