第10話 いつもの楽器店・一

「ただいまインノツェンツァ」

「おかえりなさい――て、ルイージさん、荷物危ないですってそれ!」


 客がいない合間を縫って“アマデウス”を弾いていたところ、耳が拾った音に誘われてそちらを見たインノツェンツァは、店の奥から荷物を両手に抱えてふらふらしながら歩いて来るルイージを見てぎょっとした。

 大慌てで“アマデウス”と楽弓をケースの上に置き、インノツェンツァは下の大きな木箱からずり落ちそうな二つの木箱を奪い取るようにしてカウンターへ移す。腕が楽になったルイージは、へらりと笑った。


「ありがとうインノツェンツァ」

「どういたしまして。ルイージさん、重いなら私を呼んでくださいよ。落としちゃ駄目なんですから」

「いやあ、演奏中だったから、悪いかなと思って」

「気を遣ってくれるのは嬉しいですけど、商品が優先です。店長なんだから、商売のこと考えないと」


 ただでさえ毎月赤字と黒字の間を行き来してるんですから、とインノツェンツァは指を突きつけてルイージに言う。帳簿付けを任されることも珍しくない彼女は、店の経営状態をよく把握しているのだ。これが、彼女が楽器に囲まれる日々を送りながらその幸福に浸かりきれず、彼に借金できないと思う理由の一因だった。


 ルイージが床に置いた木箱の一つに見慣れた焼き印を見つけ、先日注文していた備品が入っているのだろうと当たりをつけたインノツェンツァは、さっそく木箱を開けた。ルイージから渡された伝票と見比べながら、手早く確認していく。

 伝票どおりの数を確認したインノツェンツァは、品物の確認を自分に任せ、茶を飲みながらカウンターでまったりしているルイージに顔を向けた。


「ところでルイージさん。焼き印が入ってないほうの箱は何入ってるんですか? ギルドの話し合いに行っただけじゃなかったんですか?」

「うん。話し合いが早く終わったから、ボッティチェリとリベラルディの工房に寄ってね。新作のヴァイオリンと楽弓を買ってきたんだ」


 インノツェンツァが問いかれると、ルイージはにっこりと嬉しそうに報告した。


「新作ができたからって誘われて、見に行ったんだ。少し弾いてみたけど、とてもいい声の子でね。楽弓のほうも、軽いめのが好きな人にはぴったりだと思う。宝石細工も綺麗でね。どっちも美人だし、きっとすぐ良い持ち主に出会えるよ」


 君も試しに弾いてみなよ、その間に残りのお金を届けに行ってくるからと、音符を頭から飛ばしていそうな顔のルイージである。たまにしか金持ちが訪れない老舗で出会いも何もないでしょう、と内心でインノツェンツァはつっこんだ。毎度のことながら、楽器を人間扱いするひそかなこの変人ぶりにはため息をつきたくなる。

 インノツェンツァとてヴァイオリン奏者だから、名器と呼べるヴァイオリンが入荷したことはとても嬉しい。楽器店の従業員の特権を行使して是非とも試奏してみたいし、早くいい買い手がついてほしいとも思う。

 だが。


「…………ルイージさん、ちなみにお値段は…………」

「値段? ええと確か…………」


 インノツェンツァに尋ねられて首を傾けたルイージは、ポケットをあさって伝票を取り出した。手渡された紙切れに書かれた数字を見たインノツェンツァは、頭の中でざっと計算し、今月も帳簿に赤い数字を書くことになるのを覚悟する。ガレルーチェでも指折りの名工たちの名が出てきた時点で予想はしていたが、やはりとんでもなく高額だ。この価格では、『夕暮れ蔓』で今月中に売れるとは思えない。何年も置物になるのはほぼ確定である。


 いつかこの店が突然閉まるかもしれないという幾度目か知れない不安を頭の片隅に追いやり、インノツェンツァは仕入れた備品を店頭に並べることにした。ヴァイオリンを収めた木箱を開けようとしていたルイージは不満そうにえーと声を上げるが、無視する。置物になること請け合いの品々を展示するのはあとでいい。営業時間中に売れる商品を並べるほうが先だ。


 都合良く、若い男女の来店を告げるベルが鳴り、インノツェンツァとルイージの声が重なる。ヴィオラを購入しに来たという二人に声をかけられてその応対をするルイージの背をちらりと見やり、インノツェンツァはほっと息をつく。

