第31話 ハクビシン

 これも飼育した話ではない。

 それどころか生きたハクビシンの話ですらないわけだが、クジラの項を読み返していてふと思い出したので書いてみることにした。

 しかし例によってグロ注意。特に食事中の方は、読み進めるのをご遠慮願いたい。


 大学一年の初夏。といえば、大学生活にも慣れてきて、連日自転車でその辺をうろついていた。どこまでいっても山がない、関東平野の独特の自然環境に興味があったからでもあるが、周囲にいわゆる都会的な遊びが出来るような施設も店もなかったということもある。とにかく車社会であって、ちょっと買い物するにしても、自転車で十分以上はかかるという状況だったのだ。

 ホームセンターなどという便利な店も当時は存在せず、六十センチ水槽一つ買うにも自転車で三十分以上かけて市街地にあるペットショップに行かねばならなかった。

 水槽なんか荷台に縛り付けようにも縛り付けられない。片手でハンドルを握り、もう片手で荷台に置いた水槽を押さえ、びゅんびゅん車の行き交う国道を帰ってきたものだった。

 大学内にはろくな店がなかったこともあって、市街地までは週一回以上は行っていたと思う。とはいえ、毎日の生活のための物資は充分学内で揃った。足りなかったのは飼育・栽培用具やそれを補助する資材、釣り具や網などの採集用具、漫画やアニメ関係のグッズばかり。つまり、趣味関係のモノばかりであった。

 

 その日も、俺はペットショップに行こうとどこまでも真っ直ぐな国道を、自転車で飛ばしていた。

 起伏はほとんど無いのだが、学校エリアを出てすぐに軽い上り坂があって、すぐ下りになる。そのあたりにさしかかった時だった。

 道路脇に、焦げ茶色の物体が転がっていることに気付いたのだ。

 よく見るまでもない。動物だ。

 道路の両脇は住宅街。この国道、よくネコが轢かれて死んでいることはあった。農耕地の真ん中を貫いているところでは、変態したばかりのアマガエルが延々と潰されていたこともあったが、こうもあからさまに『野生動物!!』が轢かれている状況には初めて出くわした。

 しかし、そいつがネコでもイヌでもないことは一見して分かったものの、野生動物としてもキツネでもタヌキでもなさそうだ。むろん、サイズや毛色、体型から見てウサギやイタチではあり得ない。跳ね飛ばされたあと、顔面から落ちたかどうかしたようで、顔の八割を路面にぴったり押しつけた状態で伏しているせいで、どんな生き物か分からないのだ。

 既に死後硬直が始まっていて、せんべいのように平たくなっていたが、興味を持ってひっくり返してみた。


「ああ……こいつはハクビシンや」


 もちろん見るのは初めてだった。だが図鑑では知っていたから、その特徴的な太い尻尾と顔の真ん中を通る白い線を見て、一発でそうだと分かった。

 さすが原野の中の某大学。こんなものまでいるのだな、と、その時は軽く考えてそのまま目的地へと自転車を飛ばしたのであった。

 左側通行を維持していけば、帰りはむろん国道の反対側を通るわけで、ハクビシンの死体のことなどすっかり忘れて学生寮へ戻った。

 その日は夕方からサークルのミーティングのある日であったから、購入してきた餌などを生物どもに与えて、そそくさとサークル棟へと向かった。

 入っていたサークルは「野生動物研究会」動物といっても野鳥観察が主で、哺乳類は見かけたらラッキー程度の活動。そんなだから女子率は比較的高く、ナンパ系オタクな先輩もいる。もちろん両生・爬虫類や魚類、昆虫などに興味を示すのは、俺以外には数えるほどしかいなかった。

 ミーティングの主な内容は、その週の活動報告と来週の活動予定。

 活動といっても鳥を見に行った報告ばかりである。正直俺としてはバードウォッチングなどあまり興味はなく、山道もぺちゃくちゃ喋りながら歩いていて、鳥が逃げてしまうと先輩によく怒られたものだ。ただ、目は足元をいつも見ていて、キノコや両生類、昆虫などを見つけては、鳥だらけの活動報告に一種異様な味わいを付け加えていたのであった。

