第17話 王子と王女
「マリオお兄様! ようやく来てくださったのね!」
金の縁取りがされた白い扉を叩き、侍女の応えを受けてマリオが入室すると、間仕切りの向こうから幼い声が聞こえてきた。あらあらと笑いさざめく女官たちの笑い声や足音を連れて、明るい金髪の少女――イザベラが姿を現す。
色とりどりの待ち針がついた仮縫いのドレスを着たまま抱きついてこようとしたイザベラを直前で押し留め、マリオは彼女の両肩を掴んだ自分の両腕を離し、呆れた。
「イザベラ、先月で十三歳になったのだから、しとやかにできないのか。十三歳といえばもう立派な淑女だぞ。アルドロヴァンディ伯爵家のドロテーア嬢は」
「あの方はそういうふうに育てられているからでしょう? お父様とお母様は、このくらい元気なのがいいと仰ってくださったわ。お兄様は堅苦しすぎるのよ。それよりお兄様、こちらに来てくださったということは、インノツェンツァに会いに行かれたのよね?」
兄の説教を途中で遮り、イザベラは兄を見上げる。周りの侍女たちはいつものことと、顔を見合わせ苦笑しているばかりだ。相変わらずの我が儘ぶりにこぼれそうになるため息を喉に留め、額を押さえるマリオはああと頷いた。
たちまち顔を輝かせたイザベラは、仮縫いはもう終わったからと、侍女たちに茶の用意を命じた。ほどなくして、よく手入れされた庭園の一隅にテーブルと椅子が用意され、二人分の紅茶と茶請けが運ばれてくる。
すべての用意を終えた侍女が一礼して下がり、その姿が見えなくなったのを横目で確認すると、イザベラはすぐ口を開いた。
「それでお兄様、インノツェンツァの様子はどうだったの? 無事よね?」
「ああ、相変わらず城下で‘アマデウス’を弾いている。先日は彼女の家の近くに通り魔が出たそうだが、彼女には怪我ひとつないそうだ」
「よかった。今噂の通り魔って、庶民も貴族も関係なく殺すのでしょう? 不思議な黒光りする石で一息で喉をかき切ってしまっていて、狙われて助かった人は最近までいなかったそうだし。私、心配だったの」
「…………何故お前が、被害者たちの死因を知っているんだ」
安堵の表情をするイザベラだが、マリオとしては、妹が通り魔のそんなむごい所業を知っていることが驚きである。彼女を王女の地位に相応しい淑女とするべく心を尽くしている侍女や教師たちが、まさかそんなことを話しているとは思えない。
「庭で遊んでいるときに、警備の兵たちが話しているのを聞いたのよ。私に全然気づいていなかったわ。そんなことより、通り魔は昨夜も出たのでしょう? 何か手がかりを残しているの? 赤竜騎士団は今度こそ捕まえられそうなの?」
「……」
悪びれず白状するばかりか通り魔についてのさらなる情報を欲しがる妹に、マリオは頭が痛くなった。どこから説教をすればいいのかわからない。嫁いでいった姉たちは淑女の手本であるのに、この違いはどういうことだろうか。それに兵士たちも、王女の気配に気づかないとは気が弛みすぎだ。
ため息もできず、マリオはテーブルに片膝をついて頭を支えた。
「……いや、まだ捕まえていない。あれも、手がかりと言えるかどうか……」
「まあ、まだ捕まっていないだなんて! 赤竜騎士団は何をやっているの? やっぱりトリスターノお兄様を団長にするなんて、間違っていたんだわ」
「いや、手がかりがないなら、誰が団長でも捕まえようがないと思うが……」
「それでも、トリスターノお兄様が赤竜騎士団の団長なんておかしいわよ。民のことなんてどうでもいいと公言なさるような方だもの、手を抜いているに違いないわ。お父様も、一体何をお考えになったのかしら。解任が遅すぎるくらいだわ」
一応正論を述べるマリオだが、イザベラは聞く耳持たずで怒る。マリオもだが、イザベラもまた次兄とは折り合いが良くないのだ。生来の相性だけでなく、慕うインノツェンツァが彼に貶されているところを何度も目撃したからに違いない。
