第二章 奇妙な楽譜と少年と
第6話 奇妙な楽譜
翌日。定刻より少し早い時間に楽器店へ出勤したインノツェンツァを出迎えたのは、ルイージの安堵の表情だった。
「インノツェンツァ! 無事で良かったよ」
店の奥の事務室に顔を出したインノツェンツァの顔を見るなり、ルイージは彼女に駆け寄り両手を握った。
「お、おはようございますルイージさん。……フィオレンツォも」
いくらなんでも心配しすぎだろうと、少々ひどいことを思いながらインノツェンツァはルイージに挨拶する。次いで、店内からやって来たフィオレンツォに目をやった。
「フィオレンツォはどうしてここに? 音楽院は?」
「今日は休みです。昨夜、ルイージさんから話を聞きました。『酒と剣亭』でぼんやりしながら酒を飲んでいるものですから、不思議に思いましてね」
フィオレンツォはそう経緯を説明すると、長い息をついた。
「ともかく、怪我もないようで安心しました」
「うん、まあ……話だけだったし……」
「それで、どこへ連れて行かれて、誰に何を言われたんだい? もしかしなくても、第二王子に呼び出されたのかい?」
微妙な顔で頬をかくインノツェンツァに、ルイージが問いかけてくる。彼もフィオレンツォも、インノツェンツァの前職のことは知っているのだ。
さて、とインノツェンツァは迷った。
トリスターノはインノツェンツァに、脅迫のことばかりかこの依頼について周囲に話すことを禁じている。が、あんな男の脅迫に屈しただけでもインノツェンツァは充分腹が立っているのだ。そんな細かいことまで聞いていられるものか。
要はトリスターノにばれなければいいのだ。そう自分を納得させると、インノツェンツァは連行されてからの一部始終を二人に話すことにした。
途中で始業時間になったので、店内に場を移し、話を続ける。さいわいにも客は入ってこないので、話の腰を折られることはなかった。フィオレンツォも窓辺の席に座って話を聞いている。
インノツェンツァが話し終えると、フィオレンツォは難しい顔で腕を組んだ。
「トリスターノ王子も編曲の依頼ですか……編曲をして音楽会で演奏してほしいという話なら、インノツェンツァが言っていたように、僕もマリオさんに頼まれましたよ。僕も一応忙しいですし興味もないので断りましたけど……彼は、腕の良い演奏家を探していると言ってました」
「あ、やっぱり断ったんだ。でもマリオ、かなり本気で探してるみたいだったよね」
「ええ。……確かに、ただの音楽会ではなさそうですね。あの悪名高いトリスターノ王子が、わざわざ脅迫してまで元宮廷音楽家の貴女に編曲と演奏をさせようなんて、普通じゃないですよ」
フィオレンツォもその点が気になるのか、思案の顔で瞼を伏せる。性格が容姿を破壊している第二王子と違って、生真面目な美少年が窓辺で沈思する横顔は一枚の絵画のように美しい。インノツェンツァはこっそり見惚れた。
「それで、弾けって言われた曲なんだけど……」
思わぬ眼福に気分を良くしながら、インノツェンツァは楽譜を二人に見せる。途端、二人はなんだこれといったふうな表情になった。
当たり前だ。その‘楽譜’には、題名どころかどんな記号も、音符に音階を与える五線さえないのだから。
傾きもしない音符の連なりが記されただけの、数枚の紙。それが、インノツェンツァがトリスターノに弾けと命じられた‘楽譜’だった。
音符しかない紙とインノツェンツァの顔を交互に見つめたルイージは、戸惑いの目をインノツェンツァに向けた。
「ええと、これ、楽譜……?」
「いえ、単なる音符の連なりですよ。打楽器の楽譜のようにも見えない……本当に、これだけなんですか?」
フィオレンツォに問われ、うん、とインノツェンツァは頷いた。
「元の楽譜に書いてあるのを丸写ししたって言ってたけど、あの人、どう考えても馬鹿だよね。こんなので弾けるわけないよ。どの音を出せばいいかどころか、どの楽器で演奏する曲かもわかんないし。フィオレンツォもわかんない?」
