第四章 本当のこと

第18話 少年の願い・一

 『酒と剣亭』での仕事が早めに終わり、久しぶりに母親と夕食を共にした夜。机に突っ伏していたインノツェンツァは、ふと目が覚めた。


 しきりに目を瞬かせ擦りながら頭を上げると、音楽の専門書やあの‘楽譜’、何度も推敲した跡のあるノートが無造作に置かれ、月光に照らされた机が視界に入ってくる。ノートに書いた文字や音符を識別しようとするうち、眠気に負けてつい目を閉じてしまったことをインノツェンツァは思い出した。


 無理な姿勢で中途半端に眠ってしまっていたからか、まだ意識がぼうっとしている。すぐに作業に戻る気になれないインノツェンツァは、窓の外で月光に照らされる教会の尖塔の時計に目を向け、日付が変わって少し経っているのを確認した。編曲作業を初めてすぐに眠ってしまい、三十分くらいは経っているようだ。


 中途半端に眠ってしまったからか気だるい身体で大きく伸びをして、インノツェンツァはもう一度ノートを見下ろした。自然と笑みが浮かぶ。

 開いた当初は五線が引かれているだけだったノートの数ページには、今は音符と記号が整然と並んでいる。フィオレンツォに紹介してもらった学院の教授に音楽理論を教わり、ジュリオ一世が作った曲の傾向や当時の有名な曲も参考にして、インノツェンツァが努力した証だ。


 このままの速度で編曲作業が進めば、音楽会当日までにはどうにか仕上がるだろう。ほとんど練習できないのは不本意だが、仕方ない。痛快に思うことが二日前にあったばかりであるのも、インノツェンツァの気分がいい理由だった。


 当然である。トリスターノが北方へ追いやられることになったばかりか、あの通り魔の少年にお気に入りの杖を破壊されたなんて、大嫌いな男から脅迫されている身にとってはざまあみろ、な出来事でしかない。死んでしまえばいいとは思わないが一発くらいは殴りたかったので、通り魔の少年が代わりにしてくれたような気持ちでさえあった。巷でも、聡明な父王に似ず傲慢で傍若無人な第二王子に同情する声はほとんど聞かれない。それどころか、どうして彼のような悪人が生かされ、今までの被害者は殺されてしまったのだろうとさえささやかれていた。


 棚に置いたヴァイオリンケースが視界に入り、インノツェンツァは机へそれを持ってくると、留め金を外して蓋を開けた。

 ‘アマデウス’と楽弓を取り出し、インノツェンツァはそっと抱きしめた。反応は多分ないだろうなと思いながら、それでもと祈る気持ちで語りかける。


「ねえ、君たちの仲間はどこにいるの……? 私、君たちの仲間に……あの男の子にもう一度会いたいんだ。どうして人を殺すのか、そうまでして仲間を取り返そうとしているのか聞きたい。どうしたらもう人を殺さないでいてくれるのか……そのために、彼に会いたいの」


 あの少年はドライアドとノームに、仲間のもとへ帰りたくないのかと言っていた。だからきっと、彼は仲間を人間の手から取り戻すために窃盗をしていて、勢い余って人を殺めているのだろう。気持ちは立派だが、やりすぎだ。止めなければならない。

 あの少年が血に濡れるのを止めるために。これ以上誰か――――インノツェンツァの周囲の人々が殺されないために。彼の言い分を聞いて、説得する機会が欲しい。


「だから、彼に私が会いたがってるって伝えてくれないかな……?」


 小さな声でそっとささやき、教会や神殿で像に向かい祈るように、インノツェンツァは腕の中の精霊に祈った。愛器を抱く彼女の腕の力が自然と強くなり、鼓動の音を聞かせるように愛器を深く抱き込む。


