第2話 もう一つの職場

 エテルノの王城へ続く大通りの四つ辻には、杯と剣を蔦で囲んだ看板の店がある。『酒と剣亭』という、実に看板の意匠と一致した屋号の酒場だ。それなりに美味しい料理と酒を手頃な価格で提供していて、夕方から夜にかけては仕事帰りの人々で賑わう。特に祭りの季節には大勢の宿泊客でごった返す、都の巷間では有名な店だった。


 『夕暮れ蔓』を閉めた後。その店の裏を目指し、インノツェンツァは日が沈んで影が広がる夜闇に沈んでいくばかりの路地を走っていた。


「あーもうっ、なんでこんなときにステファンさんに捕まるかな……!」


 話がひたすら長いのだ、あの常連は。何度か話を切り上げようと試みてみたのだが、そのたびに却下されてしまい、結局、仕事帰りの奥方に助けてもらうまで話に付き合わなければならなかった。悪い人ではないのだが、あの状況を選ばない話好きはなんとかしてほしいというのが、インノツェンツァの切なる願いである。


 裏路地から出た大通りは、こんな時間でも、いやこの時間だからこそか大いに賑わっていた。通り全体に人の活気があるだけでなく、あちこちの店から湯気や料理のにおいが漂ってくる。


 それだけに、店と店の間にぽつんと建つ、こじんまりとした祠の存在はより一層際立つ。大通りの喧騒を知ったことではないとばかりに、熱心に祈りを捧げる女性の背中がインノツェンツァの目に一瞬映り、すぐ人ごみに紛れて視界から消えていった。


 祠に祀られているのは、神だ。この世界には幾柱もの神々が存在し、理に従って世界を巡る力や人類が認識している概念を司っているといわれている。この世界は、彼らによって秩序が保たれていると言っていい。ごくまれに発見される、甚大な力を秘めた石や樹木などは神の御業の痕跡と考えられており、人類はそれらを‘神の器’と呼び、畏怖していた。


 しかしそれとは別に、神が意図せぬところで、世界を流れる力がたまさか大自然の器に宿り、意志と知性が芽生えて生命となることがある。草木に炎に氷、花に岩に、さらには風にまで。器にそぐった姿をした、神にまつろわぬ生きた力――――精霊と呼ばれる生命体である。


 古には神々同様信仰されていた精霊は、研究や精霊を使役する魔法の発展に伴い、大陸の多くの国では神に次ぐものではなく、肉体を持たないただの生命体として扱われるようになった。しかし、精霊を愛した建国者の精神を色濃く受け継ぐガレルーチェでは、今でも信仰の対象だ。こうして神像と共に精霊像が祀られ、人々の心の拠りどころとなっているのは、この国では一般的な光景なのだった。


 楽器街の祠に、音楽を司る女神と共に祀られているのは当然と言うべきか、樹木の精霊ドライアドと土の精霊ノームである。女神に技量の上達祈願を、楽器の素材となった大自然の恵みに感謝をというわけだ。音楽を愛する国という国柄、ガレルーチェではドライアドとノームに対する信仰はとりわけ強いのである。


 マリオがああ言っていたしまた今度お祈りしといたほうがいいかな、と考えているうちに、インノツェンツァは『酒と剣亭』に到着した。裏口に駆け込んだインノツェンツァは、更衣室の自分専用棚に荷物を置き、荒い息を鎮め、手早く身なりを整えると、革製のヴァイオリンケースから‘アマデウス’を取り出してまた廊下へ出る。遅刻しているのだ。店主が今夜店にいないのはさいわいだが、一秒でも早くホールへ出ないといけない。


 勢いよく扉を開け、インノツェンツァは酒場のホール馴染み客や同僚たちに挨拶しながら、テーブルの合間を早足で歩く。

 物珍しげな一見客の視線を流していくと、次に彼女に向けられるのは舞台前に陣取る常連たちの、声援なのか野次なのかわからない声だ。今夜は、何度目か知れない遅刻をしたのである。当然ながら、それを冷やかす声が次々に上がる。


「よお、今日も遅刻か」

「小言は大人しく聞いたか?」

「お前が来る前、フィオレンツォの奴、ぶちぶち文句言ってたぞ」

「うん、さっそく目線で怒られた」


 眉を下げ、少女はがっくりと肩を落としてみせる。こうすると、彼らはのってくれるのだ。案の定、常連のむくつけき男たちはがははと大口を開けて笑い、インノツェンツァの頭を荒っぽく撫でたり背中を叩く。

