第43話 青い子猫


これは、短編として別の場所にあげていたものの改稿版。

一応、実体験ホラーなのである。



「ィ…………ィ…………ィ…………」


 微かな声を耳にしたのは、一緒に歩いていた三人のうち俺だけだった。

 その日も俺達は会社帰り、馬鹿話をしながら社員寮への道を歩いていたのだ。

 俺達の寮は、駅からほんの五百メートル。住宅街の中に建てられた武骨な古い建物で、車がすれ違うのがやっとの狭い路地のどんづまりに建っていた。

 どんづまり、とはいってもその向こうは石段になっていて、でっかい阪神競馬場の屋根が見える。

 休日ともなれば、赤エンピツを耳に挟み、細かく折りたたんだスポーツ新聞を睨みながら、期待に胸膨らませて歩くオヤジどもであふれかえる道だ。


「子猫だ。弱ってる」


 一定のリズムで鳴くこの声は、親猫を呼ぶ子猫のものだとすぐに分かった。

 しかし、か細い。『ミィ』の最初の『ミ』が聞こえないほどに。


「イヤ、何言ってるんスか。何も聞こえまへんで?」


 一緒に歩いていた同期入社の二人は、この声が聞こえないようだ。

 まあ、無理もない。あれだけうるさくしゃべっていたのに、俺の耳に届いたのが不思議なくらい、小さな声だったのだから。

 しかし、どこだ?

 声は小さいが近い。近いが、姿は見えない。

 どう対応するにせよ、確認したい。この声は助けを求めているのだから。

 俺は、何度かそのあたりを行ったり来たりして、声の場所を特定しようとした。


「……下だ」


 道路の脇には延々コンクリ製のU字溝があり、その上にはやはりコンクリ製のフタが乗っている。どうも、声はその下から聞こえてきているようだ。

 見たところ、子猫の入れそうな場所はどこにもないのだが…………。

 俺は、同期の友人達の制止を振り切って、重いコンクリのフタを持ち上げた。


「みぃ!」


 外気に触れたことを感じたのか、一際大きく鳴いた子猫。

 その毛色は、不思議な『青』だった。

 『青』といっても、本当のブルーではない。いわゆる青みがかった灰色である。

 ロシアンブルー、という品種の猫がいるが、あれをもっと青っぽくした感じ、といえば分かるだろうか。

 全身がその色の、ぽわぽわした毛に覆われたその猫の顔を見て、声があまりに弱く、か細かった理由を俺は理解した。

 目、鼻、口、そのすべてがカサブタと分泌物で固まっているのだ。むろん、目は開きようがなく、鼻は存在すら見えない。少しだけ開いた口で息ができているのが不思議なほどであった。


「…………」


 俺は何も言わずに子猫を抱き上げた。

 健康な若猫なら、放っておく。

 子猫でも、溝に落ちただけで、すぐ親猫に巡り会えそうな状態なら、放っておく。

 親猫が周りにいなさそうでも、毛づやと毛並みが良くて、すぐに拾い手が現れそうなら放っておく。

 だが、コイツは毛づやも毛並みも悪く、明らかに病気だ。

 俺が拾わなければ明日の朝までに死ぬ。だったら、拾うしかあるまい。


「……入り口の寮長、俺達が引き付けとくから」


 当然、社員寮はペット禁止。

 何も言わないのに、俺の覚悟をくみ取った友人二人は、そう言ってくれた。

 当時の俺達は、入社半年の新人だった。

 越してきたばかりでもあり、動物病院の場所も、ペットショップやホムセンの場所も知らない。

 とりあえず、俺の部屋に集合すると、段ボールにボロ布を入れて、簡易の寝床を作り、タウンページで動物病院を探し出した。携帯電話も、インターネットも、一般的ではなかった時代である。それ以外に調べようがなかった。


 連れて行った獣医師の診断結果は、良いものではなかった。

 濡れた消毒タオルで丁寧に顔を拭くと、子猫の目はどうやら潰れてはいないようだった。

 消耗して弱っているだけで、骨や筋肉などにも異常はない。

 だが、衰弱はかなり酷く、脱水症状を起こしている。また、熱も高い。

 目は潰れてはいないが、見えるかどうかは分からない。しかも、推測でしかないが生後一ヶ月以内。親から離すには早すぎ、上手く餌をとるかどうかも分からない。

 そして獣医師の話では、やはり、今夜が峠、ということであった。

 仮にミルクをうまく飲んでも、薬やミルクに内臓が耐えられず、下痢や嘔吐をすれば、体力的に耐えられない可能性が高い。

 たとえこの峠を越えても、何か病気に感染しているかも知れない。

 生き延びる確率は、五分五分以下。そういう診断だったのだ。

 とりあえず、抗生物質と栄養剤を打ってもらい、薬をもらって寮へ帰った。

 入り口で友人達が人垣になり、段ボールを抱えた俺を隠してくれたのは言うまでもない。

 友人達は子猫を心配して部屋にまで来てくれていたが、夜遅くなるとそれぞれの部屋へ帰って行った。

 俺は買ってきた子猫用ミルクを作り、人肌まで冷まし、子猫用ほ乳瓶で無理矢理飲ませた。

 吸い付く力など残っていないため、かなり時間は掛かったが、何とか少しだけ飲んでくれてホッとした。

 吹き出てくる目やにを何度も拭き取ると、安心したのか子猫はようやく眠り始めた。だが、なんだかそのまま死んでしまいそうな気がして、子猫の傍から離れられないまま、俺もいつの間にか眠ってしまったらしい。

