第2話(A)
「裏山の廃墟にね、出たんだって……幽霊」
隣のクラスで、そんな噂を聴いた。
家庭科の教科書を忘れて、赤崎さんに借りに来たとき。ついでに数学の宿題も写させてもらおうと思っていたとき。
「みんな、ああいう話が好きみたい。私はちょっと苦手なんだけど……」
気味が悪いのよ、と赤崎さんは言った。それから、家庭科の教科書を手渡してくれる。そのうえ、数学の宿題だけじゃなく、英語の宿題までおまけされていて、本当にもう、彼女には頭が上がらない。
「裏山かあ……昔はよく行ってた気がするけど」
「そうなの? ……意外だわ。アウトドアが好きなようには見えなかったから」
赤崎さんが目をぱちぱちと瞬かせたので、私は手を振って誤魔化した。確かに私の肌は生白いし、手脚も細いから、そんな風には見えないだろう。じっさい、アウトドアは好きではない。
ただ、私には裏山へ行く理由があり、それはちょっとした好き嫌いよりも大きかったのだ。
……ちょっとした好き嫌い? まあ、当時はそんな風には思っていなかった。
「赤崎さんは、あの山──
私の言葉を遮って、チャイムがきんこんと鳴った。ので、教科書とノートを脇に抱える。
「いつもありがとう、赤崎さん。今日なんか、英語の宿題まで」
いいのよ、と笑う赤崎さんの左腕には、いつも包帯が巻かれている。
学校の裏手には小高い山があり、頂上には大きな杉の木がある。そこにいつから聳えていたのか、誰も知らない木だ。杉の木というのは大人が言っていることで、実を言うと私は信じていない。あんな形の杉があるものか。
おかしいのは杉だけではない。大きな……ちょっと考えられないほど大きな虫がいたり、不法投棄された何かのタンクの中を烏賊が泳いでいたり、7本足の人影が行先を横切ったりする。そもそも植生も日本のものではない気がしてならない。つまり、あそこは違う世界なのだ。その深い緑の奥には常に何かが潜んでいて、私はその何者かが、じっと私を視ている気配が苦手だった。
ただ、私が感じる気配は生き物の気配であって、幽霊のものではない。と、思う。
「裏山の裏側に、誰も住んでない家があるでしょ? そこで昔、誰かが首を吊ったんだって……」
首吊り。
それが事実だとして、いったい何だというのか? 自殺した人間が幽霊になるなら、日本では年間数万人以上の速度で幽霊が発生し続けている。そこまで多いと、幽霊同士で繁殖を始めてもおかしくないのでは。
実際にはそうなっていない。あるいは、私に見えていないだけか。どちらにせよ、裏山だけが特別だと考える理由はないのだ。
……しかし私には、なんとも言えない嫌な思い出があった。
ああ、首吊りだ。いつか、昔の話だ。頂上の一本杉の下で、ロープに吊るされた何かが揺れていたのだ。
ぞっとしてすぐに逃げ帰ったので、あれが本当に人だったのかはわからない。杉の木は夕焼けの逆光で真っ黒だった。ただ、その後は何の音沙汰もなく……私の中では、あの記憶は幽霊のようなものになっている。
本当にあったのかさえ定かではない、そう……半ば夢に似た……。
明咲透子は実在しない 鉈音 @QB_natane
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