「ええ、こういう形式のものは初めて見ますよ。古代の記譜法ならこの形の音符はまだないですし、かといって中世以降であれば、楽譜には一本でも線が引かれていているはずですし……」
本当に楽譜なんですかこれ、とフィオレンツォは疑わしそうに楽譜を見下ろした。
楽譜の歴史は古代、神殿で神官が賛美歌を歌う際に、歌詞を書いた紙に音の高さを指示した記号を所々挟むようになったことから始まるといわれている。千七百年ほど前になると楽器専用の譜面が登場し、それから新しい楽器の登場や発達に合わせ、五線や豊かな記号、標語がある現代の楽譜へと進化していったのである。
その歴史から考察すると、これは明らかに異質だった。一見すると、中世以前の単音しか発せられない楽器の譜面のように思われる。が、それならこんな、音符の形が中世以降のものであるのはおかしいのだ。打楽器の音符だとしても、一本も線がないのはおかしい。誰かが思いついた旋律を書き留めただけのメモを書き写したと言われたほうが、まだ納得できる。
つまりトリスターノは、ヴァイオリンで演奏可能な曲なのかすらわからない曲の音符に相応しい音を当て、演奏しろという無謀を通り越したこの難題を、二つの仕事をこなしながら一ヶ月程度で成し遂げろと言っているわけだ。ふざけているのか、としか言いようがない。
当然、インノツェンツァはトリスターノに猛抗議した。だが、権力の乱用を口にされては刃向かえないのである。本気でこの曲を演奏させたがっているのか疑いながら、インノツェンツァは帰路に就くしかなかった。
しかしここで、フィオレンツォが救いの手を差し伸べてくれた。
「……そういえば音楽史の講義で、王家には謎めいた音楽会を主催するならわしがあるらしいというのを聞いたことがあります。第二代国王ベルナルド一世の御代からで、以来、御代によって数に差はありますが、御代に必ず一度は行われているとか」
「え? そんな音楽会があるの? 私、初めて聞いたよ」
自分が知らない王家主催の音楽会があったことに、インノツェンツァは目を丸くした。
王城にいた頃のインノツェンツァは、王家主催の音楽会であれば大抵は出席していたし、そうでなくても存在くらいは知っていた。父子揃って宮廷音楽家であったのだから、当然だ。王家主催の音楽会で知らないものはないのだと、ずっと思い込んでいた。
「僕も初めて聞くね、そんな音楽会。謎めいたって、ただ演奏するだけじゃないのかい?」
「さあ。その教授は、講義で軽く触れただけでしたから……ただ、王族や王族に近しいごく一部の貴族が演奏者を擁立しておこなわれるものであるらしい、とは言っていました。インノツェンツァの話と合わせて考えると、この音楽会のことに思えてなりませんね」
「まあ、ここまで符合してると、当然だよね。……だからどうだって話でもあるけど」
フィレンツォの推測に、インノツェンツァは首肯しつつ半眼でぼやいた。
背景にあるものの断片は理解できたものの、そんな歴史的な事情があるならきちんと話せという話である。別に、隠すことでもないだろうに。事情を話しもせずに人を脅迫するやり口には、ただただ怒りしかない。
考えるほどに腹が立ってきて、インノツェンツァはとうとう吠えた。
「あーもうっなんでこんなめんどくさいこと私がしなきゃなんないわけっ? 王侯貴族絡みで演奏するつもりなんてさらっさらないのに脅迫されるし! しかも曲の音探しからしろって、そんなの無理だって! 大体、私のこと平民風情とかさんざん見下してたくせに! 王族だかなんだか知らないけど、一体何様よ! ふざけんなー!」
怒鳴っていると余計に怒りが湧いてきて、次から次へと言葉が漏れていく。一晩経っているというのに、怒りはまだ収まっていなかったらしい。