 その日も俺の順番が回ってきたところで、ふとその日見かけたハクビシンのことを思い出し発表した。


「国道○○線を通っていたら、ハクビシンの轢死体がありました」


 俺は大したことだとは思っていなかったのだが、先輩方はそれを聞いて騒然となった。


「ハクビシンだって? 学内で見たことあるか?」


「ないな。タヌキかイヌの間違いじゃないのか」


「キツネなら何度か見たよ。タヌキもいる。それたぶんタヌキだね」


 その反応に、俺は少しカチンと来た。

 確かめもせずに想像で否定するなど、科学者にあるまじき態度ではないか。いや別に彼等は科学者ではなかったが。

 今ならスマホで写真を撮っておいて、それを見せてなるほどで終わる話だったのだろうが、当時は携帯どころか寮には固定電話すらない時代だった。


「絶対ハクビシンです!! そんなもん間違えたりしません」


「わかった。じゃあ見に行こうじゃないか。本当にハクビシンなら学内初確認だし」


 すぐにそういう話になったのは、さすがの行動力。

 しかし、ミーティングの後は楽しい食事の時間だ。いつも大人数で入れる店を選んでは、酒無しで宴会まがいの食事をするのが恒例なのである。

 その日も『ヂャンボソース焼きそば(仮称)』で有名な中華料理チェーンに繰り出し、たらふく食ってから現場へ向かった。

 余談だがこの『ヂャンボソース焼きそば(仮称)』は、まともなソース焼きそばの三倍以上という恐るべきボリュームと決して安定しない味が特徴であった。むろん美味しい時もあるのだが、たまに麺がまだらに白くなっていたり油とソースの分量を間違えたようで油まみれだったりと、完食には人並み外れた胃袋と無神経さが要求される料理なのだ。

 当時先輩から、これを十分以内で完食したら奢ってやると言われ、三分十八秒で完食して「野動研の胃袋」二代目という、よく分からない称号を獲得したこともある。

 量的には問題なかったのだが、味が単調で途中で飽きるのが最大の問題だった。それを解消しようとスープをすすったり、酢やラー油、胡椒を大量に振りかけて食った覚えがある。

 だが、そのイベントがあったのはその時ではない。

 とにかくさっさと食い終わって現場に行こうと、手近な店を選んだような記憶があるのみだ。

 現場に着いた頃には長い夏の日も落ちて既に暗くなっていたが、ハクビシンはすぐに見つかった。俺が発見した時のまま、道路脇に平たくなっていたのだ。


「うん。確かにハクビシンだね」


「疑って悪かった」


「じゃあ帰ろう」


「え? それだけッスか」


 勢い込んで見に来て、それで終わりってのはつまらない。その時俺はそう思ったのだ。


「確認したんだからいいでしょ?」


「でも、せっかくなら標本にするとか……」


「そうだな。確かに状態は悪くないし、それもいいかもな。じゃあやってみな」


 そう言って先輩方が差し出したのは、ゴミ袋。


「はあ?」


「僕の研究室にマイナス四十度になる冷凍庫があるから」


「冷凍しちゃうんスか?」


「冷凍しちゃえばいつでも標本に出来るじゃん? それまで預かっておいてあげるよ」


「え……俺一人でやるんスか?」


 てっきり先輩方もノッてくれるものと思っていた俺は少々ガッカリした。


「発見者でかつ言い出しっぺじゃないか。責任をとれよ」


 何の責任だか分からないが、その体育会系的ノリは当時のサークルを一定レベルで支配していたからイヤも応もない。俺はハクビシンの後ろ脚をつまんでゴミ袋に入れ、先輩の研究室まで同行して冷凍庫に入れてもらったのであった。


 もちろん話はコレで終わりではない。

 ここからが本番だ。

 このハクビシン、たしかに学内初確認であったものの、死体の状態の悪さやハクビシンを研究している人がいない、等の理由で先輩の研究室でどんどんお荷物になっていった。

 そして夏も過ぎ、秋が来てしばらく経ったある日、その先輩から言われたのだ。


「あのハクビシン。さすがに邪魔になったんで引き取ってくれないかな?」


 引き取れっていきなり言われても、正直心も設備も準備が出来ていない。

 その先輩は動物生態学所属だったから、設備と手を貸してくれるよう頼んでみたが、答えはにべもなかった。


「剥製標本? 俺は作ったことないなあ。だから設備もない。まあ、出来上がったらサークル室に置いておいて良いよ。今後の良い練習にはなるんじゃない?」


 百戦錬磨っぽいその先輩でさえやったことないことをやって、なんの練習になるかは不明だったが、そう言われればやってみたくもなってきた。だが、一人ではどうもアレなので、学生寮の友人数人に声を掛けてみると、こっちは意外にも乗り気なヤツが数名。

