第3話「ニールスのふしぎな旅」
私が小学1年生だった頃、「ニルスのふしぎな旅」というアニメ番組があった。妖精に魔法をかけられ、小人になってしまった少年ニルスがガチョウのモルテンとともに雁の群と旅をして成長していく物語だ。私はそのアニメがことのほか好きで、毎週欠かさず見ていた。そのうち学研からマンガで「ニルスのふしぎな旅」が出ることを知ると、親にせがんで買ってもらうことにした。
本屋に行ってみると、学研から出ている「ニルスのふしぎな旅」は品切れで、お取り寄せになるという話だった。しかし子供だった私は今日どうしても欲しいと駄々をこねた。すると本屋の店員さんが岩波少年文庫から出ている原作の「ニールスのふしぎな旅」なら在庫がありますと言ってきた。見てみると、それはマンガとは程遠い分厚い文庫本だった。小学1年生ではとても読めそうもないびっしりとした字面の詰まった本だった。そしてアニメのタイトルでは「ニルス」になっているのにこの本では「ニールス」なのだ。それもなんだか気にくわなかったのだけれども、それでも今日どうしても欲しいのだという子供心にはかなわなかった。
親に本当にこれでいいのかと何度か尋ねられたが、私は頑なにうなずいた。
こうして私は初めての文庫本というものを手にすることになった。それまで読んでいた本といえば、絵本やページ数の少ない童話ばかりで、小説っぽいものは読んだことがなかった。しかもこの「ニールスのふしぎな旅」は上下巻ものだった。1冊でも読み切るのが大変な量なのに、私は上下巻で買ってもらった。
それから私の苦闘が始まった。まだ一年生だった私は黙読という技術を習得していなかった。ということで、一語ずつ音読という気の遠くなる作業をすることになった。しかしその前に立ちはだかったのは漢字だった。文庫本に掲載されていた漢字は小学4年生レベルぐらいの漢字なので、ふりがなが振ってあれば読めるが、振ってないと当然のように読めない。で、親に訊く。順調に読めても大きな声で読むので、親的には非常に迷惑だったに違いない。
けれども親に読み方を教わっても、想像できないことが多かった。たとえば、畑が市松模様になっていると描写されていても、市松模様ってなんだろうなあ??と首をかしげることばかりだった。いくら読めてもどんなものだかが分からないのだ。そういったことの連続で私の最初の文庫本体験は苦難だらけだった。もう主人公ニールスの活躍を楽しもうなんてものじゃない。ただひたすら字を追い続けるだけで精一杯。やっぱりマンガ版の方がよかったと思ったが、親に買ってもらった手前、それは言い出せなかった。
こうなったらなんとしてでも読み切る!そう思った私は一年かけてようやく読み終わった。アニメの放映だってもう終了である。結局がんばって読んだところで、一年生だった私には文章が難しすぎて物語の情景を思い浮かべることはできなかった。唯一の救いはたまに挿し絵が入っていて、そこで主人公の姿や物語の情景を確認し、ちょっとだけ楽しい気持ちになるぐらいだった。
小学一年だった頃の私の文庫本体験は正直楽しいものではなかった。じゃあ、なにも得るものはなかったのかと問われれば、そんなことはない。小学一年の割には、多くの漢字を覚えて、その後の読書へとつなぐことができたのだ。それとは別に、小説っぽいものを読んでいる自分は、なんだか大人になったような気がして、とても得意だったのを覚えている。結局大人のまねごとみたいなものが、私を分厚い文庫本に立ち向かわせていたのだ。
が、やはり本には読む対象年齢というものがあるのだと、その時の経験から、実感する。ちなみに「ニールスのふしぎな旅」はその後何度も読み返すことになるぐらいお気に入りの本になった。物語の情景を思い浮かべることができるようになったのは、やはり小学4年生ぐらいだった。その時ようやく本は本で面白いことにぶちあたり、私の読書体験は大きな転機をむかえることになる。とにもかくにも三度の飯よりも読書が好きな子へと変わっていくことになる。
そんな思い入れのある「ニールスのふしぎな旅(上)」が小学6年の時にミミにぼろぼろにされてしまったのだ。やっぱりこれは泣くに泣けないのだ。上巻はあまりにも見る影もない姿だったので、捨てざるを得なかった。今現在は下巻だけが、家に残っている。何十年も前の本なので紙は黄ばみ、古ぼけている。しかしなんだか捨てられない。小学一年だった頃の自分の気持ちがまだ残っているような気がして…。
ともかく「ニールスのふしぎな旅」は名作です。読まれてない方は一度ぜひ読んでみてください。
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