第三章 通り魔の手がかり

第14話 深まる謎・一

 通り魔が初めて獲物を取り逃がしたという一報は、都をたちまち駆け巡った。

 何しろ、今まで一度も未遂で終わったことはないのだ。通り魔は必ず鋭利な刃物で獲物の喉を切り裂き、現場に同じ石を残していく。石は不思議なことに、魔法とも違う不思議な気配を放っており、数日で消えてなくなってしまう。そんな石は世界中どこを探してもないし、魔法使いだって生み出せないだろう。だから通り魔の正体は人ではなく、見目麗しい人間に嫉妬した女の精霊の仕業のだ、いや人間の身勝手を罰する神の怒りだなどという風説が流れていた。――――自分が襲われた理由を知るインノツェンツァは、それを聞くたびに違うと言いたくなるのだが。


「でもあの子、ホントに何者なんだろ。ドライアドとノームを仲間って言うんだからやっぱり精霊なんだろうけど、どう見ても男の子の姿だったし。精霊が人間の姿になれるなんて聞いたこと……はーい、今行きまーす!」


 わずか三日前の出来事を頭の中で整理し、けれど納得できずにうんうん唸っていると、注文を望む客の呼ぶ声がインノツェンツァの耳に聞こえた。酒場の片隅ではっと我に返ったインノツェンツァは、慌ててそちらのほうへ向かう。


 噂では、襲われかけたのは『下町の若い娘』とだけ説明されているので、インノツェンツァに注目は集まっていない。もちろん知っている者は知っているが、彼らが言いふらしていないおかげだ。あまり噂になりたくないインノツェンツァとしては、ありがたいことだった。


 一歩間違えれば殺されていたかもしれない恐怖はある。だが、突如出現した精霊たちに守られるという物語めいた体験をした上、通り魔本人が諦めると断言したのだ。‘アマデウス’と楽弓を粗末にするようなことがあるならまたやって来るだろうが、ヴァイオリン弾きが愛器を大事にしないわけがない。だから自分はもう無事だろうという安心感が、インノツェンツァを楽観視させていた。


「……以上でよろしいでしょうか」

「ええ頼むわね。……貴女もよく働くわねえ。最近物騒だっていうのにこんな夜中まで働いて、怖くないかい?」


 注文を復唱して確認をとると、人柄の良さそうな老婆が尋ねてくる。きっと隣にいる男性の母親なのだろう。顔立ちが似ている。

 インノツェンツァはにっこりと笑みを浮かべた。


「平気です。夜道は暗いですけど、明かりがありますし。いざとなれば大声で助けを呼べばいいですから。何日か前に通り魔に襲われたっていう女の子も、近所の人に助けてもらったんでしょう?」

「そうらしいねえ。まったく、美人ばかりが狙われるって聞いてたのに、普通の容姿の子まで狙うなんてねえ。うちの孫は大丈夫だって思ってたのに……」

「通り魔にとっては美人だったかもしれないよ母さん。美人の基準は、人それぞれだから」

「そうだけどねえ」


 と、親子はそんなやりとりをする。心中ではかなり複雑なインノツェンツァは二人に一礼し、そそくさと調理場へ注文を伝えに行った。

 老女はああ言っていたが、インノツェンツァは先日の体験から、通り魔の少年の狙いが精霊を宿した品にあると確信していた。彼はどうやってか精霊の気配を辿り、探しだしては回収しているのだ。先日の一件も、人間には感知することができない、‘アマデウス’と楽弓に宿るドライアドとノームの気配を辿ったに違いない。


 となると、もしかすると通り魔事件として世に知られている以外にも、あの少年に所有する品を奪われた人はいるのかもしれない。殺される前に差し出したから、あるいはこっそりと盗まれてしまったから他の事件と結びつけられず、噂になっていないだけで。精霊が宿る木や石を、人間が知らずに加工してしまう例はないわけではないのだ。


 つくづく、あの場でとっさに精霊たちのことを隠しておいてよかったとインノツェンツァは思う。精霊信仰が残るガレルーチェでは、精霊を宿した品を無許可で所持したり販売することは法で禁じられているのだ。ウーゴも数年前、精霊を宿す材料で作られた品を買ってしまったせいで、結構な額の罰金を払うはめになったらしい。二体分の罰金なんて家計に大打撃なのは間違いないし、前科者となれば将来のこともままならなくなる。そんなのは絶対に御免だ。


 今のところ、赤竜騎士団に疑われている様子ではない。疑われていたとしても、自分のことしか考えていないあの王子のことである。インノツェンツァに編曲を続けさせるため、隠蔽工作をするだろう。――――もし、そのおかげで今もこうして働いていられるのだとしたら、まったくもって不愉快であるのだが。


 それはともかくとして、結局、あの通り魔の少年は一体何者なのか、という疑問にインノツェンツァの思考は戻ってしまうのである。しかし結論は出ないし、出すこともインノツェンツァは早々と諦めていた。彼のあの夜における立ち居振る舞い、いや存在そのものが、音楽家でしかないインノツェンツァの知識の範囲をはるかに超えているのだ。深く考えるだけ、無駄な気がしてならない。