 まずは図書館をあさって『剥製の造り方』なる本を見つけ出す。

 なるほど、剥製作りには薬品と器具が必要らしい。だが、薬品といってもミョウバンと塩くらい。それならば薬局で簡単に手に入る。それ以外に必要だったのは、布団綿、針金、割り箸、紙粘土など。これらを使って肉を再現し、そこに皮を縫いつけるという手順なのだ。先輩は労力以外なら力になると言ってくださってはいたが、その必要もなかった。

 案外簡単な資材で出来るモノである。

 しかし皮を剥がすのに必要ということで、学内にある実験器具販売所で、手術用メスや手術用手袋、手術用の針と糸までも買い込んだのは少々調子に乗りすぎ立ったかも知れない。予定以上の出費となった。


 剥製の製作会場は、自分の住む学生寮の共用スペースにした。

 大学の実験室もそんなことでは貸してくれなさそうだったし、当時六畳一間であった自分の寮部屋は、横になる以外のスペースは水槽やケージで埋め尽くされていた。かといって、外でやると目立つし照明もないからだ。

 迷惑きわまりない、と思われる方もおられるだろうが、やむを得ない選択であったのだ。

 しかし共用スペースとは言っても、有効に利用している寮生は当時ほとんどいなかった。何しろ冷暖房もTVもなく、照明も暗く、薄汚れたソファーと得体の知れないカラーボックスが転がっているだけの場所だったのだから。たまに宴会場として使われているのは目にしたことはあったが、それだって開始前に十人がかりで大掃除してからだったようだ。

 

