4 「今、何時ですか?」事件

 今回のエピソードもB高校で起きたことで、やはり高校に勤め始めて10年くらいたった頃のことです。

 夏休み中、朝9時半より少し前に職員室に入っていったら、山田副校長(仮名)がぼくのことを鈍く淀んだ目でじろじろ見ながら、ぼってりとした唇を動かして「今何時ですか」ときつい口調で言いました。

 ぼくは、「なんだか怒られそうな雰囲気だなあ」と思ったのですが、別にやましいこともないので「9時23分です」と腕時計を見ながら機械的に質問に答えました。

「決められた出勤時間は何時ですか」

「8時半です」

「そうだろう、今はもうすぐ9時半。それじゃあ、遅刻じゃないですか、遅刻」

 と副校長は、怒りに燃えた目でぼくを見ながら勢い込んで言い放ちました。

 そこでぼくは、副校長の机の横にある未決の箱の中を探して、「年休朝1時間」をとるために昨日書いて提出しておいた書類を見つけて、副校長の前に置きました(この自治体では、定められた書類を書けば時間単位で有給休暇をとることができる)。

 副校長はこちらを見ないで下を向いて顔を歪め、吐き捨てるように「なんだあ」と言いました。絵にかいたような陰鬱な様子で、「不機嫌な人は幼稚っぽく見える」という言葉を体現していました。

 上下関係を重視し自分の権威を保とうとすること自体は、必要な場面もあると思うのですが、この場面について言えば、職人の親方の頑固おやじみたいな人でも「ああ、知らなんだ」などと言って苦笑いしそうな気がします。

 「ちゃんと処理してないのは副校長先生が悪いんだから、もう少し『ああ、そうだったんですか。失礼しました』なんて明るく言ったらどうですか」と言いたくなりましたが、どうも副校長の様子が暗く、そういう雰囲気でもないので止めました。

 その副校長は、一言で言えば「こういうタイプ」でした。

 真面目に一生懸命仕事をしているのだけど不愛想で気が利かない、50代前半の小柄で黒縁メガネをかけた男性でした。

 この時だって、自分が普通に職員室に入って来る時の様子とか、「9時23分です」「8時半」と平気で答えている様子などを見て、「これは、こっちがちゃんと書類を見てなかったかな」と気づく人が多いではないかと思われます。処理していない書類がたまっている未決の箱は副校長のすぐ目の前にありました。それでも、こんなに最後まで気づかないのもどうかと思うのですが、そういうタイプの人だとしか言いようがありません。

 いつも神経質そうにイライラしていて顔色が悪くて雰囲気が暗いどうにもさえない雰囲気の人でした。

 電話で偉い人と話している時は、地面に這いつくばって頭を下げるような調子で「ハイハイ」とひたすら言うことを聞くが、経験の浅い先生に対してはいつも威張り腐っていて、どうも野暮で面白味がない人なのです。意見や感性が違う人などいろいろなタイプの人と対話をすることを楽しめないタイプで、上下関係によって人間関係を割り切ってしまわないと落ち着かないようでした。

 真面目に一所懸命仕事をしているのでこんなことを書いては可哀そうだけど、中小企業の経営者などであれば社員がいなくなりそうなタイプで、公務員だから管理職としてなんとかやっていかれたのだと思います。

 ぼくは、この副校長によって書類を8回程度書き直しさせられたことがありました。最初に提出したら3行目と15行目について指摘され、直して持って行くと5行目と12行目について指摘されて、それを直して持って行くと今度は1行目と17行目について指摘され、という具合に延々と修正作業が続きました。なんでいっぺんに言わないで小出しにするのか不思議でした。見通しが悪く、自分でも何が大事でどうすればいいのか、というところがわかってなかったのでしょうか。それともそうしたやりとりが、一種のいじめのような感じで楽しくてやめられなかったのでしょうか。

 自分に対してだけでなく他の教員に対しても、行き当たりばったりの仕事の進め方をしたり、関連のある事柄をいっぺんに聞かないで断続的に何回かにわけて質問したりして、悪い方向に人巻き込むことがよくあります。何か心の病を隠して無理して仕事をしているような雰囲気でした。

 この様子を心理学が専門で大学の先生になった大学院時代の友人に話したら、「強迫性パーソナリティ障害」という専門用語を言っていました。こういうタイプの人のことを表す心理学用語なのだそうです。

 別の学校にいる仲間などに聞いた噂話をまとめてみると、自分がいる自治体の高校の管理職は、最近こういうタイプの人が増えているそうです。ぼくが先生になった当初はそんなに多くはなかったのですが、どうしてなのでしょうか。

 最近、校長・副校長などの教育職の管理職という職種は人気がなく、勤続年数によって受験資格ができた人が筆記試験等を受ければ簡単に受かってしまいます。だからかどうかはわからないし、もちろん例外もそれなりにあるのですが、以前に比べると授業が下手で生徒や周りの先生から人望がない人が管理職試験を受ける傾向があるようです。教員をやっていても面白くないから、どうせなら多少は給料がよくて、雑用さえやっていれば授業をやらないでもお金をもらえる仕事に変わろう。といったところなのでしょうか。

 それではどうして、特に最近、校長・副校長などの職種に人気がなくなったのでしょうか。

 これはこれでなかなか考えさせられるテーマなのですが、一言で言えば、以前よりも管理職が行うべき雑用が増えたこととか、この自治体の教育行政が管理志向を強めていることなどがあると思います。

 もちろん、そんなことを自分が考えてもなんの解決にもならないのですが、気になることではあります。

 山田副校長の話に戻りますが、ぼくは、「困った人は困っている人」というその頃読んでいた心理学の本に書いてある言葉を思い出したりして、副校長先生もいろいろと大変なのかなと考えて接していました。山田副校長個人の問題という面も確かにあるが、同時に、こうした管理職がいるのは組織全体の病理でもあると思っていました。

 具体的には、「ああいう人は何を言っても変わらないだろう」と思い、端的に言えばなんでも「ハイハイ」と言うことを聞いていました。それ以外にうまい対策はなかったと思います。

 勤め始めた頃に同僚の先生から教わった、「どんな人にもバカにすべき点はある」という格言みたいな言葉が役に立っていました。心理学的に言えば「どんな人間も、それぞれ心の中にこだわりや葛藤などを持つ、ちっぽけで無力な心理的弱点を持つ人間なのである」といったところでしょう。

 あんまりまともに対決しようとしないでうまくかわすような方向で接していたので、副校長先生及び自分の怒りやイライラを最小限にとどめることができていたと思います。

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