 子猫の眠る段ボールを抱えるようにして、頭を入り口の扉に向けたまま、かなり不自然な格好で。

 だが、それが恐ろしいことを呼び寄せるとは、思ってもいなかった。



 真夜中。


 廊下を何者かが歩く音で目が覚めた。


『ずるっちゃ……ずるっちゃ……』


 そんな感じのおかしな足音。

 いつも聞く、となりの先輩・T山さんの足音ではない。皆が使っているサンダルでも、靴でもない。

 喩えるなら、濡れたぞうきんの音に近い感じか。

 T山さん、現場で川にでも落ちたんだろうか? そんな風に思いながら耳をそばだてていると、なんと、その足音はT山さんの部屋を通り過ぎ、俺の部屋の前で止まったのだ。


(ハァ? なになになに? 俺の部屋に何の用? もしかして階間違い?)


 たまにあるのだ。

 酔って帰ってきた社員が、三階と四階、あるいは二階と三階を間違えて他人の部屋に入ってしまうことが。

 そう思ったが、どうせ部屋の鍵は掛かっているし……イヤ待て。

 しまった。俺、うたた寝しちまったんだ。だから鍵は掛けてない。

 間違えて誰かが入ってきたら、どうしよう。

 と、思う間もなく、部屋の戸が乱暴に引き開けられた。

 軽い木製の木戸である。

 それをあっさり引き開けた『何か』は、入り口に立っているようだった。

 そう、『誰か』ではない『何か』だ。俺はその瞬間、それを肌で感じ、とてつもない恐怖に襲われた。


(なんっつー視線だ)


 そいつがこっちを食い入るように見ている。

 それが、皮膚感覚で分かるのだ。視線が突き刺さる、というのは、こういう事を言うのであろうか。

 しかも、それと同時に見えない力が俺を上から押さえ付け始めた。

 不自然な格好で寝こけたまま、手足、頭を無理に動かそうとするが、無理。体をゆすったりずらしたり、声は出せても、立つことも目を開けることも出来ない。

 そいつが一歩、部屋の中へ踏み込んできた。


(うおえ……何この臭い……)


 凄まじい悪臭だ。生臭いのとも、かび臭いのとも違う。そう、これは、獣の息。

 人間の口臭でもない。

 何か人外のものの息づかいと、それの発する生温かい息が、俺の顔近くに……いや、俺の顔じゃない。コイツが顔を寄せているのは……この子猫。

 俺が抱きかかえるようにしている、段ボールの中の子猫だ。

 その何者かは、子猫の様子を窺うように、顔を近づけているのだと分かった。

 それにしても凄まじい威圧感。殺される……のか?

 と、思った次の瞬間。突き刺すような視線とその威圧感が、ふうっと薄らいだ。

 そしてその『何か』は、すっと廊下へ戻ると、また引き戸をがらがらぴしゃっと閉め、あの濡れた足音を響かせながら、廊下を帰っていった。

 ようやく体は動くようになったものの、あまりの恐怖に、俺はそいつを確認しに行く気は起きず、そのままそっと鍵を閉めて電気を点けた。


『みぃ……』


 青い子猫は、何事もなかったかのように、こちらを向いて鳴いていた。


「おまえ……目、見えるのか?」


 不思議なことに、子猫の目から目やにはほとんど消えていた。

 そして子猫は、俺を見つめて鳴いていたのであった。


 翌日から、子猫は劇的に回復した。

 寮長は俺達が会社に行っている間、いつも部屋を勝手にチェックするのだが、散らかり放題の六畳一間は、隠れ家だらけ。用心深い子猫はうまく潜み、見つかることはなかった。

 そして、あのような怪現象も一度きりで、二度と起きることはなかったのである。

 子猫の名は「シャクティ」とした。

 理由は、その頃、少し気になっていた女の子の名前が○○○ちゃんであったからである。だからって、なぜシャクティにしたかは、「機動戦士Vガンダム」を知らないヤツにはサッパリ分からないのだが。

 三ヶ月ほど一緒に暮らし、その○○○ちゃん達と行った九州の生き物採集旅行にも、シャクティを連れて行った。

 キャンプの火に照らされ、青い不思議な子猫・シャクティを抱き上げる、美少女・○○○ちゃん。

 実に幻想的で絵になる情景だった。

 さすがに社員寮で、成猫まで飼い続けるわけにはいかなかったから、ぜひ彼女にもらって欲しかったのだが、彼女は猫を飼える家庭状況でなかった。

 結局、別の後輩女子に頼んで引き取ってもらうことになった。

 むろん寮を出たら、もう一度引き取り直そうと思っていたのだが、それから数ヶ月後、シャクティは引取先から失踪した。

 そして結局、二度と戻っては来なかったのである。

 しばらくして、似た猫が、国道で車に跳ねられて死んでいた、と別の人から聞いた。あんな色の猫、他にはいないからたぶんそうだろう、と、皆は言ったが、俺は死んだなんて信じていない。

 不思議な青い子猫、シャクティ。

 あいつはきっと、異世界から落ちてきた魔獣の子だったのだ。

 だからあの夜、見に来たのは親だったのだ。

 たぶん、いや、きっとシャクティは青い魔獣に成長して、今もどこか異世界で暮らしているのだ。


 俺は、そう思うようにしている。

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