それ以外にも少々言いたいことをがなりたて、ようやく気が済んだインノツェンツァは、ぜいぜいと肩で息をした。そこにルイージがそろそろと水を差し出してくれる。我に返ったインノツェンツァは、フィオレンツォの冷ややかというよりは呆れた視線や、通りを行き交う人々の目を丸くした顔に気づき、恥ずかしさで真っ赤になりながらコップを受け取った。
その横で紅茶を一口飲んだフィオレンツォが、ちらりとインノツェンツァを見た。同い年なのに、彼のほうがよほど冷静で大人びている。
「……それで、どうするんですか。あのトリスターノ王子なら、彼が飽きるまで従わなければ、何をされるかわかったものではありませんよ」
「うん、そうなんだよね。……とりあえず音楽史の本あさって、神殿での音楽会のこと調べてみる。あとは宗教音楽もかな。……音楽理論のほうも、やんないと駄目かなあ……」
本に並ぶ難しい言葉と数字の羅列を思い浮かべ、インノツェンツァはがくりと肩を落とした。
トリスターノは亡き天才の娘だからとインノツェンツァに目をつけたようだが、生憎インノツェンツァに作曲や編曲の才能はない。興味や関心も薄い。インノツェンツァがヴァイオリンの演奏の他に情熱を注ぐのは、楽曲の奏法や作者の生涯、時代背景についての知識の習得だ。インノツェンツァに編曲を頼むのは、まったくのお門違いなのである。
トリスターノは、やはり人の上に立つ器ではない。次期国王でないのが、せめてもの救いだ。
「まあまあ、ここにも古い楽譜集はあるし、探したらこれに似た旋律の曲があるかもしれないよ」
「そうですね、それが今のところ、一番てっとり早いでしょうね……では、僕が音楽院でとったノートを貸しましょうか? 授業内容の中に、何か手がかりがあるかもしれません」
慰めるルイージに続き、フィオレンツォが提案してくれる。インノツェンツァはぱあっと顔を輝かせた。
「貸してくれるのっ?」
「え、ええ。今すぐというわけにはいきませんが――――」
「ありがとうフィオレンツォ!」
勢いにやや気圧された様子のフィオレンツォが言い終える前に、インノツェンツァは彼の両手を自分の胸の前でぎゅうっと握って感謝した。まさか彼が協力してくれるとは思わなかったのだ。いつも迷惑をかけているし、彼は学生であるし、我関せずを貫くとばかり思っていた。
「べっ別に、ノートを貸すだけです!」
「でもフィオレンツォのノートって、すごく見やすくてわかりやすくて好きだもん。細かいところまで書いてあるし。その音楽会についても手がかりが書いてあるかも。やっぱりフィオレンツォは賢くて優しいよね!」
今度はフィオレンツォが赤くなってそっぽを向くが、彼が協力してくれるのが嬉しいインノツェンツァは上機嫌なままだ。真っ暗だった目の前に小さな光が灯ったような気さえしていた。
几帳面で真面目で勉強熱心なフィオレンツォのノートを、国立図書館で鉢合わせたときにインノツェンツァは見ている。丁寧な字で書かれたページはどこを見ても簡潔かつわかりやすく、教科書の要点を的確に記し、講師が独自に補足した内容もそちらとは区別して付け加えてある。難しい言葉ばかりの本を時間をかけて読むより、彼のノートを見るほうが楽に違いない。
二人のやりとりをほのぼのと見ていたルイージは、のんびりと言う。
「僕も少し調べてみるよ。近々備品を納入しに行くところだから、音楽院の教授たちに詳しい話を聞けると思うよ。フィオレンツォ君は講義で、あまり自由にあちこち行けないだろうし」
「ルイージさんも? ありがとうございます」
「可愛い店員のためだからね。私もその音楽会について気になるし。王族の秘密を探るなんて、小説の主人公みたいじゃないか」
冗談めかしてルイージは言う。助けてくれるのが嬉しくて、インノツェンツァは満面の笑顔を向けた。
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