 通り魔の少年と会えないか、インノツェンツァが大して賢くない頭で考えた結果が、この方法だった。あの夜、ドライアドとノームはインノツェンツァが呼びもしないのに現れ、救ってくれたのだ。それなら呼べば彼らはまた応えてくれるかもしれない、あの通り魔の少年を探してくれるかもしれないと考えたのである。まったくもって甘い見通しであるが、魔法使いではないインノツェンツァにできるのはこのくらいしかなかった。


 精霊たちがインノツェンツァの声に応えようとしてくれていることは、腕の中のぬくもりや脈動でわかるのだ。しかし、それだけでは彼らが何を伝えたいのか、インノツェンツァにはわからない。二年以上そばにいるのに精霊たちが言いたいことを理解することもできず、傷ついているのを黙って見ているしかないのが、インノツェンツァには堪えた。

 特に‘アマデウス’――ドライアドから伝わる脈動がやや速いことがインノツェンツァは気にかかってならない。あれから数日が経ち、‘アマデウス’に異変はなく音色が変わったりもしていないのだが、やはりあの傷が痛むのかもしれない。そのこともまた、インノツェンツァは心苦しく思っていた。

 だが、だからといって魔法使いに助けを求めるのは無理だ。通報されるか利用されるかがおちなのに、頼れるわけがない。インノツェンツァがあの少年を呼びたいのは、ドライアドの傷について文句と助けを言うためでもあった。


 しかし、いつまで経っても‘アマデウス’と楽弓に反応はない。通り魔の少年も現れない。やっぱり駄目か、とインノツェンツァは落胆した。


「……ごめん、無理を言って。怪我してるんだもんね、ゆっくり休んで」


 優しい声で精霊たちを労わり、インノツェンツァはヴァイオリンケースに‘アマデウス’と楽弓をしまうことにする。大事にすると少年に誓ったし、インノツェンツァ自身も大事にしたいのだ。

 けれど、ヴァイオリンケースの蓋を閉めようとしたそのときだった。


 ぽう、と‘アマデウス’と楽弓が淡い光に包まれたかと思うと、樹木の身の女性と、成人男性の身の丈以上はあるだろう宝石の鱗の蛇――――ドライアドとノームが現れた。宙に浮いたまま、優しい眼差しでインノツェンツァを見下ろす。

 どちらもやはり傷ついていたが、それを見る者の意識の外に追いやってしまう神秘的で穏やかさな空気をまとっている。ようやく見せてくれた彼らの反応と無事に、インノツェンツァは喜色を浮かべた。


 インノツェンツァに淡い笑みを向けたドライアドは、すい、と枝の指を窓へ向けた。インノツェンツァはつられて指の先を見つめる。

 次いで、ドライアドの隣でノームが鱗を逆立て、身を震わせる。すると、楽弓が脈打ち揺れた。ノームの身の明滅は宝石の脈動と連動し、部屋から日常の空気を消す。儀式を行う静寂に満ちた、森の奥の気配で部屋を満たしていく。


 ドライアドの指とノームの身の明滅が、縁の糸を導いていたのだろうか。何の前触れもなく、月光を受けてきらめく金髪の美少年が窓辺に姿を現した。両腕を組み、迷惑そうな顔をしてインノツェンツァを睨みつける。

 ぽかんとしていたインノツェンツァははっと我に返り、楽器を机の上に置くと慌てて窓を開けた。


「ちょっと、窓閉めてるとか、ありえないんだけど。こんな泥棒が入って来そうにないとこ、鍵かけなくたっていいじゃん」

「ご、ごめん……」


 開口一番に責められ、勢いに負けたインノツェンツァはとりあえず謝る。理不尽すぎる言い分だとわかっていても、頭のほうがついていかなくて反論できなかった。

 まったくもう、と言いながら少年は部屋の中に入ると、インノツェンツァの許可もなく椅子に座る。ドライアドが顔をしかめ、少年はいいじゃん別にと返したのは、宿るドライアドに少年がたしなめられたからかもしれない。

