第12話 傷跡

小学6年の時、衝撃的なことがあった。なんと私がミミにかまれたのだ。

なぜそうなったかというと、まだまだスリムであった当時のミミは、脱走が大好きな犬だった。家の庭の出入り口には柵があったのだが、その柵の庭の中でミミは放し飼いになっていた。しっかり柵をしていても、ちょっとした隙間があればミミは頭を突っ込み、穴を掘り返し、身体を滑り込まして、その柵から抜け出すことがあった。どうも外が静かだと思っていると、隣りのおばちゃんがミミちゃんが脱走しているよと教えてくれて、慌てて捕まえに行くことが度々あった。


脱走して道路に飛び出し、バスを止めてしまったこともあったりと、ミミの脱走には、ほとほと困っていた。こちらからすると、しっかり柵もしてるし、逃げるはずがないと思っているのだが、ミミはあざ笑うかのように巧みに脱走を成功させた。ミミも自由に外に出たいという気持ちがあったらしく、脱走したミミは、そりゃあもう嬉しそうに走り回っている。私が捕まえようとすると、おいかけっこの遊びだと思ってるらしく、楽しそうに走り回って、なかなか捕まらないことが多々あった。犬だって、広いところで遊びたい。その表れだったのかなあと思う。


ミミの気持ちはさておき、ミミにかまれた日のことは今でも生々しく覚えている。その日の脱走は近所の家の庭に入り込んでしまうという、失態だった。しかもそこの庭にはその家で飼われている犬がいたのだ。そのせいで、ミミはいきりたって吠えていた。ミミは基本的に他の犬に危害を加えたりはしないのだが、だからと言っても犬である。他の犬の姿を見れば、当然のように吠えるのだ。しかし吠えたのはうちの犬だけじゃなかったのだ。そこの家のおばさんが、ヒステリックにわめき出したのだ。「早くなんとかしてよ!」とものすごい剣幕で怒り出したのだ。


それで私も慌ててミミを引きずり出そうと、ミミの身体にふれたとたん、がぶりと私の右手がかまれたのだ。ミミも吠えまくっていたので、我を忘れていたらしく、私にかみついた時のミミの顔はいつものミミではなく、鼻の上にしわを寄せ、ひきつった怖い形相をしていた。驚いた私だったが、かまれた私の手に激痛が走った。あまりの痛さに私は怒りを覚え、ミミをひっぱたいた。思い切り叩かれたミミもびっくりして一瞬怯えた表情をした。その隙にミミを引っ張り出し、なんとかその家の庭から連れ出したのだが、私の右手からは、たらたらと血が流れ落ちた。一緒に様子を見守っていた友達も、びっくりした顔をしていた。いつもかわいがっていたミミが、私にかみついたりするなんて思いもしなかったのだろう。友達は近よりがたい表情を浮かべていた。


それは私も同じことだった。ミミが私をかむなんて!絶対ありえないことだった。ミミに対する怒りとかまれた痛みでどうにかなりそうだった。家に帰った私はタオルでぐるぐる巻きにして止血した。母は仕事でまだ帰っていなかったので、私の異常な事態など知るはずもない。初めてみる自分の大量の血に私は驚きと恐怖を感じずにはいられなかった。しばらくじっとしていると、血はなんとか止まった。


それと同時に、母にミミにかまれたことを言うのが嫌だった。なぜか、私がいけないことをしたような後ろめたさを感じたのだ。それはそうだ。あんなに大量の血を流すほどの傷なのだ。何かあったらどうするんだと怒られるに違いないと思った。


なので手がじんじん痛んでいたが、母が帰ってきた時にはなんでもないような顔をしながら、実はミミにかまれてしまったことを淡々とつげた。病院に行かなくて平気なのかと母はきいてきたが、私は血はもう止まったから平気だと言ってのけた。

母は言った。「ミミが興奮してる時に手を出したりするからいけないのよ」と。


確かにその通りなのだ。ミミが悪いわけではないのだ。そう思うと余計何も言えなくなって、私は痛い手を抱え込んだ。まあ、血も止まったし、平気だろうとその時は思ったのだが、夜が更けるにつれて、痛みはじんじんから、ずきずきと痛み出したのだ。手はふくれて熱を持っていった。私はうんうんうなりながら、氷でその手を冷やした。そのうち手だけではなく、身体全体が熱くなって、私は熱でうなされた。自分から病院に行かなくていいと言ってしまった手前、言い出せなくて熱をこらえた。一瞬脳裏に狂犬病とかそんな病名が浮かんだりしたが、ミミはそんな病気にかかったこともないし、大丈夫だと思った。そうしてその夜が明けると、私の身体の熱は幸いなことに下がった。手の腫れも引き、私は元通りに戻った。と思っていたら、右手にくっきりとミミの歯形が残ってしまったのだ。いずれ消えるだろうと思っていたが、いつまで経ってもその傷跡は消えなかった。


ミミの歯形の跡は、いまだに私の右手にある。あの時私は、ミミの中にも野生の血があることを実感した。姉妹のように育っていたとしても、結局のところミミは犬なのだ。そこには野生の血が流れているのだ。幸いミミは狂犬病でもなんでもなかったから、よかったのだが、だとしても犬にかまれた場合はすぐに病院に行くべきである。たとえそれが飼い犬であっても、病院には必ず行って欲しいと、あの時のことを振り返るとそう思う。


いまだにミミにかまれた傷跡は残っている。苦い記憶ではあるが、ミミが生きていた確かな証になっている。そしてミミと私はこの傷跡でつながっている、そんな気がするのだ。

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