第12話 少年と精霊・一

 いまだ暗躍する通り魔に人々が怯える日々だが、だからといって大通りの喧騒がまったくなくなったわけではない。どんなに通り魔がおそろしくても、仕事はなくなったりしないのだから当然だ。インノツェンツァのように美人じゃないから通り魔に襲われないと豪語する者はいるし、そもそも事件を知らないよそ者も都を多く行き交っている。だからどの酒場や食堂から客が絶えることはなく、『酒と剣亭』もその例外ではなかった。


 今夜も職場を大いに盛り上げたインノツェンツァは、一人で帰路についた。

 途中までは、職場の同僚たちと一緒だった。が、下町の奥まった所にある人気のない路地に居を構えているのはインノツェンツァだけなので、安全のため連れだっていても最後には彼女一人になるのだ。街灯がぽつぽつと灯る暗い中を、家まで一人で歩かなければならない。


 以前なら、赤竜騎士団が主要な通りを巡回していることや下町でも自警団を組織していることは知っているから、それほど怖くなかった。だが通り魔が出るようになってからは、さすがのインノツェンツァも早足になりがちだ。狙われないと思ってはいても、殺人犯が逮捕されていない現状での暗闇は、嫌な想像をかきたてる。こういうときだけはヴァイオリンケースではなく、棍棒か何かを持っていたいのが本音だった。


 ヴァイオリンケースを片手に歩いて、あと小路を一本抜ければ自宅の明かりが見えるところだった。

 インノツェンツァの背後から、足音がした。続いてまた一つ、足音。ほんのつい先ほどまで、小路――インノツェンツァの前にも後ろにも足音はなかったはずなのに。脇道もなくまっすぐ続くだけの道なのに。


 できるだけ平静を装い、インノツェンツァは歩みを進めた。喉から腹まで、冷たいものが通り抜ける。体が強張り、意識が背後に集中する。耳に心臓の音がうるさい。


 けして本体から離れることがない影のように、足音はぴたりとインノツェンツァについてくる。インノツェンツァは自宅まで全力疾走したかったが、ヴァイオリンケースが重いし、我が家以外に身を隠す場所はここにない。その我が家も、体の弱い母がいることを考えるととても逃げ場所とは言えないだろう。万一の際は自宅近辺の小路の陰へ逃げ込むくらいしか、混乱したインノツェンツァは思いつかなかった。


「ねえ、おねえさん」


 不意に足音が止まり、呼び止める声が路地に響いた。自分より年下としか思えない澄んだ声に、インノツェンツァは思わず足を止め、目を瞬かせる。自然と体が背後を向いた。


 インノツェンツァを呼び止めたのは、見るからに気が強そうな少年だった。容姿や声からすると、十歳前後だろう。肥沃な大地を思わせる濃茶の髪、きらきらと輝く濃緑色の大きな瞳。異国の民のような褐色の肌であるが、飛び抜けて整った顔形はガレルーチェやその周辺諸国の民のものだ。将来、マリオやフィオレンツォと並ぶ美形になることは間違いない。

 あまりに意外な足音の正体に、インノツェンツァは呆けた。かける言葉も思い浮かばず、ただ彼を見つめる。


「おねえさん、その楽弓、返してよ」


 少年は微笑みを浮かべ、言う。インノツェンツァは戸惑った。


「え、楽弓って……」

「その楽弓だよ。ヴァイオリンも貸してくれると嬉しいな」


 と、少年はインノツェンツァが持つヴァイオリンケースを指差した。


「その子、僕の仲間なんだ。だから返してよ」

「仲間って……一体どういう……」


 何かの比喩だろうかと、インノツェンツァは混乱する頭で考えた。

 どう見ても彼は人間の子供だし、インノツェンツァのヴァイオリンと楽弓は銘木で作られている。仲間なんて、普通に考えるならありえない。この少年が度の過ぎた空想好きでもなければ、言わないだろう。

 これはさっさと逃げたほうがいいのではないだろうか。インノツェンツァは一歩後ずさった。


「これは、私が父さんから受け継いだヴァイオリンと楽弓だよ。……君、何言ってるの?」

「でも僕の仲間だよ。ほら」

「……? …………!」


 そう、少年が手のひらをヴァイオリンケースに向けた途端だった。

 インノツェンツァが握るヴァイオリンケースの取っ手に、突如振動が伝わった。いや、単なる振動ではなく脈動だ。たった生まれたかのように、あるいは蘇ったかのように脈打つ生々しい音が、わずかにずれて二つ響いてくる。

