第一章 音楽会への招待状

第1話 友人からの依頼

「ありがとうございましたー」


 音楽をこよなく愛する国、ガレルーチェの王都・エテルノ。その片隅にある弦楽器専門店に、今日も今日とて唯一の店員である少女の声と、扉の上部につけられたベルの軽やかな音が響いた。


 探していた品を買うことができて満足そうな客を見送り、少女――インノツェンツァ・フォルトゥナータはまた書棚の掃除に戻った。装飾にと置かれた鏡に、先月、十六歳になったばかりのその姿が余すことなく映る。

 背の半ばまで届く烏羽の黒髪、夏に向けて芽吹く緑をそのまま写した色の瞳。特別背が高いわけでなければ、痣などの特徴があるわけでも、場に不似合いな服を着ているわけでも、造作が並外れて整っているわけでもない。人ごみに埋没する、十人並みの容姿の少女である。


 もう二組の客が店を出て棚の掃除も終わり、することがなくなったインノツェンツァは、店の奥の給湯室で紅茶を用意してカウンターの椅子に腰かけた。今日はいつもの安物ではなく、商品の仕入れに遠方へ出張中の店長が持ってきた高級紅茶だ。インノツェンツァには味の違いがよくわからないが、茶葉の容器がいかにも高価そうだった。


「あー、疲れた。今日は割と来るなー」


 大きく伸びをして、長息をついたついでにインノツェンツァはぼやいた。

 エテルノの一角、両隣の楽器店三軒分の広さはあるこの弦楽器専門店は、『夕暮れ蔓』と洒落た意匠の看板を下げている。弦楽器全般やその備品、楽譜を豊富に取り揃えていて、店内にはゆったりした雰囲気が流れ、内装も洒落ていると評判だ。初心者を中心に幅広い客層が訪れる、弦楽器の演奏者の間では知られた店だった。


 窓の外の街路も、楽器店や楽器工房、またそれらに関わる店が多く軒を連ねる通り――楽器街と呼ばれているだけあって、窓の外から見える街路には朝から何人もの演奏者が路上で演奏しては衆目を集めている。今演奏しているのは、ヴァイオリン弾きだ。店の中にいては動きを見ていることしかできないが、立ち止まる人の数や反応を見れば、それなりの技量なのだろうことは想像できる。


「……」


 人々の視線を集め、楽しそうにヴァイオリンを弾いている姿に引きずられたのか。インノツェンツァは紅茶を飲み干すと立ち上がり、カウンターへ向かった。物影から飴色の革が美しいヴァイオリンケースをカウンターの上に置き、深みのある艶やかな色合いが年月を感じさせるヴァイオリン――‘アマデウス’と、インノツェンツァの瞳と同じ新緑の宝石細工が目を引く楽弓を取り出す。


 木製の譜面台を立て、楽譜を置いてインノツェンツァは‘アマデウス’を構えると、伴奏を耳に思い浮かべながらインノツェンツァは楽弓を引いた。


 ゆっくりと音を連ね、五線に踊る音符を曲に仕立てていく。『夕暮れ蔓』のように洒落た場所で演奏されるに相応しい、優雅な音色と旋律だ。宮廷音楽家だったインノツェンツァの亡父が、貴族たちの求めに応じて作った曲。貴族の世界には馴染めなかったインノツェンツァだが、亡父が王侯貴族の世界で作った曲は好きだった。


 ‘アマデウス’で旋律を奏でるほどに、インノツェンツァの意識は周囲の風景から離れていった。今や全身の神経が、‘アマデウス’の音に集中している。音や旋律を間違えたり気に入らなかったりするごとにやり直すのだが、その合間も集中力は途切れない。目に見えるのは色づいた音符、耳に聞こえるのは己が奏でる音だけ。精神世界へ没入していた。


 色と音が散らばる世界に一人立っている心地で思う存分に弾いていると、インノツェンツァは唐突に衝撃を感じた。刹那、音の世界は崩壊して景色に変貌し、頭にじんじんと痛みを感じる。

 インノツェンツァは涙目になって、頭に痛みを与えた人物を睨みつけた。


「マリオ、何すんのよ! 人が気持ち良く弾いてるとこなのに」

「声をかけたのに反応しないお前が悪い。お前の集中力は生半可なものじゃないから仕事中はやめておけと、何度も言っているだろう」

「お客さんの声とベルの音だったらすぐ反応するよ。商品を買う気のない、嫌味な幼馴染みの声は聞こえないだけ」


 腕を組んで偉そうにする幼馴染みに負けじと、インノツェンツァは言い返す。滅茶苦茶だとわかっていたが、言い返さずにいられなかったのだ。


 明るい栗色の髪、漆黒の瞳、無駄な肉のない体格。安物の服を着こなしているが、貴族や豪商の生まれ育ちとしか思えない品の良さ、人に指示することに慣れた雰囲気は隠せない。立っているだけなのに華があり、端正な容貌とあいまって、女性の目を惹き寄せ釘付けにするのはそう珍しいことではない。


 このとおり、インノツェンツァとマリオ・ガレルヴェリアは二歳違いの幼馴染みだ。亡父の仕事の関係で幼い頃から付き合いがあり、貴族と庶民という身分の違いなんて気にせず、互いに言いたいことを言いあってきた。二年半前にインノツェンツァの父親が逝去し、しばらくしてインノツェンツァが母親と共に貴族社会を離れてからもそれは変わらない。むしろこうして、王侯貴族の一員であるマリオが庶民のふりをして街へ下りてくるくらいだった。