 ハクビシンはカチンコチンの状態で手元に戻ってきた。

 マイナス四十度はダテではなく、大学から持ち帰るまでの時間くらいでは融ける兆候も見当たらない。むしろくるんだ袋に霜が降りているのには驚いた。

 これではすぐには始められない。友人達がやって来るのにも少々時間があったし、準備を済ませておくことにした。

 ここに至って、俺ははたと気付いた。まだゼミ生ですらなかった俺は、白衣がないのだ。

 腐りかけた死体は衛生上、甚だ不潔だし病原体を持っている可能性もある。マスクくらいは市販のモノで良いだろうが、衣服をそんなことで無駄にしたくはない。

 俺が途方に暮れていると、もう友人達がやって来た。


「なんやそんなことか。コレ使えばええやん」


 彼等が持ってきたのは……ゴミ袋。それは、半透明で必要以上にでかく丈夫な、学内専用の巨大ゴミ袋であった。

 寮名を冠してO袋と通称されていたその袋は、頭から被ればたしかに大人一人がすっぽりと収まる。底に頭と手を出す穴を開け、腰のあたりを紐で縛れば、簡易防護服の完成だ。

 俺達は下着姿になってからゴミ袋を被り、顔にはマスク、頭にはタオルを巻いて作業を開始した。

 ダンボールの上にさらに厚く新聞紙を敷き、半解凍となったハクビシンを乗せる。

 メスは腹側から入れる。だが魚を捌くのとは違い、腹膜は破らない。

 必要なのは皮だけだし、内臓が出てきたらおそらく、とてもウザイことになるからだ。

 丁寧に皮だけに、ノドからヘソまで真っ直ぐ切れ込みを入れる。哺乳動物のお腹側は毛が少なくて切りやすい。これは後で縫い直すので丁寧に真っ直ぐ切る。

それから参考書通りに手足の方へも切れ込みを入れて、後足のあたりから皮を剥ぎ始めた。

 半解凍の死体は皮が剥ぎやすい。

 ぐいと皮を引っ張ると、筋肉を包む半透明の筋膜との間に空間が出来る。そこにメスを当てて更に引くと、ペリペリと音を立てて皮は剥がれていく。

 時間は経っていたがさすがはマイナス四十度。いわゆる腐臭はそれほどない。

 だが、甘ったるい熱帯果実の腐ったような臭いは強く漂っていた。おそらく、ジャコウネコ科であるハクビシンの特有の臭いなのだと思った覚えがある。

 後日、ハクビシンは中国八珍の一つになるほど美味な食材であると知った。果子狸クォツーリィと呼ばれ肉に独特の香りを持つというから、それだったのだろう。

 皮下脂肪をなるべく皮に残さないように、との注意書きがあったが、初夏だったせいかあまり皮下脂肪はなかった。引っ張ってメス、引っ張ってメスを繰り返していくうちに、手足回りは結構簡単に剥がれた。

 途中、何度か友人と交替。だが、頭部と尻尾は難しい。まず、頭部を俺が担当。

 口回りをどこまで皮と判断するか、耳の軟骨をどこまで残すか、など友人と相談しつつメスを進めていく。前頭部に行き当たった時、頭蓋骨がぐしゃっとなっていた。どうもこれが直接の死因ということらしい。

 目の回りも難しかったが、そこまでくればもう先は見えていた。


「うわ。グロ」


 思わず友人が引く。

 皮を剥かれ、筋肉組織と目玉丸出しで耳もなくつるりとなったハクビシンの頭部は、たしかにかなり怖い。だが、次はもっとイヤな作業が残っている。


「おい。そっち持って引っ張れ。尻尾の皮剥ぐぞ」


 ハクビシン特有の太い尻尾の中にも骨があり、もちろん肉もある。だから剥がなくてはならないのだが、切れ込みを入れると再生できそうにないので、力任せに引っ張ることにしたのだ。


「こっちぃ!? イヤだ。俺が皮の方を持つ。お前肉の方持て」


「俺だってイヤだ」


 状況がお分かりだろうか? 尻尾以外全身ズル向けのハクビシンと、尻尾以外は毛皮と化した方とを別々に持ち、引っ張って尻尾の皮を剥ごうというのだ。

 毛皮の方はまだしも肉の方はヌルヌルしてつかみづらいし、見た目も相当グロいわけである。

 一番楽なのは、皮と肉の間にメスを入れる役のヤツだ。

 三人がかりでエイエイやって、ようやく尻尾の皮は剥けた。むろん、このやり方では反転してしまっているので棒で突いて元に戻す。

 出来上がった毛皮は取り残した肉や脂肪を丁寧に掃除して、石けん水でよく洗い、ミョウバンと食塩の溶液につけ込んで、その日は解散となった。

 ミョウバン液は皮の部分はそのままでは腐るので、防腐処理するためのものだ。

 数日漬け込むことで、皮のタンパク質がミョウバンと反応して腐りにくくなるらしい。グロい肉の部分を観察、測定して、割り箸と布団綿、針金、たこ糸などで同じような形のモノを作っていくのも、俺の仕事となった。

 液に漬けっぱなしでは腐ってしまうので、皮がいい感じになったらすぐ本格的に剥製作りに取りかからなくてはならない

 まず、皮の内側に僅かに残っていた皮下脂肪を取り除く。最初はメスでやったが鋭すぎて穴が空いてしまうので、使い古しの包丁を使った。

 毛皮を作るなら、ここから「なめし」という工程にかかる。

 乾燥する時に縮んでしまうので、油を塗り込んで揉んだりして、縮まないようにするわけだ。

 だが、剥製の場合はミョウバン液に濡れた状態のままでいい。前述の布団綿や割り箸、針金で作ったものに毛皮を着せて縫い合わせれば、乾く段階でぎゅっと締まり、それらしくなるというわけだ。

