第38話 ショウジョウバエ

 前項でショウジョウバエが増えて困る、ということを書いた。

 本格的にカブトやクワガタを飼育している人の大半は、この小さな虫に悩まされていると思う。

 しかしこのショウジョウバエってのも、小型両生爬虫類、肉食性昆虫の餌としては、実に有効な生物である。

 体の小さい、あるいは口の小さい生物にショウジョウバエはかなり便利に使える。変態したばかりのカエル、孵化したばかりのカマキリなんかは、これがないと飼えないくらいである。

 コオロギの生まれたばかりの子を使う手もあるのだが、彼等はすぐに大きくなる。常に成虫のコオロギを飼い続けつつ、生まれた小さな子コオロギを回収し続けるというのは、実はかなりストレスの掛かる作業なのだ。

 

 さて。俺がショウジョウバエを初めて『飼った』のは、大学の実習であった。

 遺伝学実習。様々な形質を持つショウジョウバエ同士を掛け合わせ、その子供の形質を観察して、遺伝というものを学ぶ実習だ。

 ショウジョウバエの形質は様々で、先人達が無数の野生ショウジョウバエから選び出し、そういう遺伝形質のヤツを固定したハエたちだ。

 眼が明るい朱色のやつ、白いやつ、体の黒いやつ、羽のないやつ、眼が棒状になっていて見えないやつまでいた。そいつらを寒天とビール酵母とブドウ糖、腐敗防止のためのプロピオン酸などを規定量混ぜた培地で飼う。

 培地は材料を混ぜてグツグツ煮た後、専用の細長いガラス管に入れ止まり木になる濾紙を差し込んで固める。

 そういうのを何十個も作って、そこに未交尾のメスを選んで別系統のオスとペアになるように入れてやるのだ。すると、その子供に一定割合で親の性質を受け継ぐものが生まれるから、その数を数えて遺伝の法則を確認する。

 未交尾かどうか分からんだろ、と思われるかも知れないが、羽化後八時間以内はメスには交尾能力がない。つまり、幼虫が蛹になりだしたら毎日八時間以内おきに観察し、交尾前に取るわけだ。

 コレをバージン捕りという。俺達は「そろそろバージン狩りに行くかヒャッヒャッヒャッ」などと話しては、他学の学生達に妙な目で見られていた。

 八時間以内おき……やはり安全を見て六時間おきぐらいに見回ることになり、深夜や早朝に学内をうろつくことになる。

 同じ実習を取っている女子に頼られ、同行したりしているうちにできちゃうカップルもいた。たしかにチャンスといえばチャンスだったし、俺にもなんとなく頼ってきた女子がいたが、好きな子がいたのでわざと素っ気なくしてフラグを折った。

 片思いの彼女も同じ実習だったが、決して男なんかに頼ったりしない強い子だったからだ……いや、頼れない、弱みを見せられない不器用な子だったというのが真実かも知れないが。


 それにしても、魅力的だった。

 いや片思いの彼女の話じゃなく、羽のないショウジョウバエのことな。

 飛び回らないショウジョウバエなんて、理想的すぎる餌ではないか。それまでも、バナナを腐らせ、勝手にわいたショウジョウバエをカマキリの孵化子やアマガエルの餌にしたりしていたが、どうしても逃げてその辺を飛ぶ。

 クワガタやカブトのケースに侵入され、昆虫ゼリーに産卵されてしまうと、プラケを開けた途端に数百から数千も飛び立ち、部屋中が黒く見えるほど。

 生き物を飼う部屋で殺虫剤など使えないから、いちいちエタノール噴霧で撃ち落としたり、一晩中掛かって掃除機で吸い込んだりしたこともあるが、どっかに蛹があるのか次々に羽化してきて、いつまでもいなくならない。

