第16話 少年と王子

 トリスターノの不機嫌は、その夜、絶頂に達していた。


 トリスターノが荒い足取りで馬車に乗り込み扉が閉まると、彼が命じるまま、郊外にある赤竜騎士団の基地へ向けて馬車が動きだした。主だけが座する車内に、憤懣に満ち満ちた空気が充満する。


 今日の午前中、父王に呼ばれて王城へ登城したトリスターノは、王家主催の音楽会の参加後に赤竜騎士団の団長職を解任させられることになった。理由は言うまでもなく、通り魔を逮捕できないでいる責任をとってだ。特にやる気のなさを理由に挙げ、地位に相応しくないどころか団員にとって有害であると父王は断じていた。


 解任そのものについては、それほどトリスターノの機嫌を悪くすることではない。経歴に傷はついたが、城下の秩序の安寧というどうでもいい、汗をかかなければならない仕事から解放されるのである。喜ばしいことだ。


 結局はインノツェンツァに頼らないで済んだことも、トリスターノの機嫌を良くした。どうせ赤竜騎士団長解任に伴う諸々の後始末は、母の実家が色々と手を回してくれるのである。自分はただ城か自領でのんびりと時を過ごし、あの小娘が無駄骨を折らされたと激昂するさまを嘲笑えばいいと、トリスターノは内心でほくそ笑んだものだった。


 だが、父王はその直後、北部にある砦へ赴任するようトリスターノに命じた。厳しい寒さと幻想的な景色で知られるかの地は、その厳寒を手本にしたかのように規律が厳しいと、国内の騎士の間で有名だ。当然、優雅な暮らしなど望めるはずもない。そればかりか、この失脚話はトリスターノが通う高級娼館にまで早くも広まっていたのだ。ようやく苦痛から解放されると思ったら一転、トリスターノの約束された未来は、現状よりも悪化したのであった。


 こうなってはもう、なりふり構ってはいられない。なんとしてもあの小娘には音楽会で成功してもらい、父王に報奨を尋ねられたとき、トリスターノを宮廷に留めるよう言わせなければならない。不自然すぎる褒賞だが、さらなる悪評を気にしていられる余裕はトリスターノにはもうないのだ。どうやって厳格な叔父のもとでの苦役から逃れるか。トリスターノは、それしか考えられなかった。


 何故自分が犯罪者のように将来を案じなければならないのかと、トリスターノは憤った。自分は第二王子であり、大貴族の令嬢だった女性の子息なのである。生涯の安全と贅沢を保証されてしかるべきだ。なのに、どうして汗を流す労苦を押しつけられるのか。それがトリスターノは腹立たしかった。


 何もかもが上手くいかない。気に食わないと、トリスターノが不機嫌極まりない表情で黙り込んでいたときだった。

 唐突に馬車が止まった。随分早く着いたなと思ってトリスターノが窓を覗くと、窓の外に明かりは月と星ばかり。建物の明かりはなく、闇が広がっている。田園地帯の中で止まっているのは明らかだった。

 一体どこで止まっているんだと、トリスターノは御者を怒鳴りつけようとした。が、その前に馬車の扉が開き、トリスターノは一瞬ぎょっとした。


 何故か目の前に、十歳ほどの少年がいたのだ。それも、その手の嗜好の者なら舌なめずりをして侍らせようとするだろう容姿の持ち主である。

 トリスターノはそんな嗜好ではないし、下賤な者に構っている精神的余裕もない。尊大な口調で誰何した。


「なんだお前は。私が誰だと思っている」

「ねえ、その杖の宝石、返して。僕の仲間なんだ」


 トリスターノの機嫌など知らないというふうに、少年は微笑みを浮かべ、トリスターノが手にしている杖を指差した。

 堅い木材に黒漆を施し、最上級のルビーを嵌めたものだ。母方の祖父から誕生祝いに贈られたそれは、トリスターノの私物の中でもとりわけ高価なものだった。


 トリスターノの不機嫌はさらに募った。ただでさえ気分が悪い一日だというのに、その終わりがこれというのかという憤慨が胸中を満たし、息苦しいほどだ。


「なんだ、ただの物乞いか……さっさと消えろ。これは、お前のような下賤の者が持っていい代物じゃない」

「…………下賤? 誰が下賤なの?」


 少年の口調が、突然明確に変化した。浮かべていた微笑みはすうっと消え、冷たさもない完全な無表情になる。穏やかな色の瞳に怒りが宿り、夜のものである以上に冷たい空気が彼から放たれ、車内へ流れ込む。