 そればかりか、ケースの隙間から新緑と濃茶の淡い光が漏れてきた。それは脈動に合わせて明滅し、内部に形容どおり光輝く生命があることを示すかのようだ。


 ‘アマデウス’や楽弓、備品が入っているはずのヴァイオリンケースが、まったく違う別の何かになってしまったかのようにインノツェンツァは感じた。ヴァイオリンケースを持つ手がおそろしい。父の形見を入れているというのに、ヴァイオリンケースが不気味でならなかった。


「ほら、僕の声に応えてくれてる……ね? だから返して?」


 無邪気な笑みを浮かべて少年は言う。インノツェンツァにはもう、彼がただの人間のようには思えなかった。


 インノツェンツァの目が、逃げ道を探してさまよう。しかし横に脇道はなく、背後の逃げ込めそうな場所はすぐ近くとは言えない。前方――少年の横は、通り抜けられるだろうか。足に自信がないインノツェンツァは、少年にすぐ追いつかれるような気がしてならなかった。悩んで結局、他の方法を探す。


 インノツェンツァが黙り込んでいると、少年がすっと笑みを消した。感情を失くした表情は冷たく凍え、いっそ人形のようですらある。


「……返してくれる気も貸してくれる気も、ないみたいだね」


 呟くような声も冷たく、氷の欠片を転がしたかのようだ。インノツェンツァはさらに一歩、あとずさった。少年から目を離さない。――――離せなかった。


 それじゃあ、と少年は言った。すっと片手を上げる。

 インノツェンツァは背筋が凍った。


「死んで?」

「!」


 少年の言葉と同時に、白い線が少年の周囲から放たれた。きらりと一瞬光ったその速度は高速で、正体がまるでわからない。

 まっすぐ自分へ向かってくるそれを、インノツェンツァはよけなかった。足が地面に根を下ろしたかのように動けないのだ。動かなきゃ、と思っているのに動けない。


 白い線が近づいてくる。でも動けない。動かなきゃ動かなきゃ――――――――

 瞬きさえできず、自分を死へと導く白線をインノツェンツァが見つめていたそのときだった。


 インノツェンツァの眼前がぐにゃりとゆがみ、焦げ茶の薄い膜のようなものが視界を埋めた。白い線はその薄い膜に突き刺さり、それ以上進むこと――インノツェンツァを傷つけることを拒まれる。


 薄い膜の濃淡は均一ではなく、しかも女性の背のような曲線をしている。それでいて、垂れ下がっているのは木の枝だ。

 自分の視界を遮るものを見上げ、インノツェンツァは目を瞬かせた。


「木……?」


 そう、木だ。向こう側が透けて見える実体のない木が、白い線――削りだしたばかりのように黒光りする鋭い石を我が身で受け止めていた。幹から伸びる枝葉が木陰を生み、インノツェンツァの頭上で揺れているが、音はない。

 その根元ではやはり半透明の、色とりどりの鱗に覆われた、濃緑の目の蛇が鎌首をもたげて少年を睨みつけている。

 

 眼前の樹木から放たれる清々しい香りと蛇の目の色に、インノツェンツァの感覚と直感は大きく揺さぶられた。鼓動がまた一つ高鳴り、脳裏に言葉が閃く。


「もしかして……ドライアドとノーム…………?」


 だって、こんな幻想的な生き物をインノツェンツァは見たことがない。それに、女は樹木でその身体ができていて、蛇の鱗は宝石のようだ。ドライアドは樹木、ノームは岩石と鉱物の精霊。彼らにぴったりだ。

 そして同時に、彼らが‘アマデウス’と楽弓から現れたことにもインノツェンツァは気づいた。樹木から放たれる清々しい香りは、亡父の形見から香る匂いと同じなのだ。蛇の目の色は、楽弓の宝石細工の色とわずかも違わない。先ほどのヴァイオリンケースからの鼓動は、‘アマデウス’と楽弓に宿る彼らが覚醒したからなのだろう。


 インノツェンツァの呟きを聞いたのか、樹木が振り返り、樹木とも女性ともつかない顔で淡く笑み、頷いた。蛇もこくこくと首肯する。

 少年は、不可解とばかりに眉根を寄せた。


「ちょっと待って、その人間を庇うの? どうして? 迎えに来たのに……一緒に帰ろうよ!」


 と、少年はもう一度手を差し伸べるが、ドライアドとノームはすげなく首を振った。さらに少年が帰ろうと精霊たちを促しても、動かない。

 精霊たちの声なき声を理解できるらしい少年の反応を見れば、精霊たちが少年の誘いを拒絶していることは明らかだ。むしろ、怒りを向けているようだった。

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