 時々手荒すぎることもあるが、インノツェンツァは彼らにこうされるのが好きだ。今日もえへへと笑って大人しく甘受した。

 が、呑気にしていられるのはわずかな時間だけだった。


「……皆さん、あまり彼女を甘やかさないでくれませんか。甘えさせてもらえるからと、また遅刻しかねませんから」

「……」


 背後から聞こえてきたため息交じりの澄んだ声に、インノツェンツァはぎくりと肩を震わせた。ゆっくりと振り返れば、金の長髪を緩く束ねた、花に由来する名前どおりと評判の美少年、フィオレンツォが冷ややかな目をして立っている。


 まずい、とインノツェンツァは内心で冷や汗をかいた。

 今回は不可抗力なのであるが、インノツェンツァはこれまでにも、寝坊や忘れものといった理由で遅刻したことが何度もある。もちろん遅刻すまいと努力しているのだが、たまにそれが報われないことがあるのだ。この二年で、両手の指で足りない遅刻をしてまだインノツェンツァは辞めずに済んでいるのだから、懐の大きい店主には感謝しかない。

 ‘アマデウス’の首と楽弓を持ったまま、少女は同い年の少年に両手を合わせた。


「はいっ反省してますっ! だから許してフィオレンツォ」

「貴方のその科白を聞くのは何度目でしょうね、インノツェンツァ。いい加減、聞き飽きたのですが。店長もよく貴女をクビにしないものです。……ともかく、そろそろ出番ですから、早く舞台に上がってください」

「はいっ」


 フィオレンツォの機嫌を損ねないよう、インノツェンツァは何度も頷く。そして常連客たちの笑い声の中、踵を返した同い年の仕事仲間の後に続いた。

 舞台へ上がると、飲み食いしている客の姿がよく見える。その中にインノツェンツァは、視界の端に見慣れた人を見つけて思わずそちらを注視した。

 フィオレンツォも、同じ人物の姿を認めて眉をひそめた。


「あれはマリオさん? ウーゴさんと話なんて、珍しい組み合わせですね」

「ああ、私は断ったけど、頼みごとがあるみたいだよ? 編曲もできる演奏者を探してるんだって」

「編曲を? 確かにウーゴさんは音楽院の卒業生ですけど、編曲なんてできるんでしょうか……」

「だよねえ」


 あははとインノツェンツァは笑う。何しろ、胡麻髭としなやかな体格がまったく音楽家らしくないウーゴは、音楽院時代はあまり真面目ではなかったと豪語して憚らないのだ。それに彼は、音楽院を卒業して長い。編曲の講義を受講していたとしても、忘れているに違いない。

 だからなのか、ウーゴはへらりと笑って片手を振った。マリオが長い息をついたあたり、彼もあまり期待はしていなかったのだろう。話を切り上げて立ち上がった。


「やっぱりできないんだ。ってことは、次はフィオレンツォのところに来るかも」

「でしょうね」


 両腕を組んでフィオレンツォは息をつく。あまり興味がなさそうだ。


 そうこうするうちに、ウーゴが謝りながら舞台へ上がってきた。インノツェンツァは肩幅に両足を開くと、‘アマデウス’を片方の肩に乗せ、顎で挟んで首を持った。糸巻きから糸止めまでまっすぐに張られた弦に、楽弓を当て、呼吸を整える。


 三人が軽く音合わせをすると、酒場の雰囲気が微妙に変わった。ざわめきが少しだけ静まり、客たちの間に好奇や興味、期待が生まれ、空気に溶ける。

 音合わせを終え、舞台の真ん中に立つインノツェンツァがウーゴを振り向いて大きく頷く。それを受けて、ウーゴはチェロを弾き始めた。


 流れるのは、料理の匂いや体臭、談笑やかち合う食器やグラスの音がごちゃまぜの酒場に相応しい、音色底抜けに明るい旋律だ。フィオレンツォのヴィオラがそれに続いて重なり合えば、待っていましたとばかりに女性の熱烈な支持層が黄色い声をあげ、目を輝かせて見入る。


 そしてインノツェンツァが主旋律を奏で始めると、舞台前列のテーブルに座った常連の男たちが一層大きな歓声でそれを迎えた。前奏を聞き流していた者たちも、その囃子と素直で底抜けに明るいヴァイオリンの音色に心を惹かれ、舞台へ目を向けて曲に聞き入る。

 ますます盛り上がる酒場の熱気と陽気な音楽は外へとこぼれ、店の外を行き交う人々の目も店内へ一瞬でも向けられた。食事処を探していた者は、音色に惹かれて酒場の扉を押し開ける。


 酒場や食堂、宿から夜でも音楽が聞こえ、人々の心を動かしては誘う。音楽の都は今夜も音楽に満ちていた。

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