 ここまできて、傲慢な性質に抑えつけられていたトリスターノの本能が、ようやく警鐘を鳴らした。これは危険な生き物だ、早くここから離れろと、頭の中でわめいている。

 トリスターノは全身でわめく声に従い、馬車の反対側の扉から逃げようとした。

 ――――――――しかし。


「――――」


 生き延びようとする本能のおかげなのか、トリスターノが無意識のうちに車内でしゃがみ込んだ瞬間。外気が彼の肌を撫でた。馬が高くいななき、振動が起きる。車輪と蹄の音は、駆けるときのそれだ。


 馬車が走り出していることを理解して、トリスターノはそろそろと頭を上げた。そして絶句する。

 車は、何故か上半分がどこかへ消えてしまっていて、幌のない荷車のようになっていた。欠けゆく月と散らばる星々が無造作に光を地上へこぼしている。視界の端には何故か御者の姿はなく、馬がものすごい速さで逃げるように疾走しているのが代わりに映る。


「ふうん、逃げ足だけは速いんだ」

「! ひっ……」


 背後からの声に体をすくませ振り返ったトリスターノは、馬車の壁だった縁に腰かける少年を認めて限界まで目を見開いた。月を背にして影になっているものの、少年が黒光りする石を持っているのがうっすらと確認できる。


 まさか、とトリスターノの脳裏に最悪の未来が描かれる。あの石が馬車を破壊し、自分の首をも刎ねる映像が詳細まで思い浮かぶ。

 唐突に、杖を持つ手が振動した。脈打つような振動は、音を立てて一度二度と繰り返される。まるでたった今、杖に命が宿ったかのようだ。本来冷たい感触であるはずなのに熱を持ち始め、ますます生命らしさを増していく。

 全身の震えが止まらないトリスターノに、少年はもう一度言う。


「ねえ、その子、返して?」

「……っ!」


 おそろしくて気持ち悪くて、トリスターノは悲鳴を上げるや、杖を少年に向けて放り投げた。みっともないなどという言葉は頭にない。ただただ、つえが忌まわしかった。

 少年は杖をこともなげに掴みとると、顔をしかめた。


「乱暴に扱わないでよ。ただでさえ傷ついてるのに、さらに傷ついたら大変じゃないか。……はあ、道理で逃げたがってるわけだよ。性格最悪そうだし。誰だって、こんなやつのところにいたくないよね」


 と、一人納得顔で少年が頷けば、そうでしょうというように杖は明滅を繰り返す。そのやりとりがまた不気味だった。

 少年が黒光りする石をその手から生み出し、短剣のように一閃すると、宝石を台座ごと杖から切り離した。


「こっちは要らないから、返すよ。じゃあね」


 そう軽やかに言葉を残し、トリスターノに杖を投げて寄こすと、少年は全力疾走する馬車から飛び下りた。

 トリスターノはそれを呆然と見ていたが、やがてはっと我に返って後方を見る。疾走する馬車から子供が飛び下りて無事で済むはずがないという常識が、今になって鎌首をもたげてきたのだ。


 だが、欠けゆく月とさやかな星の光だけでは、遠のくばかりの場所を見ることは叶わない。どんなに目を凝らしてみても、夜空の明るさと地上の暗さが際立つばかりだ。


 あの少年は一体何者だったのか。すっかり腰が抜けたトリスターノは動けず、夜闇を見つめることしかできない。

 馬車は砦をとうに過ぎ、走り疲れた馬がようやく足を緩め始めていた。

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