「――仕事に精が出ているのは大変いいことですが、例の仕事のほうは大丈夫なんですか?」


 厨房へ注文を伝えて踵を返すと、インノツェンツァ同様給仕を手伝っていたフィオレンツォが、気遣わしげな眼差しで問いかけてきた。

 インノツェンツァは、それが全然、と苦い顔で首を振った。


「他の曲の旋律の音階を流用してみたりもしたんだけどね……合ってるような、ないような微妙さでさ。これだって思うのもあるんだけど、一度疑いだすときりがなくて……」

「そもそも無理な話なんです。適当に繕うしかないですよ。間違っていて当然なんですし。いくらトリスターノ王子でも、さすがにこれ以上、自分や王室の評判を悪くするような真似をするとは思えません」

「だったらいいんだけどね……」


 あの馬鹿王子がその程度の卑劣だったらよかったのに、とインノツェンツァは内心で呟いた。

 インノツェンツァが知る彼の悪行は、巷に流れる噂以上に陰湿だ。だからあの脅迫は口先だけではないとインノツェンツァは考え、この悪行を止められるかもしれないマリオにも言わず、王城やクレアーレ神殿へ抗議しに行きもしないのである。ばらされたからと自棄になって、トリスターノがインノツェンツァに報復しないとも限らない。


 通り魔の少年と精霊たちについて、インノツェンツァはマリオだけでなく、フィオレンツォとルイージにも話していない。魔法使いが炎の玉や氷の塊を自在に操り、精霊が人知れず駆け回る世界であるが、ヴァイオリンが急に脈打ち光ったり、精霊が人間を庇ったりなんて物語みたいな話が現実に起きたとは、ついぞ聞いたことがないのだ。心許せる彼らに不信の目で見られるのは、想像するのも嫌だった。


 嫌なことをいつまでも考えていても仕方がない。こんな賑やかな場の音楽に似合わないと、インノツェンツァは気持ちを切り替えた。

 時間になり、インノツェンツァはヴァイオリンを手にとって舞台へ上がった。ウーゴとフィオレンツォと目を見交わし、準備を整える。


 ウーゴとフィオレンツォの旋律を伴奏に、インノツェンツァの軽快な旋律が今夜も聴衆を陽気な空気で包んでいく。嫌なことを忘れたかったし、こういう明るい曲は得意分野だ。弾いているうちにどんどん気分も高揚していって、インノツェンツァは二人にたしなめられながらも振り回すように、生来の性格そのままの音色を響かせた。

 ウーゴとフィオレンツォの旋律に合わせ、インノツェンツァも音を引き延ばす。耳を澄ませ、フィオレンツォの音との調和を乱さないよう神経を集中させる。


 好きだな、とインノツェンツァは心中にこぼした。

 この空気の中にいることが。三重奏をすることが。ヴァイオリンを弾くことは好きだが、こんな場所で弾くのが一番いい。一日の疲れを癒すために人々が集うこの場所は、良いものを良い、悪いものを悪いとはっきり示してくれ、それを素直に受けとめることができる。ここより大きな拍手と称賛はもらえても、人々の打算や陰謀が見え隠れする貴族の音楽会や夜会とは違う。誰かの思惑に心煩わされることなく、ありのままの自分で演奏することができるこの場所を、インノツェンツァは愛していた。


 続けてもう一曲演奏し、再び起こった拍手喝采に気恥ずかしい気持ちで応えながら、インノツェンツァが店内を見回したときだった。

 入口付近の席に、見覚えのある金髪の美青年――マリオがいるのがインノツェンツァの視界に入った。

 インノツェンツァはあ、と声を上げるや、‘アマデウス’の首と楽弓を持ったまま、テーブルの合間を抜けて彼の席まで早足で向かった。別に会う約束をしているわけでもないので、次に彼と会えるのはいつになるかわからないのだ。今捕まえて話を聞く必要があった。


「マリオ! ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」

「出会い頭になんだいきなり。様子を見に来てやったというのに、相変わらず女性としての慎ましさに欠けているな」

「私にそんなもの求めないでよ。それより、これから時間あるよね? こんな時間なのに来たんだし。というわけでちょっと来て。――――ウーゴ、フィオレンツォ。ごめん、私ちょっと抜けるね」


 両腕を組むマリオの迷惑そうな表情を無視し、インノツェンツァは彼の服の袖を掴んで店の奥へ引っ張る。彼の抵抗も何のそのだ。そんなのを気にしていられない。


「おいっ服を引っ張るな!」

「おー、あんまり遅くなるなよ」

「インノツェンツァ! 仕事中に何をやっているんですか!」


 引っ張られるマリオは慌て、ウーゴは呆れ、フィオレンツォは怒鳴る。三者三様の反応も、インノツェンツァは軽く流す。彼女の頭には今、音楽会について彼から話を聞くことしかなかった。

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