 一番腹が立つのは醤油挿しのビン内に入り込むことだ。

 最後まで醤油を使って初めてビン底に黒く点々とハエの死体を発見するわけだが、その時にはもうハエエキスの充分に浸み出した醤油を使い切った後である。

 べつに毒ではないが、気分が悪い。ハエの味など一生知らなくともよいことだろう。

 どうも醤油に添加されている、あるいは発酵で発生するアルコールに引き寄せられるらしいが、俺の最も好きな食べ物は白ごはんでその次が醤油だからどうにも許せない。

 なんとか俺の部屋から羽付きショウジョウバエどもを駆逐して、羽なしショウジョウバエを培養したいと思ったものだ。

 だが当時は情報が無く、インターネットもあまり発達していなかった。

 実習後にこっそり持ち帰った羽なしショウジョウバエを培養しようにも、培養瓶も無ければ、プロピオン酸などの様々な培地用薬剤も入手できない。

 とりあえずそういうのナシで培地を作ってみたが、すぐにカビるし腐る。

 耐熱性のビンも入手できないからペットボトルでやったのだが、殺菌できないのだ。

 温度管理も難しい。野生の連中は、放っておくと勝手に自分の好きな温度の場所を選んで住み着くわけだが、ビンに入れて飼う場合にはそうはいかない。

 そうこうするうちに、野生のハエと混じり合ってしまい、いつの間にか羽のあるハエになってしまったりもした。

 学生時代は、結局それで羽なしショウジョウバエの飼育を諦め、羽付きの野生ショウジョウバエで様々な生き物を飼ったのであった。

 ところが社会人になってしばらくした頃、グツグツ煮る必要もないショウジョウバエ培地が売り出された。煮るタイプもあったが、かなり便利になりビンも入手できる。

 簡単で腐りにくい培地の作り方もネットで見かけるようになったので、もう一度チャレンジすることにした。

 もちろん、この時点で何の餌にするとか一切考えていない。

 とにかく羽なしショウジョウバエを飼うことが目的。上手く飼えるようになったら、それを餌にして何か面白い生き物を育ててみようって腹だ。

 さて、ネットで種親を取り寄せようとしたが、『羽なし』は売っていなくて『フライングレス』しか無かった。

 『フライングレス』てのは、羽はあるが羽を動かす筋肉が発達しないタイプで、飛べないだけ。まあ、そこんとこに拘りはないのでどっちでもいい。

 家中を飛び回って、妻に怒られなければそれでいいのだ。

 その頃、俺の飼育部屋から逃げ出した野生型ショウジョウバエたちは、醤油挿しはもちろん、風呂場や漬け物桶、流し台などあらゆる空間で弧を描き、妻をイライラさせていた。

 飛べないショウジョウバエを導入したからといって、野生型が全滅することなどないが、文句が出た時には『俺のショウジョウバエは飛べないもん、そいつら俺のじゃねえ』と稚拙な言い訳で回避するつもりでもあった。

 しかし驚いたのは腐敗防止の手段であった。固めた培地の表面にドライイースト、つまり生きた酵母菌を蒔くのである。

 腐らせないのではなく、無害な酵母菌を繁殖させてしまうことで他の菌が繁殖しにくくするというわけだ。たしかにこれなら殺菌が不充分でも、なんとかなる。

 頭の良いヤツもいるものだ。

 フライングレスショウジョウバエは数世代は順調に飼育できた。妻への言い訳にも使ったものの、それはもちろん一蹴されたが。

 だがその後、どうしても途中で個体数が細って結局全滅させてしまった。

 温度管理も完璧、カビもダニも出ていないのに何故なのかサッパリ分からなかった。

 原因は当時の俺には謎だったが、今なら分かる。失敗しないよう、出来るだけ大量に発生させようと、最初の種親をいつも十数匹入れていたせいだ。

 産み付けられる卵が多すぎ、あっという間に餌を食い尽くす上にビン内の酸素なども欠乏する。そんなんでは放置状態で二週間とか置いておけないし、幼虫が蛹化する前に死んでしまうわけだ。

 今なら……知識も付き、勤務先に研究室と称して私的空間を確保した今なら、ショウジョウバエの大量生産も可能なはず。恒温培養器インキュベータも入手の目処が付いているしな。

 フライングレスのショウジョウバエを大量に増やせたら、飼いたい生き物もたくさんいる。アオマルメヤモリだろ、ミドリヒキガエルだろ、コバルトヤドクガエルだろ、マオウハナカマキリだろ…………まあ、夢のまた夢だが。


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