第9話 王子の思惑

 冷たい色をした石造りの廊下を歩いていると、赤い絨毯が見えた。それに安堵を覚え、踏みしめると安堵は一層増す。団長室の扉を開け、王族が使うに相応しい金縁の椅子に座り、トリスターノはつまらない仕事で溜まった疲れを吐き出すように長い息をついた。


 質実剛健とは随分よく言ったものだと、トリスターノは執務室と外の落差を感じるたびにしみじみ思う。どこもかしこもがごつごつとしていて、まったくもって華麗ではない。稽古場は野外の空気を存分に採り入れる造りだというのに汗臭さと埃っぽさがしみついていて、大声を開けて笑う下品な男たちの声もしょっちゅうだ。執務室も、今でこそトリスターノ好みの調度が揃えられ清潔に保たれているが、着任直後は質素を通り越して寒々しく、第二王子が住まうに相応しい、柔らかく贅沢で居心地が良い場所ではなかった。


 トリスターノにとって自分が住むべきなのは、王城か、それと同等以上の安全と快適が保証された場所に他ならない。大貴族出身の女性を母とし、第二王子として何不自由なく育った彼は、己の由緒正しい血統を誇っている。どんな願いも叶えられてしかるべきだと。そう信じて疑わない。

 だというのに、何故自分が、下々の者たちが暮らす町の治安を守る赤竜騎士団というどうでもいい組織の団長をしなければならないのか。トリスターノは着任前からそう憤っていて、早くこのくだらない役職を辞したいと常々思っていた。


 面倒な書類仕事をしていると、トリスターノはふと一枚の書類に目をとめた。最近巷間を賑わせている、通り魔に関する報告書だ。忌々しいそれを見下ろし、トリスターノは小鼻にしわを寄せた。


 インノツェンツァに言うことを聞かせる材料として利用した通り魔は、今まで城下全域で十人あまりを手にかけているが、その尻尾すらつかめていないのが現状だ。凶器や目撃者、その他犯人の手がかりとなりそうなものは髪の一筋たりともなく、性別すら不明。被害者も老若男女を問わず、職業も様々だ。だが巷ではどこをどうしたらそうなるのか、見目良い者が狙われやすいという、むしろ別の犯罪にありがちな傾向の風説が流れている。その噂をたまたま耳にしたとき、やはり庶民は愚かだと、トリスターノは鼻で笑ったものだった。


 トリスターノとしては、通り魔が何人殺そうとどうでもいい。どうせ被害者はトリスターノとは面識がない者ばかりで、唯一の顔見知りも、トリスターノの母親と対立する貴族夫人の縁者だったから、トリスターノの心を動かすことはなかったのだ。だからトリスターノは陣頭指揮を部下に任せ、自身は適当に事務をこなして日々を過ごしていた。

 だが、城下を恐怖に陥れる犯人は未だ捕らえられず、被害者が増えていくばかりであれば、そうも言っていられなくなる。自尊心が高いトリスターノが、貴族たちの嘲笑や父王の非難にいつまでも耐えられるはずもないのだ。騎士団員のトリスターノを見る目も、多くはここ最近、冷ややかなものに変わっている。自尊心を傷つけられるこの現状から逃れるためならいくら金を積んでもいいというのが、先日王家の音楽会の話を聞くまでのトリスターノの偽らざる心情だった。


 だからトリスターノは、王室が主催する、クレアーレ神殿で行われる音楽会での成功に賭けていた。謁見の席で父王は、重要な政策を推し進めるときのような熱意で、この催しはジュリオ一世の霊を慰め、精霊ならびに神々に捧げるためであると説き、現在国内にいる成人した王族全員と王族に近いごく一部の貴族に参加の意思を問いかけた。あの熱の入れようを鑑みれば、見事な演奏をした演奏者だけでなく擁立した者にも報奨が与えられる可能性が高い。ガレルーチェの王侯貴族にとって、音楽会で素晴らしい演奏をした者やその後援者に報奨を与えることは当然のことであり、与えられる者にとっては大変な栄誉なのだ。

 この習慣を利用すれば、トリスターノはあのフォルトゥナータを宮廷に連れ戻したという名誉を得て、そればかりか王族らしい、華やかで優雅な生活に戻ることができるかもしれない。それを取り戻すためならば、持てる権力を活用することに何の躊躇いがあろうか。


 今のところ、物事は順調に動いている。耳聡い王侯貴族が聞きつけて噂するだろうが、詳細についてはインノツェンツァに口止めしてあるから大丈夫だろう。彼女が口を閉ざす限り、トリスターノへの疑惑は疑惑でしかない。充分対処できる。


 通り魔についての報告書を適当に処理し、さらに他の書類も捌いていたトリスターノは、彼女に何も知らせていなかったことに気づいた。

 トリスターノが彼女に課したのは、五線も記号もない楽譜らしきものに書かれたジュリオ一世の‘曲’に音階を与え、曲として演奏することだ。手がかりが何もなくては、あんなものを曲に仕立てようがない。彼女には成功してもらわないと困るのである。資料くらいは渡してやるべきかもしれないと彼は考えた。

 ジュリオ一世やガレルーチェ建国当時の音楽事情、クレアーレ神殿についてなど、編曲の参考になりそうな資料をインノツェンツァに届けるようトリスターノは小間使いに命じ、下がらせた。そのあと、頬杖をついてまだ雨が降りやまない窓の外を見る。


 どんな雨もいつかはやみ太陽が大地を照らすように、自分の憂鬱な日々にも終わりが訪れないものか。自分の王族に相応しい優雅な未来が、宮廷演奏家という栄誉を捨てた庶民の小娘の双肩にかかっていることを腹立たしく思い、トリスターノは舌打ちした。

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