 少年は、で、と話を切り出した。


「彼らの気配に呼ばれて来たんだけど……おねえさん、なんか僕に用あるの?」

「えと、まず、なんで人を殺すのかなって。貴方は仲間――――精霊を取り戻したいだけなんでしょう? それなら、人を殺してまで器を奪う必要はないんじゃない?」


 そうインノツェンツァが率直に問いかけると、ぷいと少年は横を向いた。


「できるなら、そうするつもりだったんだよ。殺さないで済むなら、それに越したことはないし。でもどいつもこいつも、あんなに僕の仲間が帰りたいって言ってるのに、器を返してくれなかったんだ。精霊は、器から離れて生きていけない。連れて帰るには、器ごと返してもらうしかないんだ」

「え? でも、魔法で精霊を別のものに宿らせることができるらしいけど……君はできないの?」


 インノツェンツァが疑問を呈すると、これだから人間は野蛮なんだ、と少年は憤慨した。


「そんなことして、僕らが無事に済むわけないじゃないか。その器に宿ったから、僕らは僕らたりえてるんだから。元の器から切り離されたり器が傷ついたりして、僕らが大丈夫なわけないじゃん」

「……ごもっともです」


 両手を上げ、インノツェンツァは降参の意を示した。

 インノツェンツァは、人間の魔法では無理なことでも精霊ならば可能だと思っていたのだ。世界を巡る力により近い存在である彼らならばと。だが、どうやら違うらしい。

 そこでインノツェンツァは、事実を思いだした。


「って、貴方のせいでドライアドは怪我してるんだけど!」


 インノツェンツァはそう、噛みつくように少年に食ってかかった。何ともない顔をしているが、ドライアドはこの少年が生み出した鋭い鉱物で傷を負った。だからインノツェンツァは心配していたのだ。

 少年はぐ、と言葉に詰まって決まり悪そうな顔をした。顔色を窺うように、ドライアドに視線を移す。


「……怪我をさせたことは謝る。ごめん」


 先ほどまでの偉そうな態度はどこへやら、少年はあっさりと謝った。潔いその態度に、インノツェンツァはかえって拍子抜けする。なんだ、この態度の違いようは。

 一方のドライアドは緩々と首を振り、自分への危害を許した。それどころか、インノツェンツァの手を自分の胸元へ導くのだ。自分は大丈夫なのだとでも言うかのように。

 触れた手のひらからは、確かに‘アマデウス’から感じたものと同じ鼓動が伝わってくる。それでインノツェンツァはようやく安心し、安堵の息を吐いた。


「……それで、話を元に戻すけど。君は精霊たちをどこかへ連れて帰りたいみたいだけど、それはどうして? そもそも、君は何者なの? 精霊?」

「うん、僕はノームだよ。君の楽弓の細工に使われてるのと同じ、ね」


 と、少年は楽弓をくいくいと指差す。つられてインノツェンツァが目を向けると、とぐろを巻いていたノームはこくこくと頷いた。


「でも君、精霊って感じじゃないよね。人間みたい。祠や神殿に祀られてるのと全然違うよ」

「それは人間の勝手な思い込み! 器を傷つけられて本来の力が弱まったり失くしたりしてるからできないだけで、本来の力があれば、僕たちは人間に近い姿にもなれるの!」

「そ、そうなんだ……」


 これだから無知な人間は、とまたノームの少年は勝手にぷんすか怒る。音楽一筋なインノツェンツァはそんなこと知るもんかとまた内心いらっとしたが、心のうちに収める。さいわい、ドライアドとノームが抗議してくれている。それでインノツェンツァは心が晴れた。


 それにしても、この少年がノームの一人とは。つまり、下町の玄関口で女神の足元にひっそりと祀られている石は、彼と同種の存在を象っているわけである。そう考えた途端、インノツェンツァはあの祠のありがたみが暴落したような気がした。通り魔かつ窃盗犯、そして我が儘で生意気なこの少年が祠に祀られているものと同一なんて、あの界隈の信心深い人間が知れば嘆きたくなるだろう。それほど信心深いわけでもないインノツェンツァでさえそうなのだから。

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