第3話 招きの雨・一


 マリオに注意されたものの、インノツェンツァは相変わらず呑気に働き詰めの日々を過ごした。

 何しろ、近頃巷を騒がせている通り魔は、若い美人しか狙わないともっぱらの噂なのである。それも、男も女も問わずだ。非常に悔しく悲しいことだが、自分が化粧をして身なりを整えたとしても、フィオレンツォやマリオのほうがよほど美人だとインノツェンツァは思っている。彼らが今のところは無事なのだから、平凡な容姿の自分など犯人の眼中にもないだろうという考えが、インノツェンツァを楽観視させていた。――――女として、そこで呑気にしているのはまずくないか、とも思っているのだが。


「僕は、充分君も可愛いと思うんだけどな」


 どうして自分より身近な男たちのほうが綺麗なのだと、天の理不尽な仕業について愚痴っていると、不意にそんな慰めの言葉がインノツェンツァの背後からかけられた。

 インノツェンツァは微妙な表情で、カウンター席に座る店主を振り返った。


「それはどうもルイージさん。お世辞でも嬉しいです」

「お世辞じゃないんだけどなあ」


 照れているようなひねくれているような反応に、店主――ルイージ・ヴィルジリオは苦笑し、まあいつものことだけど、と小さく笑った。

 しょっちゅう店を空けている割にはあまり焼けていない肌、首の後ろで括った茶色の髪、緑の瞳。鼻にかけた小さな眼鏡と、外見からして学者といったふうの男だ。年齢は、二十代から三十代くらいだろうということしかわからない。いつも気の抜けた笑みを浮かべていて、どうにも頼りない雰囲気である。――実際、ずっと年下で店員のインノツェンツァや常連のフィオレンツォに叱られることがしばしばあるのだが。雰囲気そのままに、間が抜けているのである。


「まあでも、本当に物騒で何が起こるかわからない世の中だからね。気をつけるに越したことはないよ。通り魔もそうだし、さっきお客さんから話を聞いたけど、病気も流行っているそうだよ。君のお母さんも気をつけないと」

「あ、そっちは大丈夫だって言ってました。なんか昔、親子揃って罹ったことがある病気みたいで。まだ抗体とかいうのがあるだろうから、平気なんだそうです」

「そう、ならいいんだけど。もし何かあったら、遠慮せずに僕に言うんだよ? お医者に診てもらうお金を貸すくらいのことはできるから」


 と、近くにいたからか、ルイージはインノツェンツァの頭を撫でながら言う。いい加減頭を撫でられても嬉しくない年齢なのだが、彼はよくこうしたがる。年齢が離れているからかもしれない。

 このお人好しも一歩間違えると危ないよね、とインノツェンツァは内心で思う。十四歳にして仕事を探していたインノツェンツァを、亡父が常連だったからというだけで雇ってくれたばかりか、『酒と剣亭』での仕事の紹介もしてくれたのは他ならぬルイージだ。その上まだインノツェンツァを助けるつもりなのだから、お人好しという他ない。ありがたく思うと同時に、彼に頼らないで済むようもっとしっかりしなくては、ともインノツェンツァは奮起するのだった。


 強い雨が降っているからか、今日の客足は常よりはるかに少ない。今こそ数組の客がいるが、彼らが来るまで店は開店休業状態だった。

 親子連れが声をかけてきたのでカウンターへ回り、インノツェンツァは少女が持っていた楽譜を受け取って清算しようとする。すると少女がねえ、と尋ねてきた。


「おねえちゃんも、ヴァイオリン弾くの?」


 そう尋ねてくる少女の目はきらきらしている。カウンターの上の、緋色の布を被せられたヴァイオリンと楽弓を見てだろう。インノツェンツァが首肯すると、さらに顔を輝かせた。手にしていたヴァイオリン用の楽譜をインノツェンツァに見せる。


「この曲ってどんな曲なの? 上手じゃなくても弾ける?」

「うーん、そうだねえ……曲そのものはそんなに難しくないと思うよ。凝った装飾もないし、すごく練習しなきゃ弾けないわけじゃないし。でも、曲を作った人の想いを表現するのは難しいかもしれないね」

