第20話 少年の願い・三

 ドライアドは目を瞬かせると、インノツェンツァの首に抱きついた。抱きしめられた感覚は何一つないのだが、見目麗しい同性に抱きつかれたという視覚による認識は揺るがず、インノツェンツァは少々慌てる。

 ノームの少年は、呆れとも喜びともつかない微妙な顔になった。


「…………おねえさんが許すならって」

「……」


 そんな顔をされても困る。これは不可抗力だ。インノツェンツァは胸中で呻いた。


 ‘アマデウス’も楽弓も、インノツェンツァにとっては単なる商売道具ではない。亡父の形見であり友人であり、自分の一部だ。そしてそこに宿る、共に音楽を奏でてきたドライアドやノームのことも、友人だと思っている。

 そんな彼らを、これから危険なことをしようとする者に預けることが、どれほどおそろしいことか。渡したくない気持ちは今でも強い。


 だが、そうすればきっとこの少年は目的のため、神殿にいる誰かを殺すのだ。その誰かは、フィオレンツォの姉マリアかもしれない。もし彼女が死んでしまったら、と考えるとインノツェンツァの胸に冷たいものが下りる。時折『酒と剣亭』を訪れる彼女の凛々しい横顔や、フィオレンツォの澄ました顔、姉弟が仲睦まじくしている姿が脳裏に浮かぶ。

 マリアが死ねば、それらはすべて悲しみのどん底に沈んでしまうのだ。他の兵士や神官が死んでも、その人を大事に思う誰かが悲しむだろう。

 自分や母のように、大切な人を亡くして人が嘆き、悲しむ。あんなものが繰り返されるのを、自分がどうにかできるかもしれないのに黙って見ているのは嫌だ。そうするくらいなら、神殿での盗みを容認するほうがいい。


 両手をぎゅっと握って大きく息を吸い、インノツェンツァは心を落ち着ける。演奏する前のように、どうか、と心の中で祈る。


「……絶対に‘アマデウス’――そのヴァイオリンと楽弓を壊さないって約束して。前にも言ったようにそのヴァイオリンと楽弓は、死んだ父が私に残してくれたものなの。私ならきっと弾きこなせるからって。君が仲間を取り戻したいくらい大事にしてるように、私にとってそのヴァイオリンと楽弓は大事なの。宿ってるドライアドとノームも、一緒に音を奏でてくれる友達みたいなものだって思ってる。……だから、約束して」


 私から何も奪わないで。インノツェンツァの真摯なその想いは声に、言葉に、表情に表れて、緊迫した空気に響き、溶け込んで変質させていった。彼女を圧迫させるものだった場は、今や彼女に従うものに変容していく。

 その空気に触発されたのか、あるいは元々の性質であるのか。答えるノームの少年の表情も声も、しんと静かなものだった。


「……約束する。そのドライアドにもヴァイオリンにも傷をつけさせない。絶対に守る」

「……!」


 ノームの少年の誓いに、インノツェンツァは息を飲んだ。

 そこに一片の躊躇いもなく、偽りもなかった。あるのはただ、まっすぐにインノツェンツァへ返ってくる思いだけ。

 自分の真情に応えてくれたのだと確信し、インノツェンツァは逃げ道を塞がれたような、逆に道が開いたような錯覚さえした。唇や手足が重く感じられた。


「…………それなら、いいよ」

「っ!」


 少年の目がぱっと輝く。インノツェンツァはつられて顔がほころびそうになるのをこらえ、ただし、と指を一本立てた。


「今すぐは貸せないよ。明日も明後日も仕事に必要だし。貸せるのは、王家主催の音楽会の夜からだよ。それでいい?」

「いいよそれで。人間の相手しなくていいなら」

「よかった。……君たちも、それでいいよね?」


 インノツェンツァが問うと、ドライアドとノームはそれぞれ首肯する。インノツェンツァはほっと息をついた。

 ようやく少年を説得することができた。そう認識した途端、インノツェンツァは舞台袖へ下がったときとは違う種類の疲れを覚える。

 インノツェンツァがベッドに座り込むと、ねえ、とノームの少年が問いかけてきた。


「その音楽会って、あの岩山の建物でするんだよね?」

「うん。なんか、この国の最初の王様の秘密に関わることらしくてさー。馬鹿王子のせいで、私も巻き込まれたんだよ……」

「この国の最初の王様って、ヴァイオリン奏者の変わった魔法使いのこと?」

「うん。よく知ってるね」


 精霊は人間のことなんてどうでもいいだろうに。インノツェンツァが感心すると、当然だよ、とノームの少年は言った。


「僕は会ったことないけど、長老は知り合いだったって言ってたんだ。よく演奏を聞かせてもらったんだって」

「ふー…………………………え?」


 あまりにもさり気ないものだからか眠いからか、インノツェンツァは初め、ノームの少年の何気ない告白を聞き逃しそうになった。が、情報が情報として認識されるや否や、彼女の停止しようとしていた思考が再び動く。


「知ってるのっ?」

「う、うん。長老が言ってたから……神を敬い精霊に敬意を払ってて、よく音楽を聞かせてくれたって」

「じゃあその人のこと、教えて!」


 突然がばりと起き上がった人間の娘にびっくりしながらノームの少年が首肯すると、インノツェンツァは頭を振って眠気を振り払い、さらに彼に詰め寄る。その剣幕というより必死な顔に、ノームの少年の顔は引きつったままぴしりと固まった。

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