第26話 ヤシガニ

 そういやメインで書いていないな。とふと気付いたが、何故かといえば「オオウナギ」の項でもざっと触れているし、「きゃっち☆あんど☆いーと」の「マングローブの幸2」の項でノコギリガザミの一件とともにエピソードに触れているからである。

 しかも、このエッセイのテーマに反して、俺は一度も飼育していない。

 だが、いやというほど関わり合ったのも事実だから、一応書いておこうと思う。


 初めて西表島に行った時。ヤシガニはもともと、夜間ハイクの観察対象であった。

 巨大であり、食べられるとは知っていたが、中毒を起こすことがあるとも聞いていたし、積極的に食べるつもりはなかった。しかも、堅い椰子の実を穿り割る、凄まじいパワーのハサミも持つという。そんなバケモノを飼育するつもりもなく、ただ、珍しい生き物に出会うだけのつもりだったのだ。

 だが、西表島行きの話をしたところ、大学の同級生の甲殻類マニアの男が、ぜひともヤシガニを捕獲してきて欲しい、という。

 そいつはその時点ですでに『ゴシキエビ』と『カブトガニ』を飼育していた。とにかく甲殻類が好きなのだ。

その二年後にそいつは、甲殻類たちを引き連れてシェアハウスに引っ越すのだが、成長した『ゴシキエビ』のために、共用キッチンに百二十センチ水槽を設置するようなヤツだった。

 最強の陸上甲殻類・ヤシガニの生きたままでの捕獲……

 常識的に考えて断れば良かったのだが、その時、なんだか俺の中のハンター魂に火が付いた。

 ハンター魂は、狩猟本能というやつとはちょっと違う。狩猟本能が獲物を前にして発現する、一種異様な、普通ではない脳の興奮状態である。とするならば、ハンター魂はより強い敵を、あるいはより危険な冒険を求める……そう、例の少年漫画雑誌の主人公にありがちな、若者もしくは馬鹿者に特有の価値観のことだと言えよう


「そんなに強ぇヤツなら……オラ戦ってみてえ」


 要するに、そんな風に思ったということだ。

 未知の巨大甲殻類を、見るだけでなく捕獲する理由が出来た、というのは、俺にとっては逆に嬉しい事態であったわけだ。


 西表島に着いて一時間で、いきなり俺はヤシガニに遭遇した。

といっても野生ではなく、土産物屋の店先にロープで繋ぎ、おじさんが見せ物にしていた個体だ。


「危ないから近寄っちゃいかんよ」


とおじさんは言う。だが、そのヤシガニは思っていたよりかなり小さかった。

イメージとしては大人のゲンコツに長い歩脚が付いた感じである。さほど素早くも無さそうだし、後ろに回れば簡単につかめそうだ。俺は少し拍子抜けしつつ眺めていると、おじさんがニヤリと笑ってデモンストレーションを始めた。

 デモンストレーションといっても、古いボールペンをヤシガニに挟ませる、というだけのことだが、驚いたことに大して力を入れているようにも見えないのに、ボールペンはあっさりと切断されていく。

 恐るべき圧砕力。


「こんなのも割っちゃうよ?」


 感動している俺達に気をよくしたのか、おじさんは奥から棒状の枝サンゴを持ってきた。

 直径一センチ以上の枝サンゴは、ちょっとやそっとで折れるものではないはずだが、ヤシガニはそれも軽くへし折っていく。

 コイツと戦うことになるわけだ。少しぞっとしつつ、宿に戻った俺は、民宿の親父さんにヤシガニはどうやったら捕れるか聞いた。

 この後の下りは『オオウナギ』の項とダブるのでさっと流させていただくが、要するに餌で寄せろ、ということだった。ヤシガニのよく出る海岸沿いのジャングル、それも海に川が流れ込んでいるような場所に、ニワトリの餌を撒いておくと、それを食いに現れるのだという。

 俺達は、明るいうちに……とはいっても、既に薄暗くなりかけていたように思うが、親父さんに教わった場所にニワトリの餌をごっそり撒いて、夜を待ったのであった。

 民宿の夕食は美味であった。

 沖縄料理、というと大味で油っこく、クセがあるイメージが強かったのだが、その予想は良い方に大きく裏切られた。特に刺身が絶品。マグロが捕れる海だというのは、その時初めて知った。