 インノツェンツァはカウンターに‘アマデウス’を置き、で、と口を開いた。


「マリオ、何しに来たの? 買い物しに来たわけじゃないでしょ? 無駄話に来ただけなら、さっさと帰ってほしいんだけど」

「…………音楽会の演奏者を探している」


 問いかけた途端、マリオはむっとした顔になって一言そう言った。インノツェンツァは目を瞬かせ、それから呆れた顔になる。


「だったら、貴族とか金持ちとかに呼びかけたらいいじゃん。それか、王立音楽院の有望株。マリオが声かけたら、何人も手を挙げるでしょ?」

「ただの演奏家では駄目だ。技術や知識だけではなく、想像力が不可欠だからな。お前は知識に偏りがあるが、技術と想像力の点では申し分ない。……出るつもりはないか」

「嫌」


 真顔で問いかけてくるマリオに、インノツェンツァは一瞬の迷いもなく即答した。考えることすらしない決断の速さにか、マリオは片方の頬をひくつかせる。


「迷うそぶりもないのか」

「だって、つまりは貴族だの豪商だのの前で弾けってことでしょ? 冗談。私はああいう世界にもう関わらないって決めてるの。別に今お金に困ってるってわけでもないし。第一、ここの店番頼まれてるもん」


 この『夕暮れ蔓』の店主であるルイージは現在、商品を仕入れに遠方へ出かけている。商売っ気があまりない店主は、インノツェンツァの都合に合わせて営業時間を決めればいいと言ってくれているが、店番を頼まれているのだから、きちんと仕事をしなければインノツェンツァの気が済まない。店番の自覚は一応あるのだ。

 だが、マリオも引けないらしい。彼にしては珍しく、食い下がってきた。


「おそらくは半日程度で終わる仕事だ。演奏だけでなく編曲もしなければならないから、報酬は弾む。ルイージさんなら、お前の都合に合わせてくれるだろう?」

「そこまでルイージさんにしてもらうのは悪いよ。それに、編曲は苦手だし。臨時収入は嬉しいけど……面倒なことになるかもしれないから、王侯貴族相手の音楽会で演奏するのはお断り。偉い人とかお金持ちに引き立てられたい音楽家なんていくらでもいるんだから、悪いけど他を当たってよ」


 繰り返し頼んでくるマリオに、インノツェンツァは改めて首を振る。それなりの報酬を出すと言っているし、この偉そうな幼馴染みがこんなに頼んでくるのだから聞いてやってもいいと思わないわけでもないが、やはり自分の仕事が大事だ。

 言葉を飾りもせず、率直に拒否するインノツェンツァの態度に、まったく出席する気がないと理解したのだろう。しばらく幼馴染みを見つめたマリオは、長い息を吐いた。


「…………わかった、今のは忘れてくれ。……悪かったな、こちらの音楽会に参加させようとしたりして」

「別に。マリオが突然私に無理難題か嫌味ふっかけてくるのは、いつものことだもん」


 と、インノツェンツァは肩をすくめる。それにしても、と続けた。


「私に音楽会に出るよう頼みに来るなんて、マリオらしくないね。私なら断るだろうって、わかってたでしょ。ウーゴやフィオレンツォに頼んでみたら?」


 ふと思いついたことをインノツェンツァが問うと、マリオはああと頷いた。


「もちろんそうするつもりだ。確か、ミケランジェリは音楽院の卒業生で、ガブリエリも現在在籍中なのだろう?」

「うん。フィオレンツォなんかいいんじゃない? 音楽院で成績上位らしいし」


 ぴ、と指を一本立てて、インノツェンツァは仕事仲間たちを推薦した。

 母との二人暮らしを支えるためインノツェンツァは、『夕暮れ蔓』ともう一つ、酒場で仕事を掛け持ちしている。『夕暮れ蔓』での稼ぎだけでも養っていけなくもないのだが、母はあまり身体が丈夫でないのだ。万一母が病気になった際にかかる費用のことを考えれば、少しでも金を蓄えておく必要があった。


 そのもう一つの職場での仕事仲間たちが在籍、あるいは在籍していた国立音楽院は、ガレルーチェの建国間もない頃に設立された、近隣諸国にも名の知れた音楽学校だ。入学試験から卒業試験までの厳しさは有名で、ここを卒業した肩書は国内外での音楽関係の就職に大きく役立つ。そんな名門の教育を施された二人――フィオレンツォ・ミケランジェリとウーゴ・ガブリエリにマリオが目をつけるのは、当然のことだろう。

 店を出ようとしていたマリオは、扉の前まで歩いてふとインノツェンツァを振り返った。


「……何もないだろうし無駄だとは思うが、身の周りに気をつけろ」

「いきなり何、そんな当たり前のこと」


 あんまり真剣な顔で言ってくるものだから、インノツェンツァは眉をひそめた。今の話のどこをどうすれば、そんな表情をする話になるというのか。


「まだ通り魔が捕まっていなくて、物騒だからな。お前のように平凡な容姿でも、気紛れに狙われないとは限らない」

「はあっ? 顔と声が良いだけの馬鹿ぼんに言われたくないしっ」


 ふんと鼻を鳴らして傲然と言われ、当然の如くインノツェンツァは眉を吊り上げる。そんないつもの反応を見てにやりと口の端を上げ、マリオは店から去った。

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