 俺はそこまでの工程を一人でやった。

 何人かがかりでやるようなことでもなかったからだ。出来上がった剥製は、さすがに不格好であったが、初めてにしてはそれなりの形に仕上がったのだった。

 あとは乾燥させて、ガラス製の目などを入れるだけ。

 だが、部屋の中は極めて風通しが悪い。俺は部屋の外にハクビシンをぶら下げて乾かすことにした。そして、すっかり汚れたので風呂へ行くことにしたのであった。

 学生寮は共同浴場だ。手足を伸ばせる大浴場なのが嬉しいところ。

 サッパリした気分で風呂から帰ると自室のドアに貼り紙がしてある。そこには汚い字でこう書かれていた。


「窓の外にヘンなキのネコを吊さないでくれ 下の住人」


 『キのネコ』という表現はいまだに意味が分からないが、何のことを言っているかはすぐ分かった。

 ハクビシンの剥製だ。学生寮にはベランダがない。考えてみれば、俺の部屋の窓から数十センチぶら下げれば、下の階の窓にかかることになる。確認してみると、窓の上部ジャストの位置に彼の顔が来ていた。要するに上階からハクビシンがのぞき込んでいる格好だ。しかも、のぞき込んでいるハクビシンの目は布団綿で真っ白。

 風に揺れて窓にコンコン当たりでもすれば、安眠できる人間はまずいまい。

 これは悪いことをした。どうしようかと考えたが、建造物内ではもっと大きな騒ぎになるだろうし、なんとか外に干す以外にない。乾燥はここ数日が勝負なのだ。

 困った俺は、一階に住む友人に頼むことにした。

 皮を剥ぐ時にも手伝ってくれた同じ寮の友人。仮にM川としておこう。M川はこのキモイ依頼を快く引き受けてくれた。まあ、寮の窓なんか暑い時以外は滅多に開けないから、放っておけばいい、ってのもあったのだろう。俺もホッとしたのであった。

 だが、ことは俺達が思っている以上に重大化していた。

 翌日。M川がハクビシンをぶら下げて俺のところにやって来たのだ。もう一人の友人を連れて。


「すまん。はくたく。ちょっと無理」


「どうしたってんだ?」


「体育科のヤツらに言われてな」


「そうそう。ヤバかったんだぞ」


 二人の話はこうだった。

 ハクビシンを引き取ってもらった夜。M川の部屋のドアをノックする者がいる。

 誰かと思って出てみると、体格の良い学生達十数人に取り囲まれてしまった。


「お前ら……ネコ殺してるだろ?」


「ネコ?」


「とぼけんな。共用スペースで解剖してたのを見たってヤツが一杯いるんだ。今、窓の外にぶら下がってるだろ!?」


「ああ!!」


 M川はそこでようやく、それがハクビシンを指しているのだと気付いたらしい。

 これは勘違いなのだ。だから、説明すればすぐに誤解は解ける。そう思って部屋にとって返すと、ハクビシンを持って来た。


「ネコじゃないですよ。これはハクビシンといってですね……あれ?」


 戸口へ戻ると、たった今まで凄んできていた体育科の屈強な学生集団は、クモの子を散らすように逃げ去った後。きょとんとした顔で残っていたのは、ピンチと思って駆けつけた、もう一人の友人だけだったという。


「そういうわけで追い払えはしたんだが……妙な噂が立つと俺も住みにくくなるしな。返す」


 それに関してはすでに手遅れ、という気がしないでもなかったが、俺はハクビシンをもう一度引き取り直すことにした。だがこうなっては外に吊すのは諦めるしかない。結局ハクビシンは、自室の天井から吊すことになり、それから数ヶ月は訪れる人々を恐慌に陥らせるネタになったのであった。

 その後しばらくして、不気味な学生集団暗躍の噂が流れるようになる。

 その集団が寮内でネコを食べるために殺して捌いたとか、その際に全裸にゴミ袋を着ていたとか、毛皮は剥製にしたらしいとか、学内の野良猫が減ったのは、彼等のせいだとかいう類のものであった。

 事実と相当かけ離れていたが、アホらしいので敢えて否定もしなかった。卒業してからも別ルートで耳にしたので、数年は伝説として語り継がれたことは間違いないだろう。

 その後、当時珍しかったハクビシンも、すっかり定着して学内でも普通種になったと聞く。

 例のハクビシンの剥製は、半製品の標本のままサークルに寄付したが、その後破損が酷くなって廃棄されたらしい。

 先日、数十年ぶりに訪れた学生寮は若干改装されてはいたが、いまだに同じ建物であった。T大学学生寮・追-25号棟に住む学生達よ。そこの共用スペースはそういうことに使われた場所だ。

 天井からハクビシンの死体がぶら下がっていた俺の部屋は202号室なのでよろしく。


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