第20話 クジラ
いや、さすがに飼ったことはない。
しかし、飼育経験ではないとはいえ、意外に身近な生き物だということを知っていただきたくて書くことにした。
学生時代、関東にいた俺は、よく友人たちと釣りに行った。
房総や東京湾がほとんどだったが、特に銚子あたりの港で釣り糸を垂れていると、突然湾内にでかい生き物が浮上してくることがあった。
それがクジラ……というか、大きさから言えば、イルカの範疇に入る生物だった。
イルカとクジラの違いは、単純に大きさだけのことであって、四~五メートル以上をクジラという、という説もあれば三メートル以上をクジラという、という説もある。
まあ、蛾と蝶だって明確な違いは無いわけだし、全部クジラでも良いような気もする。
だが、でかいといっても湾の中である。二メートルそこそこなのではないか、とは思うが、いつも背中しか見えないため水面下の体は大きく見える。また、数十センチの魚を狙っている俺達にとっては、さらにでかく感じられた。
そいつらが湾内に入ってくると、何故かピタッと魚が釣れなくなる。
たぶん、魚たちは
逆に、条件は良いのに妙に釣れないな……と思っていると、いきなり目の前に浮上してきて、その原因が分かったりする。すぐいなくなる時もあるが、一日中だらだらと回遊してくる時もあって、思わず石を投げたくなるが、防波堤上にはそんなものはないし、愛護団体から苦情が来ても困る。
よって、そんな時は仕方なく、クジラウォッチングに切り替えることにしていた。
といっても千葉の海は汚く、大抵は水が濁っていてクジラの全貌は見えない。だから、いまだにそれが、なんという種類のクジラだったのかは分からないわけだが、日本近海に住み、薄茶色の背中で小型のクジラ類といえば、たぶんスナメリだったのだろう。
さて。学生時代には、よく夜のドライブにも行った。
といっても、男女二人の、甘くまろやかなデートドライブなどではなく、数人から多い時は十数人がわいわいと車に分乗して、夜景やホタル、攻めがいのある林道、灯台、砂浜などを目標にして行く夜間ドライブだ。
目的地といっても、たいてい大したことはないし、夜景などもすぐ飽きる。
だから、全員輪になって、だらだらとどうでもいい話を続けることもしばしばだったし、花火をしたり、アカペラでアニソンを歌いまくったり、ゴミを集めて燃やしたり、寄ってきたネコをさわりまくったり、海岸をどこまで走れるか競ったりと、ワケの分からない迷惑行為をしたこともあった。
何をしたいのか、自分たちでもよく分からず、夜、集まって騒ぐことそのものが目的だったのかもしれない。思えば、貴重な時間を無駄に使ったものだ。
その頃、大洗海岸によく行った。
「大洗港」ではなく「大洗海岸」である、港の方は、夜には行ったことがない。だが先輩によると、当時の大洗港は、有名なナンパスポットになっていたらしく、派手に飾った高級車に乗った兄ちゃんたちが、やはり派手に着飾ったお姉ちゃんたちに声を掛ける場所なんだそうだ。
だが、海水浴で有名な大洗海岸の方はそれとは対照的に静かな場所。シーズンオフの夜ともなると訪れる者もなく、聞こえるのはマツムシの声くらいなのである。
たまにカップルくらいは見かけたが。
しかし、決して綺麗な海岸ではなかった。ゴミのよく流れ着く浜で、落ちていた丸太を組み上げて、見たこともないほど巨大なキャンプファイヤーをやったこともあるし、流れ着いていたソファや机を丁寧に拾い集め、応接セットを砂浜に作り上げて帰ったこともある。ウミガメの死体やシャミセンガイ、コウイカの甲など、変わったものもよく落ちていて、海水水槽に入れるツボや貝殻なども拾えた。そんな場所だ。
ある日。俺が参加しなかった夜のドライブに行ったある友人が、すごいものを見た、と言ってきた。
「すごいって何よ? 生半可なモンじゃ驚かんぞ」
「それがな。クジラなんだよ」
「何ィイイイイ!? そりゃすごい!! 生きているんなら助けないと!!」
「いや、とっくに死んでた」
打ち上げられていたクジラは、一体ではなく数個体いたという。
種類はオキゴンドウではないか、ということであったが、それは確かに珍しい。是非、見に行こうと言っている間に、仲間たちがボツボツと集まってきた。
呼び集めたわけでもなく、ヒマなわけでもないはずなのに、夜、何故か誰かのアパートに集まってしまう、そんな習性が学生にはある。
その中に、例のキノコ男も混じっていた。
「ほほう……クジラに生えるカビってのは、一体どういうモンなんだろうねえ?」
この男、後に菌類研究者となり、赴任先の周辺で次々と新種や、日本初確認種を報告することになる。どうしてそんなことが起きるかというと、簡単に言えば目の付け所が異常なのだ。
世の中の大半が興味を持たないような分野の生物である、「菌」。その中でも特にマイナーな、役に立たなさそうな分類群のヤツを、しかも普通の人……いや常識ある人間なら見過ごすような場所、条件、時期を探すものだから、新種も見つかるわけだ。
学生当時の例を挙げれば、生きたゴミムシの体表面に生える、肉眼では見つからないカビを探し求めたり、部屋に置いていた食品が腐っても、何が生えてくるか興味があると言ってわざと放置したりする。炊飯ジャーにご飯を入れっぱなしにした時などは、
「ご飯ってね!! 一ヶ月以上放置すると完全に分解して水になるんだよ!!」
などと、知りたくもない雑学情報を教えてくれたりもした。
つまり、考古学のアレとは違って、一切トリックなしのゴッドハンド菌バカなのだが、その片鱗を、すでに学生時代に見せていたわけだ。
