第7話 幻の曲・一

「いってきまーす」


 病弱な母に家の留守を任せ、インノツェンツァは家を飛び出した。

 扉の向こうに広がるのは、大きな影の下にくねくねと延びる路地だ。国の守護神である光の神をはじめとする神々と精霊を祀るクレアーレ神殿を頂く岩山の膝元に、所狭しと住居が連なる下町は、晴れの日だろうと雨の日だろうと朝から晩まで一日中、岩山の影の中にある。建国後、エテルノが発展し拡大するに伴い形成されてから、この町はずっとそんな場所だった。


 顔見知りに声をかけられながら岩山の影の路地を小走りで駆けるインノツェンツァは、表通りへ出る前に、下町の路地と表通りが交わる角にある、小さくも立派な祠へ立ち寄った。


 中へ入ると、蝋燭の明かりに照らされる、神殿を模した彫刻の祭壇がまず目に入ってくる。その中央に祀られているのは、古代の装束をまとい、手に球体を掲げた麗しい青年神の像だ。国の守護神たる光の神の像である。


 その壇の下には、芸術的価値が高いと一目でわかる神像とは反対に、いくつもの石をくっつけたようにごつごつとして不格好な置物が安置されている。一見すると非常に不似合いと思える組み合わせだ。しかしそれを誰一人として異物と退けないのは、この不格好な置物こそが精霊像であるからに他ならない。


 インノツェンツァは両手を組み合わせて、青年神と、不格好な置物が象徴するノームに祈りを捧げた。ノームは岩石や鉱物に宿る精霊だが、石や岩が建材として建物や街路に使われるため、交通安全や土木建築に関しても御利益があると古くからいわれている。最近はマリオやルイージが言っていたように物騒なので、必然的にノームへ祈りを捧げる参拝客は多い。母からも参拝するようにと常日頃よく言われていることもあって、インノツェンツァも外出時に手を合わせる習慣がついているのだった。


 それから図書館へ行き、片っ端から音楽関連の本をあさり、必要だと思ったことをノートにまとめた昼下がり。数冊の本を借りて図書館を出たインノツェンツァは、しばらく歩いていて、目の前に見覚えのある背中を見つけた。足を速めて近づく。


「あ、フィオレンツォ!」

「そんなに大きな声で呼ばなくても聞こえてますよ、インノツェンツァ」


 追いついた背中は振り返ると、嫌そうな顔をしてそうインノツェンツァに返してきた。

 インノツェンツァは瞬きを一つした。


「音楽院の帰り?」

「ええ。仕事に行く前に、家事をしておこうと思いまして。姉は忙しくて、しばらく家へ帰って来られないようですから」

「ふうん。クレアーレ神殿のほうも大変なんだねえ」


 とても頼りになる金髪の女衛兵隊長の姿を脳裏に思い描き、しばらく『酒と剣亭』に来ないのかと、インノツェンツァは残念に思った。

 フィオレンツォの両親は数年前に亡くなっていて、それ以来、この努力家の美少年はクレアーレ神殿で働く年の離れた姉と二人で暮らしている。そのため、彼は仕事で忙しい姉に代わって家事をすることが多いのだ。なのに、奨学生になるばかりか酒場で働き将来のため貯蓄をしているというのだから、まったく尊敬するしかない。

 フィオレンツォは、インノツェンツァの鞄に目を向けた。


「図書館へ行ったんですか?」

「うん。やっぱり調べ物といったら、まずは国立図書館でしょ? あそこの音楽館なら、音楽院と同じくらい、音楽関係の本があるし」

「そうですね。あとは、ウーゴさんからノートを借りるのもいいんじゃないですか?」

「あたしもそう思ったんだけどさ。でも聞いたら、音楽史の時間は半分くらい寝てたから多分参考にならないって」

「……あの人が先輩なのが、不思議でなりませんね」


 額に手を当て、フィオレンツォは長々と息をついた。

 ガレルーチェの王立音楽院の厳しさは、国内外に知られた話だ。入学の倍率もそうだが、籍を置いてからの単位取得も実力がなければ容易ではなく、一定数単位を落とせば退学しなければならない。それなのにウーゴは自分の名が入った卒業証書を持っているのだから、音楽院がいい加減なのかウーゴがすごいのかよくわからない。つくづくでたらめな男である。


「本を借りたということは、音楽会について、何か載ってそうなんですか?」

「わかんない。とりあえず、建国期の音楽史とかベルナルド一世の生涯についての本を借りてきたの。あと、音楽理論とかも。フィオレンツォのノートもわかりやすくていいけど、念のためね」

「では、音楽理論の教授を紹介しましょうか? 作曲活動をしている方もいますし、知恵を貸してくださると思いますよ」

「ありがと。必要になったら頼むかもしんない。耳と口だけはでかい馬鹿王子が何か言ってくるかもしれないけど、私だけじゃきついし」


 もういっそのこと、マリオに直接話を聞こうかとインノツェンツァは一瞬考えた。彼は歴代国王に強い尊敬の念を抱いており、先代国王の治世下で編纂された国史についての書物にも、幼い頃から目を通している。何より、この謎の音楽会の参加者に違いないのだ。詳しいことを知っているかもしれない。

 が、トリスターノに知られてしまう危険を考えると、良策とは言えない。今はどうだか知らないが、あの王子はどういうわけか、宮廷どころか巷間の醜聞や噂話についてまでやたらと詳しいのだ。王侯貴族や神官の知り合いにはこの件について話すなと口止めされているから、マリオと音楽会について話したと知られるのはまずい。

 何より、インノツェンツァがよりによってトリスターノに、脅迫されたからとはいえ協力したと後で知ったらマリオは怒るだろう。説教されるのは御免である。結局、インノツェンツァは思いついた名案を却下せざるのをえなかった。


 しかしそうなると、自分が収集できる情報は本当にわずかになってしまう。インノツェンツァはこの情報不足の結果、自分が曲を演奏できず、恥をかいたとトリスターノが怒り狂うさまを想像してうんざりした。トリスターノが恥をかくこと自体は大変喜ばしいが、あとが大変になるのはわかりきっている。


 事態を穏便に済ませる難しさを改めて思い知り、インノツェンツァは心中に愚痴をこぼすようになった。もちろん、何故演奏する前からこんなにも頭を使わなければならないのか、である。曲を理解するために歴史的背景や作曲者の生涯を学ぶのは好きだが、作曲や編曲は苦手だし、こういう形は想定外だ。もしあの男が第二王子でなかったら次に顔を合わせたときに一発くらい殴ってやりたいと、実に物騒なことを考える始末だった。


 フィオレンツォと別れ、インノツェンツァは足早に『酒と剣亭』へ向かった。昼過ぎからなら、店を開ける夕暮れまで自由に楽器の練習をしていいのだ。『夕暮れ蔓』で早速編曲を始めるのもいいが、『酒と剣亭』で練習するほうが遅刻せずに済む。


「はあ、やることが多いなあ……」


 するべきことを指折り数え、インノツェンツァはぼやいた。この他にも、一部の家事もインノツェンツァの仕事なのだ。勉学に家事に仕事にと大忙しのフィオレンツォと比べればまだましだろうが、それでもやることが多いとため息をつきたくなる。

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