とはいえ、内心ではマリオも共感していた。父王が更生を願う気持ちも理解できなくもないが、失敗する可能性しかなかったし、赤竜騎士団長の人選はエテルノの民の安全に関わることなのである。もっと早くに解任させるべき、いやそもそも就任させるべきではなかったというのが、マリオの率直な気持ちだった。
皮肉なのは、犯人を逮捕できない責任をとって団長職を解任させられた夜に、トリスターノ自身がその通り魔に遭遇したことである。しかも、犯人の狙いが精霊を宿した宝石であったことを明らかにしたのだ。今までは、被害者が通り魔に物を盗まれたという話はあってもよくある話だとさして注目されたことはなかったが、トリスターノの一件を受けて赤竜騎士団が調査しなおしてみると、そうと知っていて精霊の器を所有していた被害者の存在が明らかになった。宮廷の名物税務官が獲物を見つけて生き生きしているというのが、最近マリオが側近から聞いた話である。
紅茶を一口飲むと、イザベラは真剣な顔で尋ねてきた。
「ねえ、マリオお兄様。トリスターノお兄様が証言したように、金髪の男の子が通り魔だったって思う?」
「なんとも言えないな。前々からそのような話は聞いていたが、金髪の子供の物乞いは都にいくらでもいるし、兄上の証言は信じがたいことばかりだ。だが、実際に兄上の杖は鋭利な刃物で切断されていたし、魔法使いが調べたところ、馬車には魔法とも違う力が使われた痕跡が残っているそうだ。これまでの通り魔事件のことと合わせて考えれば、犯人が人間ではない可能性は否定できない」
「嫌だわ、そんな子供の姿をした人ではないものが窃盗や殺人の犯人だなんて。いっそ魔物が闇夜に紛れて人知れず人を襲っていたほうが、まだわかりやすくていいわ」
「……」
イザベラは眉をしかめて言うが、マリオとしては、妹がそんな物騒なことを平気で口にしている事実のほうが信じがたい。というより信じたくなかった。王女らしからざる血生臭い発言の数々に、マリオはつっこむ気力が一気に失せる。どこをどうしたらそういう発想になるのか、考えたくない。
兄が自分の発言に衝撃を受けていることを知ってか知らずか、ねえマリオお兄様、と唐突にイザベラは言い出した。
「インノツェンツァを城で守ってあげられないかしら? 町は危険だもの。宮廷が嫌なら、離れか別荘で母君と一緒に匿えばいいのよ」
「いや、宮廷音楽家としての道は捨てたのだからと、断る気がするぞ。城下での仕事に愛着があるようだしな。しかも、思った以上に編曲をやる気になっている」
「……はあ、やっぱりそうよねえ、インノツェンツァだもの。筋金入りの音楽家なのよね。でも会いたいわ。トリスターノお兄様にまた嫌がらせをされないとも限らないし……トリスターノお兄様と通り魔の手から、インノツェンツァを守ってあげられたらいいのに」
と、イザベラは大きなため息をついた。どうやら彼女の中では、異母兄の一人は魔物と大差ないようだ。
イザベラとてわかっているのだろう。インノツェンツァは、王侯貴族の世界に馴染めず宮廷音楽家の肩書を捨てると決めたとき、下賜されていた最高級のヴァイオリンと楽弓を国王に返却した上で王城を出るような娘なのだ。その上、一度としてマリオたち親しい王族に泣きついてきたりもしなかった。そんな己なりの筋を通そうとする真面目な気性だからこそ、マリオもイザベラもインノツェンツァを大事な幼馴染みだと思っているのだ。
だからこそ、マリオは不肖の異母兄から守らせてもらえなかったことが腹立たしかった。イザベラも似たような思いであるに違いない。こんな周囲の気持ちにとっとと気づけ、とマリオは思わずにいられなかった。
「王城か別荘へ来てくれたなら、私もまたインノツェンツァとお話できるのに……やっぱりマリオお兄様、今度城下へ連れて行ってちょうだい。マリオお兄様だけがインノツェンツァと会えるなんて、ずるいわ」
「駄目だ。今の城下は危険だと前にも言っただろう」
「……じゃあ、危険じゃなくなったら連れて行ってちょうだい。今は我慢するわ」