六畳の部屋には押し入れすらなく、エアコンは一時間百円、風呂はなんとシャワーに金ダライが置いてあるだけ、というとんでもない設備の宿だったが、料理だけで言えば四つ星。親父さんの人柄と人懐こい犬、庭に住み着いたセマルハコガメを加味すると、堂々の五つ星クラスであったと思う。

 しかも、夜空は一面の星。それも、星灯りだけで本でも読めそうなほどだ。そのまま泡盛でもかっ食らって、語り明かしたい衝動に駆られるが、そうはいかない。

 俺達にはナイトハイク、そしてヤシガニ狩りという仕事が待っているのだ。

 部屋に戻って、用意してきたプラケ、バケツ、網などをチェック。むせかえるようなジャングルの熱気のただ中へ、俺達は出撃したのであった。

 ナイトハイク、といっても徒歩ではない。

 レンタカーで現場近くまで行き、そこからジャングルへと侵入する。まあ、ジャングルといっても、実際は牧場の敷地内。鉄条網をくぐって入り込むわけだが、民宿の親父さんから、入っても大丈夫な場所をあらかじめ聞いておいたから問題ない。

 ただ、牧場の一部ではあっても、誰もが普通に思い浮かべるような、短い草が一面に生えている草原ではないのだ。道路から柵を越えた途端、そこはアダンとクワズイモの密生地帯で、体中にひっかき傷を作りながらそれをくぐり抜けて降りていかねばならない。

そこから谷へ降りると渓流にぶつかり、それを海へ向かって数十m下った場所が、ヤシガニがよく出るポイントなのだ。

 渓流の中をのぞき込んだヤツが、声を上げる。


「うわぁッ!? 何か光ってるぞ!?」


 確かに赤いルビーをぶちまけたように、水底でいくつもの小さな点が、電灯の光を反射していた。拾い上げてみようとして手を入れると、それが一瞬にして逃げた。生き物なのだ。


「うお、これ、アレや。コンジンテナガエビ」


 水中をしっかり照らしてようやく正体が分かった。南方特有の大型淡水エビなのだ。日中にも何匹か見かけたが、本来夜行性であるらしい。しかし、こんな細い渓流に、これほどたくさん隠れていたとは思いもしなかった。

 食いでがありそうなので、捕獲しようかとも思ったが、そういう準備はしてきていなかった。なにより親父さんから牧場下の川は、牛糞で汚染されているから水を飲むな、と言われていたことを思い出し、観察だけにとどめることにする。

 それにしてもでかい。本土のテナガエビと比較すると、体長にして軽く倍。体重は数倍はありそうな印象だ。


「ヘビや!!」


 という声も上がる。

 確認に行くと、まぎれもなくサキシマハブ。もちろん毒蛇だ。

 とはいえ、本島のハブと違って小さい。動きもさほど素早くないし、攻撃性は低く、たとえ噛まれても毒性も低いので、さほど恐れる必要はないのだ。もちろん、侮ってはいけないが、近寄らなければどうと言うことはない。

 オカガニ、ヤドカリも昼間には見かけなかったサイズが闊歩しているし、頭上をオオコウモリが行き交う声や羽ばたき音も聞こえ、いやが上にも興奮と緊張感は高まっていく。

 ヤシガニの餌を仕掛けた場所に着くまでにも、もはやお腹いっぱいジャングルを堪能した感じだが、最終目標を見ずに帰るわけにはいかない。俺達は足場の悪い渓流を更に十メートルほど下った。すると、先を歩いていた友人から声が上がる。


「いたぞ!!」


 全員が色めき立って近づこうとするのを、俺は掻き分けるようにして先へ行く。遅れるわけにはいかないのだ。なにしろ捕獲目的なのは俺だけ、あとの連中は見られればそれでいい、というヤツらだから、逃げられでもしたら甲殻類男に申し訳が立たない。

