第13話 少年と精霊・二

 自分はもう安全なのだとわかったからなのか。最初のうちははらはらしながら見ていたインノツェンツァは、次第に緊張が解けていくのを感じた。


「……そう、そんなにその人間がいいんだ」


 眼前のドライアドとノームとの問答の末、少年は不機嫌そうに呟いた。頬をふくらませ、そっぽを向いている様子は拗ねているようにしか見えない。先ほどの冷酷な暗殺者の振る舞いは、欠片も見当たらない。

 インノツェンツァは思わず、ドライアドの背後から飛び出した。そしてヴァイオリンケースを突き出す。


「私、この子たちの器を大事にしてるよ。これからも大事にするよ。だから…………ごめん!」


 何と言って諦めてもらえばいいかわからず、インノツェンツァはとりあえず頭を下げた。

 少年と精霊たちが一体どういう関係なのか、インノツェンツァにはよくわからない。だが、少年が彼らを連れて帰りたがっているのはよくわかった。自分だって譲れないのも本当だ。それならせめて、頭を下げて誠意を示すべきだと思った。


 インノツェンツァなりに誠実であろうとした結果だったのだが、精霊たちの守護から抜け出たばかりか頭を下げ、無防備な自分をさらす人間の小娘の行為に、少年は沈黙した。戸惑っているか、呆れているのか。ただでさえ緩んでいた場の緊張感はこの決定打によって完璧に失せ、何とも言えない空気が辺りに漂う。

 微妙な空気に耐えられなくなったインノツェンツァが頭を上げようとしたところで、不意に何かが彼女の腰に絡みついた。あ、と思う間もなくインノツェンツァは後ろに引きずられる。


「えっ何っ?」


 わけもわからずインノツェンツァが視線をさまよわせているうちに、ドライアドは自分の背後にインノツェンツァを連れ戻し、束縛を解いた。蛇――ノームはインノツェンツァに首を伸ばしてきて、かっと口を開く。それに恐怖は感じず、無謀を咎めているのだろうと察したインノツェンツァは、ごめんと素直に謝った。

 それらを呆れた顔で見ていた少年は、やがて長いため息をついた。


「…………なんかもうべた惚れって感じだね。……わかったよ。好きにすればいいよもう」

「はあ? ちょっ、何それ」


 投げやりな科白に、インノツェンツァは思わず声を裏返した。意味がわからない。さっき、彼らを取り戻すためにこの少年はインノツェンツァを殺そうとしていなかっただろうか。


 どこを見てもそうじゃん、と少年は嫌そうに言った。


「ドライアドとノームは、人間嫌いが多いんだよ。人間は木を伐るし、鉱物や宝石を奪って削ったり壊したりするから。なのにこれなんて…………無理に連れて帰ろうとしたところで、おねえさんのところに戻ろうとするに決まってるよ。おねえさん、彼らに何したのさ?」

「何やったさって……何もしてないけど……」


 どう思い返しても、インノツェンツァは精霊たちに気に入られるようなことをした覚えはない。そもそも、精霊が宿っているなんて知らなかったのだから。父も一言だって言っていなかった。


 インノツェンツァは、亡父が娘のために買い求めてくれたヴァイオリンと楽弓を使いこなそうと日々努力していただけだ。手入れはもちろん丁寧に、入念にしていたが、それは所有者として当然のことである。特別なことは何もしていない。

 そう説明するが、少年はまったく信じてなさそうに鼻を鳴らした。


「……まあいいや。じゃあ僕は帰るよ。彼らが帰りたくないっていうなら、仕方ない。大事にするって言ったんだから、大事にしてよねおねえさん。しなかったら……わかってるよね?」

「も、もちろん!」


 物騒なことを言ってくるりと踵を返した少年の背に、インノツェンツァは慌てて答えを返す。それを聞いて、背後を向いた顔がくすりと笑む。できるかなと問うように、当然と言うように。そんな微笑みが建物の影から星と月の光の下あらわになって、あまりに綺麗でインノツェンツァは見惚れた。


 インノツェンツァが我に返ったのは、手元でぼんやりと光が明滅していることに気づいてからだった。気づいた途端、ヴァイオリンケースの重みと手から腕へと伝わる鼓動を感覚が認識する。


 ドライアドの腕でもある木の枝が、インノツェンツァの両の頬を撫でた。先ほど同様、触れられた感触はまったくなく、まるで触れられた気がしない。けれど見下ろす女の面に安堵が浮かんでいるからか、インノツェンツァはくすぐったい心地を覚えた。