 入荷した備品を棚に置きながら、店主が商品の説明をしている声を盗み聞きし、楽器を人間扱いするからこの人に外見を褒められてもあんまり嬉しくないんだよね、とある意味失礼なことをインノツェンツァは胸中で呟いた。あんなことがあったばかりなのにわざわざ来てくれた貴重な客にどん引かれ、逃げられるのは御免被りたいのである。


 二日前、クレアーレ神殿が所在する岩山の参道で、若い男の亡骸が見つかった。発見者は若者で、肝試しにと夜間は通行が禁止されている岩山へ忍び込んでいたところ、参道に無残な亡骸が転がっているのを発見、悲鳴を上げて麓にある見張りの詰所へ駆け込んだのだという。

 被害者はエテルノに所在するある神殿の若い神官で、上位の神官の使いでクレアーレ神殿へ向かっていたらしい。発見者の青年とその仲間たちは、赤龍騎士団員の事情聴取を受けたあと、聖域を穢そうとした罪で即刻逮捕された。


 今回の犯行は岩山だが、その麓に広がる下町はこれまでも二度、通り魔殺人の現場となっている。被害者の一人は下町の住民、もう一人は別の区域に住む小金持ちだった。それから間が空いて気が緩んでいたところ頭上で起きた惨劇は、決して他人事ではない。またこちらでも起こるのではないかという怯えた空気は、下町の奥に住むインノツェンツァが肌で感じていた。


 大通りから外れたところにある、下町同様岩山の影の中にあるこの楽器街も例外ではない。通り魔への恐怖の影響はよく表れており、今日も晴れているのに人通りは心なしか少ない。外部の人間が多く行き交う、不安がっている暇を与えてくれない大通りの空気から離れているからかもしれない。いつもなら等間隔にいる路上の演奏家の姿もまばらで、余計さみしい印象を強くする。一日中そんなふうで、まだたったの数日しか経っていないのだが、インノツェンツァは前からこんなふうだったのではないかと勘違いしそうになるくらいだった。


 そんな町の風景をガラス一枚向こうにして、備品を並べ終えたインノツェンツァは、休憩も兼ねて書類――トリスターノの使いだという男に渡された資料に目を通すことにした。今朝、出勤途中に暗がりから押しつけられたのだ。だったらもっと明るいところでというか最初から渡してよと、インノツェンツァが胸中で毒づいたことは言うまでもない。


 資料の一言一句に目を通したインノツェンツァは、しばらく無言だった。ルイージの助言を聞きながら選んだ男女のヴィオラと備品の清算を、深呼吸を繰り返してから笑顔を張りつけて済ませる。棚の整理をしながら横目で見ていたルイージが冷や汗をかいているのは無視した。


 インノツェンツァとしては、これでも怒りを抑えているつもりなのだ。あの男がわざわざ資料を渡してくるからには、普通に調べてはわからない情報があるのかもしれないと、多少は期待していたのである。むしろ、そうであるべきだと思っていた。


 だというのに一読してみれば、何のことはない。ジュリオ一世やベルナルド一世の功績や略歴年表、当時の音楽に関わる出来事、国立音楽資料館に展示されているジュリオ一世の楽譜の写しなどといった、少し調べればわかることばかりだったのだ。この地に遷都したあと、ジュリオ一世が国の主要建築物の設計に積極的に関与したことや、クレアーレ神殿はジュリオ一世の御代ではまったく手をつけられていなかったことも、調べればわかる話である。

 それだけではない。裁判所が建設される際、視察に訪れたジュリオ一世が『真実の色だから』と紫を裁判官の着衣もしくは装身具に用いるよう指示した逸話も、王家の逸話について詳しいマリオから聞いた覚えがある。――――早い話、トリスターノが寄こしてきた資料は、例の‘楽譜’がジュリオ一世のものであることを暗に示したいのだろうという推測しかできない、役立たずの紙くずだったわけである。


 肩書を盾に脅迫して言うことを聞かせておきながら編曲の資料を寄こそうとせず、持ってきたかと思えば編曲の役にほとんど立ちそうないものばかり。人を馬鹿にしているとしか思えない。一発でいいから殴りたいと、インノツェンツァは切に願った。

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