流れから少し上の斜面。落ち葉や枝が土になりかけた林床の上に、そいつはいた。

思っていたより、かなり立派な個体だ。

 まるで、エビが後退るようにして逃げ出すのを、親父さんに教わった通り、後ろから足で踏むようにして押さえ付ける。甲羅をつかんで持ち上げると、一瞬、脚やハサミをだらりとして動きを止めた。意外にあっさり取り押さえることは出来たものの、バケツにもプラケにも収容できそうにない。

甲幅は十センチ程度……と書くと、なんだそのくらいか、と思われるかも知れないが、ヤシガニは脚が長い。その程度の甲羅サイズでも脚を広げると四十センチ近いサイズになるのだ。しかも、捕獲のショックから立ち直ったのか、強靱な脚とハサミを振るいはじめ、正直言ってとても持ってなどいられない。

ましてや市販のプラケなど、押し込めることも不可能だ。

大きめのバケツに押し込んでしばらく観察はしたものの、こんなでかい個体を持ち帰るのはまず不可能と判断し、ヤシガニはジャングルにお帰りいただくことにした。

 その後、海まで下ってみようと渓流を降りていく途中で、キノコ男が「ポリプテルス!!」と叫び、オオウナギとの初対面となるわけだが、それは「オオウナギ」の項をご参照いただきたい。

海を見た俺達は、その夜は目的も達したということで引き上げることになった。


「いやあ、もう少し小さいヤツだったらよかったのになあ」


などと言っていると、急に車が止まった。


「おい……いるぞ? もう少し小さいヤツ……」


「はぁ? 何を言って……いたぁあああ!!」


そいつは、道路の真ん中にうずくまっていた。

たしかに周りはまだ牧場。言われたポイントにも近いが、まさかこんな場所に出てくるとは思いもしなかった。っていうか、これならジャングルに踏み込み、ハブに噛まれる危険を冒してまで餌を仕掛ける必要なかったんちゃうか。

それに、こいつはさっきの個体よりもだいぶ小さい。

甲幅数センチ。脚を広げても三十センチには達しない。ちょうど、小柄な人が両手の平で影絵の「トンビ」を作ったくらいのサイズ……といってお分かりになるだろうか。

そいつはさっきの凶暴個体とは全く違って、あっさり中型プラケにも入り、俺達は意気揚々と宿へ引き上げたのであった。


さて、どうしよう。と、俺は宿に帰ってから悩んだ。

まさか、初日に捕まるとは思ってもいなかったのである。これから一週間は滞在する予定なのだ。ヤシガニを生かしたまま管理しつつ、遊びに出かけたり、土産や他の採集物をとっておいたりするのは正直キツイ。

しかも、朝になってみると早速脱走しているし。

いくら小さいとはいえ、ヤシガニはヤシガニ。プラケのフタなんか、紙屑のように引き千切ってあった。万が一を考えてプラケごとシャワー室に入れておいて助かった。

もうとにかくこれは、甲殻類男に送りつけてしまうしかない。そう思った。

だが当時は、西表島にはさしもの黒い小型肉食獣マークの会社も進出してきていなかったから、郵便小包で送る以外に手段はない。

といっても、民営化前であり、サービスレベルは低い。本土に届くまで数日かかるらしいし、生き物が入っていると分かったら、そもそも預かってくれない。

そこで、とにかく動かないよう、しかし死なないように梱包して、送り出してしまうしかない、と考えた。


 早速、港近くの「玉城ストア」に資材を買いに行く。

 用意したのは、ビニールロープ、ガムテープ、そしてフタの壊れたプラケと段ボール箱だ。

 数日間水気無しでは死んでしまうから、プラケの中には水で濡らした新聞紙を敷き、そいつを段ボールの中に入れた。こうしておけば、そう簡単に干涸らびはしないだろうし、段ボールが水でふやけることもない。

 プラケのフタは壊されていたが、壊れたフタごとガムテープでぐるぐる巻きにしておけばいい。さらに、中に収容するヤシガニはロープで縛り上げておけば、プラケを壊すことも無かろう。

 完璧。とはこのことだ。

 そう思って、とりあえずシャワー室のヤシガニを縛り上げることにしたのだが……


「こいつ……隙がない」


 シャワー室の壁を背に、ハサミを振り上げて威嚇するヤシガニは、まったくもって隙がない。昨夜あれほど簡単に捕獲できたのがウソのように、素早く動き、ハサミを鳴らして襲ってくる。

