第8話 幻の曲・二

 人ごみを縫うように通りを進んでいると、インノツェンツァはまた、目の前に見覚えのある後ろ姿を見つけた。首の後ろで緩く括った茶髪に、くたびれた深緑の上着。『夕暮れ鶴』店主のルイージだ。


「ルイージさん」

「ああ、インノツェンツァかい」


 呼ぶと、その背中がくるりと振り返り、予想したとおりの顔が目を瞬かせた。そしてへらりと笑み崩れる。

 インノツェンツァは通りの端に寄った彼のそばへ、小走りで駆け寄った。


「ルイージさんは、納品ですか」

「うん。音楽院へ教科書と備品を届けにね。そのついでに少し、音楽史の教授と話をしたんだ。ほら、フィオレンツォ君が、音楽史を研究している教授から話を聞いたと言っていただろう。その人と会うことができてね。あの楽譜のことはわからなかったけど、音楽会について話を聞かせてもらったよ」

「! ありがとうございます!」


 図書館で収穫がなく残念に思っていたインノツェンツァは、驚きつつも彼の心配りに感謝した。聞いてみるとは言ってくれていたが、まさかこんなに早く聞いてくれるとは思わなかったのだ。

 一緒に『酒と剣亭』へ向かいながら、ルイージは聞いた話を聞かせてくれた。


「フィオレンツォ君が言っていた教授は、ベルナルド一世の時代にクレアーレ神殿の神官だった人物が記した手記というのを調べているそうでね。それによると、ベルナルド一世は亡き父王の霊を慰めるためという名目で、複数の王族と音楽家を連れてクレアーレ神殿を訪れることが四度あったようだよ」

「クレアーレ神殿で?」


 インノツェンツァは意外すぎる会場に目を丸くする。しかし、ある意味では当然の組み合わせだとも納得した。


 第二代国王ベルナルド一世の父であり、建国の祖であるジュリオ一世は、きわめて優秀な魔法使いにしてヴァイオリン奏者という側面を持ち合わせていた。また、音楽と精霊をこよなく愛する温和な人でもあり、建国後も多忙な執務の合間を縫い、当時は住人を失くして精霊の棲みかと化していたクレアーレ神殿へ散策に出かけていたのだ。精霊たちは最初のうちこそこの強大な力を秘めた人間を警戒していたが、やがてヴァイオリンの音色や気さくな人柄に惹かれ、友と認めるようになったのだという。

 しかし、この希代の魔法使いはあるとき、尾行していた何者かによって、神殿内で暗殺されてしまう。暗殺者は怒れる精霊たちが殺したが、いかな精霊と言えど、死者をよみがえらせることはできない。悲嘆に暮れた精霊たちは、国王の亡骸を埋葬する地を探す人間が踏み入れるようになったこともあって、友の血を吸ってしまった棲みかから去ってしまった。

 ジュリオ一世の跡を継いだベルナルド一世は、クレアーレ神殿に父王の亡骸を安置することと、その周辺を都とすることを決めた。それ以来、クレアーレ神殿は歴代国王の霊廟となり、さびれた田舎町でしかなかったエテルノはガレルーチェ王国の王都として繁栄するようになったのだ。


 ガレルーチェには元々、祖先や亡くなった身近な人、神霊に音楽を捧げる習慣がある。光の神を祀る神殿であり、建国の祖が愛し凶刃に倒れた地でもあるクレアーレ神殿で、ベルナルド一世が一流の音楽家を集めて音楽会を催し、無念の死を遂げた父王の霊を慰めようとしたとしても、何の不思議でもない。

 ただ、とルイージは話を続ける。


「音楽会の詳細については、何も記されていないんだ。参加者に話を聞いてみても、誰も答えてくれなかったらしくてね。クレアーレ神殿の関連資料を調べても、王家が主催する非公式な音楽会の詳細に関する詳しい記述は今のところ、見つからないそうだ。……クレアーレ神殿の神殿長が素直にすべての資料を閲覧可能にしているとは思えないから、関係者以外閲覧不可の資料に何か載っているのかもしれないけど」

「……」

「ともかくそんなわけだから、あの‘曲’が、始まった頃の音楽会で演奏されていたかどうかは不明だよ」

「……ということは、あの楽譜はベルナルド一世の治世以前に作られた曲の楽譜と考えていいわけですよね。王家が代々伝えてきたくらいですし、もしかしたら、ジュリオ一世が作った秘曲だっていう可能性も……」


 顎に指を当て、インノツェンツァは考える。自分で推理していると、だんだんそうではないかと思えてきた。


 ジュリオ一世がヴァイオリン奏者として世に残した楽曲の多くは巷でも知られているが、一部は秘曲として王家の管理下にあり、特別な行事のときしか演奏されないことになっている。

 だからインノツェンツァも幼い頃に数度、父が演奏しているのを聞いたことがあるだけだ。旋律ははっきりとは覚えていないが、特別なときにしか弾けない曲を弾くことを許されたと父が嬉しそうに笑っていたこと、演奏する姿から目を逸らせなかったことは、今でもよく覚えている。


 あの‘曲’が、インノツェンツァの父が演奏していた曲なのかどうかはわからない。けれど、王家が学者の懇願も拒んで表に出さない、ジュリオ一世の秘曲かもしれない可能性が高いのである。それを聞いて、この国で生まれ育って心奮い立たせないヴァイオリン奏者、いや音楽家がいるだろうか。


「……なんか、ものすごーくやる気になったって顔だね」

「当然ですよ。あの初代国王の秘曲の可能性大なんですよ? それを演奏できるかもしれないのにやる気出さないなんて、おかしいでしょう?」

「まあ、確かにね。教授も、秘曲を聞かせてくれと王家に懇願してるのに許してもらえないって、ぶつぶつ文句を言っていたし」


 ルイージはそう苦笑した。


「でもあの時代、線譜の記譜法はもう確立していたんだよねえ。五線はまだ主流じゃなかったけど、どんな楽器であれ、線を引いた楽譜が一般的だったはず……ジュリオ一世が作った曲の楽譜の写本は、王立図書館に展示されているのを見たことがあるけど、ちゃんと五線譜に書いていたし。ジュリオ一世の曲とは断定できないよ」

「でも、かもしれないというだけでもやる気は出ますよ」


 ルイージの指摘に、インノツェンツァはにまっと笑ってみせた。

 経緯も音から自分で考えなければならないことも気に食わないが、ジュリオ一世に捧げられた謎の曲を弾くというだけでもやる気にはなる。どうせしなければならないのなら、いっそ楽しんだほうがいい。

 ルイージはくすくす笑った。


「それにしても、ますます興味が湧くよね。わざわざ五線のない曲に仕立てまでしてジュリオ一世が隠したかった、未だ歴代の王族が解読できずにいる言葉は何なのかって」

「確かに」


 その割には経緯が強制的で、背負っているものが重苦しいですけどねと、インノツェンツァは心中で付け足す。王家の秘曲かもしれない曲の謎に関わることになった喜びはあれど、脅迫された恨みが消えるはずもない。


 ともあれ、作業のやる気を引き出せたことが、インノツェンツァにとってこの数時間で得られた一番の収穫だった。

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