クジラに生えるカビなんて、どんな頭で思いつくのか知らないが。
「しかし……カビっつっても、海岸に放って置いたら流されてしまうだろうし、確保しておかないとダメだな」
「おいおい。あんなもの、拾ってくるつもりか?」
「いや、見た限りではけっこう小さいのもいた。アイツのダットサンバネットなら、載るんじゃね?」
「待て。貴様ら本気か!?」
悲鳴に近い声を上げたのはワゴン車のオーナー、ヤエヤマサソリの項でも書いた、学内にヤシガニを逃がしてしまったヤツだ。
ダットサンバネットは、今はなき往年の名車であり、その破格の積載量を、俺達はことあるごとに利用させて貰っていたのだ。
渋るそいつを説き伏せ、俺達は車を連ねて深夜の海へと出発した。
でかいブルーシートを買い込み、ワゴン車の後部座席を取り外し、段ボールを敷き詰めて用意は万全。
とにかく重そうだということで、十人近くの大部隊を組織し、車を連ねて向かったのであった。
クジラはたしかに小さかった。
だが小さいとはいっても全長、つまり尾ビレの先まで入れると、一番小さな個体でも三メートルはある。
せっかく来たのであるから、とにかくためしに車の方まで運んでみようということになった。重いのでずるずると砂浜を引きずる格好だ。そうやってようやく辿り着いたものの、ダットサンバネットの車長は、普通の乗用車と同じで四メートルそこそこしかない。
つまり、後部座席を全部外しても三メートルの物体ははみ出してしまうことになる。
「これは載らんな。おい、載らんッつってるだろ!! いや、やめろおまえら!! やめてくれえええ!!」
深夜の大洗海岸に、ヤシガニ男の絶叫が響き渡る。
車のオーナーの意向はガン無視して、俺達はてきぱきとクジラをブルーシートで包み、ダットサンバネットの後部を開けて、無理やり押し込み始めたのだ。
思ったよりは重かったが、数人がかりであればなんとか持ち上がる。一気に頭から突っ込んだが、さしものダットサンバネットも三メートルの巨体は積みきれず、尻尾の大半がはみ出した。
重さで軋みを上げる、中古のバネット。
「どうする?」
「まあ、このまま行けばええやろ」
「貴様ら!! 誰が運転すると思ってんだ!!」
ヤシガニ男の主張はここでも無視された。
だが、積み込んでしまえばこっちのもので、みんなの力がなければ、もはや降ろすこともかなわないわけだから、言うことを聞く以外に道はない。
バックドアを開け放ち、ブルーシートに包まれた、細長いものを運ぶ、ボロいワゴン車。
どう見ても犯罪集団だ。
警察に見られたら、百パーセント職務質問されていたに違いない。
しかし、前後挟んで走ったことと、深夜だったことが幸いしたのか、結局、誰にも見とがめられることなく、俺達は大学へと帰り着いた。
晩秋のことであった。後部を開け放ち、海岸から大学まで二時間近く運転したヤシガニ男は、「寒い」を連発していた。
新鮮なら食べてみようという話もあったのだが、ナイフを入れてみると既に腐臭を放っていたので、それはやめておいた。剥製、なんてのを作る技術もないし、とりあえず埋めて、骨だけになったら掘り出し、骨格標本にしようという話になったのであった。
解剖したい、と言い出すヤツもいて、埋め戻す前に腹を割いてみたが、中型のソーセージによく似た太さと色の腸が大量に出てきただけで、暗かったこともあって中身はよく分からなかった。
何より、内臓は肉以上に腐臭がしたので、それ以上ナイフを進める勇気がなかったというのもある。林の隅に埋められたクジラが、いつ食べ時、イヤ違う、完全に骨になるのか、俺達の興味は尽きなかった。
キノコ男は、それから何回かその場所を訪れて、土壌の菌を採取したらしいのだが、周囲とは大して違わなかったらしく、いたく残念がっていた。
さて。一年ほど経ってから掘ってみたが、骨になるどころか、皮がそのまま残っていたので埋め戻した。皮下脂肪が多いせいか何なのか分からないが、クジラは地中でなかなか分解しないらしい。
一年経ってもそんな状態では、いつ骨が拝めるか分からない。俺の中で、興味は急速に冷めていった。
それから数年後。
俺はすっかりクジラのことなど忘れていたのだが、情報を聞きつけた後輩たちが骨を掘り出したいと言いだした。その頃には、サークルでもクラスでもやらなければならないことが増えてしまっていて忙しく、俺達は手伝えなかったが、彼等はどうにか掘り出したらしく、体の形に並べて学園祭で展示した。
骨はすっかり土色で、しかもところどころ見つからなかったらしく抜けていた。 だが、逆にそれがまるで化石のようで、なかなか良い味を出していた。
背骨とその間の椎間板の一つ一つもバラバラで、数は数百以上あるから、掘るだけでもかなり苦労したろうと思う。
俺達のバカ騒ぎの尻拭きを後輩にやらせて、申し訳ない気持ちにもなった。
ヤシガニ男は、二度とこんなことには車を貸さないと言っていたが、もともと人の良い男だから、その後も水槽の引っ越しやらなんやらで、とにかく便利に使わせて貰ったものだ。
ダットサンバネットはその後、俺達が乗っている時にクラッチが摩滅して破損。
あろうことか、それが起きたのは通行量の多い国道で、かつ橋を登る途中だったため、トラックがびゅんびゅん通る中、全員で車を押す羽目になった。
こういうバカなことをやっていながら、ヤシガニ男もキノコ男も、今では立派な研究者だ。
まあ、学生のうちは少しくらいバカをやっても大丈夫、ということなのだろうな。
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