 こんなバケモノ、甲殻類男は本当に飼う気なのか、と少し疑念が頭を過ぎったが、まあ、今そんなことを考えていても仕方がない。

 俺はカウボーイよろしくビニールロープで輪を作り、そいつを壁沿いにヤシガニの背中に回して引き絞った。何度か失敗したが、ようやく背甲にロープが掛かり、こちらに引き寄せることが出来た。

 こうなればこっちのものだ。歩脚は地面に踏ん張らせたまま、とにかくハサミ脚を両手でつかんで無力化したあと、左手に両方持ち直し、右手でぐるぐると縛り上げて……って暴れる。とにかく暴れる。暴れるたびにローブがすり抜ける。こんちくしょう……ってんで思わず左手がゆるんだその時。

 

「あ」


 挟まれた。

 あの、ボールペンをも切断する爪で。

枝サンゴをポキポキ折ったパワーで。

 右手の薬指の肉だけを。

 痛い。容赦ない力だ。挟まれた肉があっという間に血の気を失い、感覚が自分のものでなくなっていく。

 もうこうなったら躊躇していられない。大声で助けを呼んだ。

 飛んできた友人は、状況を見て目を丸くして狼狽えた。


「ど……どうしたらええんや!?」


「と……とにかく、コイツのもう片方のハサミ脚を押さえてくれ。そしたら自分で脱出する」


 脱出の仕方は分かっている。ザリガニでもアカテガニでもクワガタでも同じ。

 挟んでいる爪をそいつ以上の力で両側から引っ張り、ゆるんだ隙に逃げるのだ。俺はなんとか両手でハサミをつかみ、力で押し広げた。

 だが、時すでに遅し。薬指の肉はもう、一部でくっついているだけである。ぶらりと垂れ下がった肉の隙間から、血が溢れだしている。

 だが、この作業を中断するわけにもいかない。


「そのまま押さえておいてくれッ!!」


「うわやめろ血がっ」


「うおおおおお!!」


 怒りでスーパーサ○ヤ人と化した俺は、友人の制止も聞かず、ヤシガニをぐるぐる巻きに縛り上げたのであった。

 そのままプラケに放り込み、その上からガムテでぐるぐる巻きにして段ボールに詰め込む。そして指の治療もそこそこに、郵便局へと向かったのであった。

 しかし正直、挟まれたのが肉だけで良かった、と言わざるを得ない。

 骨ごと挟まれていたら、指の骨を折られていた可能性もある。と思うからだ。

 指の肉は再生に数ヶ月かかり、ヤシガニは無事に到着したものの、甲殻類男の杜撰な管理のせいで一週間ほどで逃走。北関東の林に姿を消したのであった。

 杜撰な管理、とは言ったが、そいつも工夫はしたらしい。高さ五十センチ以上の木箱を自作し、金網製のフタにはブロックの重しを乗せてあったというから、あながちなめてかかっていたわけではないのかも知れない。

 だが、ヤシガニにとってはそんなもの、何の障害にもならなかったということだ。足がかりは何もないはずのベニヤ板の壁をよじ登り、自分の体重より重いブロックを軽々と押し上げて、ヤツは逃げたのであった。

 だが、飼育箱の他にも、餌とか、水場の置き方とか、飼育下できちんと脱皮できるのかとか、様々な問題が山積していたのは事実だ。そう考えると、おいそれとは手を出していい生き物ではないのだろう。

 たまに、ネットや雑誌でヤシガニを飼育用に販売しているのを見かけるが、ハッキリ言ってあんなもの、一般家庭で飼うものではない。端的に表現すると、デリケートかつ決して懐かない猛獣なのだ。

 そういうわけで、俺はヤシガニ飼育にチャレンジしようとは思っていないわけだが、大変美味だと聞くから、一度くらいは味わってみたい気はしている。

 本島の公設市場でも売っているのを見かけたが、やはり、俺としてはちゃんと捕獲して食べたいものである。

 次に西表島に行けるのが、いつになるかは分からないが。



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