「心配してくれてるの? ありがとう、私は大丈夫だよ。貴女たちが守ってくれたから――――」


 そこまで言いかけ、インノツェンツァははっと思い出した。ドライアドの胸に埋まる石を見る。


「これ……」


 ドライアドは平然としているが、あの速さでこんな鋭い石が身体に深く突き刺さって、痛くないわけがない。我慢しているだけに違いない。

 それに、改めて見てみればドライアドの半透明の身体は、あちこちが傷ついていた。ノームもだ。‘アマデウス’と楽弓の美しさからは想像できない傷つきようである。


「ねえ、痛くないの? これ、抜いたほうがいい?」


 痛ましさに顔をゆがめ、石に触れてインノツェンツァが問うと、ドライアドはゆっくりと首を振った。代わりにインノツェンツァを抱きしめる。

 やはり、触れられた感触は一切ない。生き物のぬくもりさえない。空気に抱きしめられたらこんなふうなのだろうか、とインノツェンツァは一瞬思う。


 しかし、ドライアドとノームの喜びや慈しみといった温かな感情は伝わってくるのだ。彼らはインノツェンツァという存在を受け入れ、望んでくれていた。その心地良さにインノツェンツァは目を閉じ、うっとりと身を任せた。


 瞼の裏に光を感じてインノツェンツァが目を開けると、ドライアドとノームの姿が薄れ、消えようとしていた。その中でドライアドは慈母の優しさで微笑み、ノームは首を伸ばす。

 そして、彼らは消えた。


 光が消えると、辺りはまったく普段の景色と変わらなくなった。少ない街灯、人気のない人家、舗装されていない道。先ほどまで不可思議な光景が広がっていたことが、嘘のようだ。

 だが、インノツェンツァの足元に、刃のように縁が鋭い石が落ちていた。あの少年が、インノツェンツァを殺すために放った石。拾ってみるとちゃんと重みがあり、石の冷たさやなめらかな触感が手に伝わる。――――夢ではないのだ。


 さっきのは夢だったのか現だったのか。どこか地に足がついていない心地でインノツェンツァが再び暗い夜道を歩いていると、おおい、と誰かが声がした。次いで男が二人、インノツェンツァの進行方向から駆けてくる。聞き覚えのある、中年男性の声だ。


 それもそのはずで、インノツェンツァの前に現れたのは今夜は休みのウーゴと、近所に住む顔見知りの男性だった。二人とも護身のためか、片手に棍棒を握っている。

 ウーゴが目を丸くした。


「インノツェンツァじゃないか」

「ウーゴ、カタレッラさん。どうしたんですか」


 もうそろそろ寝ていそうなのにどうして、と不思議に思ったインノツェンツァが尋ねると、どうしたもこうしたも、とウーゴは両腕を組んだ。


「さっき寝ようとしたら、こっちのほうでこうぼわっと何かが光ってるのが窓から見えたんだよ。それで、何が光ってるのかと思ってな。おふくろも怖がったし」

「こっちも似たようなもんだ。最近物騒で、それにかこつけておかしなことしてる連中も増えてるしよ。そういう奴らが何かやってるかもしれないし、様子を見てこいってかかあにおん出された」


 どうやらどちらも家族を慮ってのことらしい。しかし、その内実はそれぞれの家庭らしい理由だ。どちらも家を出るときの様子がありありと想像できて、インノツェンツァは口元を緩ませた。

 今度はウーゴがインノツェンツァに尋ねた。


「で、お前は『酒と剣亭』からの帰りだよな。何か見て…………?」


 そこまで言いかけたウーゴは、インノツェンツァを見下ろして突然表情を変えた。真剣で、怖いものになる。インノツェンツァは身をすくませ、カタレッラもわけがわからないといった顔をする。

 ウーゴが低い声で問う。


「インノツェンツァ、その石は……」

「これ? あ、えと、さっき拾ったんだよ。向こうのほうで……」


 何となく持っていたままだった石に着目され、インノツェンツァはぎくりとなった。

 ついさっき、二人が行こうとしている現場でこれを拾ったばかりだ。しかも光の正体は、今もインノツェンツァが持つヴァイオリンケースの中にあるというかいるというか、ともかく存在している。焦らないはずがない。

 インノツェンツァは、大部分を省略した事実でごまかそうと試みたのだが、しかしウーゴの顔は厳しいままだった。むしろ、よりきつくなっている気がする。


「ねえ、ウーゴ、この石がどうして気になるの? 別に毒があるわけでもないし……」

「それ自体に問題があるんじゃない」


 インノツェンツァの背後、光が放たれていた方向へ目を向け、ウーゴは言う。


「通り魔の犯行現場にあるらしいんだよ、その石が」

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