ふくれた顔をして、イザベラは妥協案を出してくる。不満そうであるが、自分の身分や周囲への迷惑がわからないわけではないらしい。
妥協はしても結局は我を通そうとする妹にとうとう根負けして、マリオは両手を小さく上げて降参の意を示した。
「わかった。今度インノツェンツァに会わせてやるから、今のところは城で大人しくしてくれ」
「! よかった。約束よ、マリオお兄様!」
「ああ」
と、嬉しそうに念押しするイザベラにマリオは頷く。妹に対する自分の甘さに、内心でため息をつくしかなかった。
それから淑女の振る舞いについて妹に少々の説教をして部屋を辞したマリオは、自室へ向かった。
マリオが自室へ戻ると、侍従であるラツィオが笑顔で迎えてくれた。
「おかえりなさいませ、殿下。先ほど、リッカルディ大公が殿下をお探しになられていましたよ」
「叔父上が? 何の用だ?」
「さあ、それは聞いておりません」
「……まあいい。大事な用なら、あちらからまた出向いてくるだろう。少し休む。紅茶を用意してくれ」
マリオが命じると、ラツィオは一礼して下がる。それを見送らずマリオは執務机に座り、音楽会で演奏される曲の‘楽譜’の写しを執務机の引き出しから取り出し、見入った。
いつ見ても不思議な‘楽譜’である。一応は‘楽譜’として王家に受け継がれているそうだが、そうと知らない者が見れば、単なる意匠案か何かとしか思わないだろう。マリオとて父王に初めて見せられたとき、何の意匠なのかと思ったのだ。ヴァイオリンを嗜み、多少は音楽史も学んでいるだけに、これがジュリオ一世の楽譜であるとすぐには信じられなかった。
演奏者を擁立する前にマリオも、わずかな音楽の知識を頼りにこの‘楽譜’を何とか曲にしようと試みた。だが音を連ねれば連ねるほどおかしな具合になって、曲とは呼べないものになってしまうのだ。これで期日までに間に合うはずもない。自分には編曲の才能がないのだと諦め、フィオレンツォに紹介してもらった、王立音楽院の学生にこの‘楽譜’の複製を渡し、任せるしかなかった。
マリオがこれほどこの音楽会に固執しているのは、単なる先祖への敬意というだけではない。ジュリオ一世は希代の力を有したばかりか、精霊に認められた歴史上でも稀有な魔法使いだ。そんな人物が遺した暗号めいた秘曲が、普通の楽曲であるはずがないのである。何か大きな秘密を秘めているに違いない。父王から存在を聞かされたときから、マリオはそう確信していた。
楽曲が何か秘密を有しているなら、それを末裔たる現代の王族が発見し、管理するのは当然の義務だ。この音楽会は、マリオの王族としての義務感と好奇心を刺激してやまない。参加表明は、考えるまでもないことだった。
だから、羨ましい。編曲し演奏することを通して時空を超え、死者の遺志を辿ることができる幼馴染みが。自分ができなかったことに取り組む才能を持った者たちが。
もちろん、楽しいことばかりではなく、インノツェンツァが相当な努力と苦労を重ねて編曲作業に取り組んでいることはわかっている。朝から晩まで働き、その合間を縫い睡眠時間を削り、何冊もの本を広げて唸っている様子が目に浮かぶ。それが苦労でないはずがない。他の演奏者たちとて、この難問に悩んでいるはずだ。――――それでも、自分の力でジュリオ一世の遺志を辿ることができる演奏者たちが、マリオは羨ましいのだ。
音楽会までもうさほど日はなく、仮にその日を迎えても、ジュリオ一世の‘楽譜’の再現に誰かが成功するとは限らない。
確かなのは、ジュリオ一世のための音楽会と彼が書いた‘楽譜’に秘められた謎を解くのは、彼の子孫たるマリオではないということだけ。
先祖の謎を解くこともできず、何が子孫か。血を受け継ぎ音楽会への参加を表明していても、肝心な謎の解明には何一つ関与できない我が身が、マリオはただ歯がゆかった。
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