「?」

「これは、モンタルバーノという人が、奥さんを亡くしたときに作った曲だから」

「悲しい曲なの?」


 と、少女はぱちぱちと目を瞬かせる。インノツェンツァは苦笑しながら頷くと、こういう曲だよと“アマデウス”を肩に乗せ、楽弓を構えて曲を演奏してみせた。

 むせび泣くように細く震える音が、緩やかに連なっていく。耳と指に神経を集中させ、音の震えが不快なものにならないよう気をつけながら綴るのは、悲しみであり痛みだ。唐突に訪れた別れを受け入れられない男の慟哭。作曲者がどれほど深く妻を愛していたのかがわかる逸話だけではなく、この曲が失った最愛の妻へ捧げられたものだということを初めて知ったときは、さみしいような切ないような気持ちになったものだった。


 弾けば弾くほどにインノツェンツァは、旋律が筆となって漆黒のキャンパスの上を様々な色で塗りあげ、一枚の絵画に仕上げていくのを見ているような気分になっていった。周囲の音は遠い。闇の中で描きあげられた絵は、鮮やかな色彩を所々に有しているがどこか陰を漂わせている。華やかなものを遠くから見つめる切なさやさみしさ、虚しさが見える。


 曲の前半部分を軽く演奏したところで、インノツェンツァは楽弓を止めた。すると二つの小さなものに加え、他の客の拍手が店内に響く。インノツェンツァがそちらに照れた顔で会釈していると、少女は目をきらきらさせてインノツェンツァに飛びついた。


「すっごーいおねえちゃん! とても上手だね! もしかして、有名なヴァイオリン奏者なの?」

「ううん、私は全然有名じゃないよ。ここと、『酒と剣亭』っていう酒場で弾いてるだけ。それよりどう? 弾けそう?」

「うーん、多分弾けると思うけど……なんか悲しくなるから嫌かも」


 少女は首を傾げ、むうと眉をしかめて考え込んだふうの顔をする。その表情がなんだかおかしくて、インノツェンツァはくすりと笑って少女の頭を撫でた。


「ヴァイオリンの先生が指定してるなら弾かなきゃ駄目だけど、そうじゃないならやめておくのもいいと思うよ。悲しいのを表現するのが難しいって言ってるうちに、つまらなくなるかもしれないし」

「うー、どうしよう……どっちがいいかなお母さん」


 買うか買うまいかと悩む少女が母親を振り返ると、母親は困った顔をしてそうねえと間延びした声を上げた。ヴァイオリンには詳しくないのかもしれない。しかし結局、楽譜は少女の手に渡ることになる。インノツェンツァが楽譜を紙袋に包んで渡すと少女はとても嬉しそうな顔をして、母親と共に店を出て行った。

 それを笑顔で見送るインノツェンツァを見てか、ルイージがくすりと笑った。


「やっぱり小さい子は好きなんだね」

「音楽が好きな子は好きですよ。ああいうふうに、曲について聞かれるのも嫌いじゃないですし」

「うちは六割方、初心者と子供がお客さんだしねえ。たまに君のお父さんみたいな、年季の入った常連さんが来るけど。……あ、そういや、ラーザさんにヴァイオリンの点検、十本を明日までにって頼まれていたんだった」

「それ、忘れちゃいけないことだと思うんですけど」


 ぽんと手のひらを打つルイージに、インノツェンツァは呆れた顔でつっこむ。『夕暮れ蔓』の常連であるヴァイオリン教室の老教師は、時間にうるさいのだ。指定した日までに終わらせなかったら、睨まれてしまう。


 さいわい、残っていた客は初心者用の一揃いを購入すると、先ほどの演奏を聞いてかインノツェンツァが働く酒場の住所を尋ねてすぐ立ち去ったし、するべき雑用も終わっている。ルイージとインノツェンツァは、店の奥の物置から十本のヴァイオリンケースを店内へ運んでくると、ヴァイオリンの点検を始めた。

 弦や駒、糸巻きといったヴァイオリンの各部分を丁寧に調べていく。狂っていれば正し、場合によっては新しい部品に替える。ヴァイオリンの弦や駒は消耗品なのだ。さすがに漆の塗り直しとなると職人に任せなければならないが、簡単な点検と部品の交換程度なら二人でもできる。商品を販売するだけでなく、依頼された弦楽器を点検し、必要があれば部品を交換するのも、『夕暮れ蔓』の仕事の一つなのだった。


 二人で手分けして十本のヴァイオリンの点検を終え、料金の計算も済ませたあと、暇を持て余したインノツェンツァはヴァイオリンの練習に励んだ。ルイージはそれを聞くともなしに聞きながら、読書をする。静かでのんびりとした、初夏の午後だった。

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