3 定期考査の問題をめぐって

 かなり時間が飛ぶのですが、次に「『先生辞書貸して』事件」の頃から15年程度経って、異動して別の学校で起きた出来事のことを書きます。

 その学校は、B高校という名前にしておきます。この学校もいわゆる底辺校でした。

 その年の1学期、中間試験の問題作成に関することで印象に残ったことがあります。

 1学期の中間試験では、2年のリーダーの問題を作る順番でした。

 B高校の英語科では、同学年の同じ教科書を使う試験については共通問題にしていて、それは試験問題を作る負担が減るというのが主な理由だったと思います。

 わりあいどこの学校に行っても、英語科はテキストが同じだと共通問題を作ることが多いようです。教科ごとに傾向のようなものはあり、例えば社会では、教員ごとに別々に問題を作っているケースが多く、社会の先生に共通問題の話をすると、「社会科でそんなことをしたら、大変だ。考え方が違うことが多いから、時々血の雨が降るかもしれない」みたいなことを言われます。

 作った問題のコピーを同じテキストを教えている山口先生(仮名)にも一部渡したのは、試験当日の3日前でした。

 山口先生はあまり冗談を言ったりしない真面目な雰囲気の若い男性の先生です。イケメンなので生徒に人気がありました。教員になったのは自分の方が10年くらい早いけど、その学校では山口先生は4年目で、ぼくは2年目でした。年齢は僕の方が年をとってから教員になったので、たぶん少なくとも10歳以上年上です

 その学校に来てからの年数は向こうが少し長いけど、学校の先生になったのは自分の方が先輩で、こういう場合、たまにやや人間関係的に戸惑うようなことがあります。

 高校の教員になって気が付いたのだけど、少なくとも自分の周囲の教員の世界では、「○○さんはそんな人ではない」「ベテランの先生の言うことだから間違いない」などと属人的な見方を堂々と表明する人がかなりいて、話の内容を検証するよりも「誰が話したか」が重視されることがけっこう多いのです。属人的に考える部分をできるだけ減らして、合理的・実証的に考えられる部分を増やそうという問題意識があまり重視されていないような気がします。「○○さんだから…」というところで思考停止が起きて、そこから先を考えることが放棄されている場面が多いようです。

「この問題で、何かあったら教えてください」

「わかりました」

 1日経って、山口先生が職員室の自分の机のところに来て言いました。

「今度から、試験問題を見せるのは試験当日の5日前にしませんか」

「別にそれはかまいませんが何のためにそうするんですか」

「うーん、昨日見せてもらった問題はよくないんで直してもらいたいんだけど、もうあまり時間がないから、次回からもっと時間に余裕を持たせた方がいいと思う」

「そうですか、それでどこに問題があるんですか」

「1番の問題なんだけど、『こういうの』はなくして、単純に単語が前後関係なしに単独で出ていてその意味をそれぞれ聞く問題と、問題文にいくつか設問がついている問題にした方がいいと思う」

 「こういうの」というのは、教科書本文と同じ英文が一通り(10行くらい)出ていて、その下にそれを訳した日本文が同じく一通り出ていて、日本文の方に空欄があり英文と日本文を照らし合わせて見ながら空欄に適当な語を補う問題でした。

「それはどうしてですか」

「狙いがはっきりしない」

「先生が言ったように変えるとはっきりするんですか」

「うん」

「単語に意味を聞くという意味ではわりあい狙いは似ていると思うけど、文脈から切り離して単語だけ単独で出ているとなにかいいことがあるんですか」

「狙いがはっきりしていていいい」

「でも文脈の中での意味を聞いた方が答えが一つに決まりやすいし、単語の意味と文脈をとらえることと両方聞くことができていいんじゃないですか」

「そうとは限らない。狙いがはっきりしていた方がいい。それと2番だけど、これだって結局同じことだ」

 2番には1番と同じように英文と日本文が並べて出ていたが、英文の方に空欄があった。

「同じではないと思いますよ。1番は、日本文の方に空欄があるので、和訳・英文解釈系の問題で、2番は英文の方に空欄があるので、文法・英作文系の問題なので、その点ははっきりとした違いがあると思いますが」

 ここで山口先生は怒り出しました。

「そんな話をしているんじゃない。試験問題の内容について話しているんじゃなくて、試験問題を作った人が他の教員に見せる時期を早くした方がいいと言っているんだ」

「そうですか。でも山口先生が、今回の試験問題についてよくないということを言い始めたんじゃないですか」

「とにかく、試験問題を見せる時期を試験のある日の5日前にしよう」

 と言って、返事は聞かずに去って行きました。

〈まあ、仕方がないか〉

 山口先生を怒らせないようにしながら、両者の意見の違いについて冷静に比較検討できるような話の進め方ができるといいのだが、どうもそれがうまくいかない。

〈もう少しうまく対話が成立するようになると、勤めやすいんだけどなあ〉

 ぼくはぼんやりとそんなことを想いながら、机に肘をつき、そして頬杖をついていました。


 その年の10月、今回は以前山口先生から言われたことを意識して、ちょうど試験当日の5日前に、中間試験の試験問題のコピーを山口先生に渡し、山口先生は、「ありがとうございます」と言って早速問題を読み始めました。

 しばらくして山口先生の机の近くを通ると呼び止められました。

「1番の問題なんだけど、前も言ったと思うけど、こういうのはなくして、単純に単語が一つずつ出ていてその意味をそれぞれ聞く問題と、問題文にいくつか設問がついている問題にした方がいいと思う」

 こういう問題というのは、1学期の中間試験で出題したのと同じタイプの教科書本文と同じ英文が一通り(10行くらい)出ていて、その下にそれを訳した日本文が同じく一通り出ていて、日本文の方に空欄があり英文と日本文を照らし合わせて見ながら空欄に適当な語を補う問題でした。

「うーん、前にもお聞きしたかもしれませんが、それはどういう理由によるものですか」

「これじゃ生徒は何を答えていいかわからない」

「もしかしたらわからない生徒もいるかもしれないけど、どこを見て解答をするべきなのかということがわかるのも力のうちで、前回こういう問題を出した時はたぶん8割以上の生徒が、ある程度はできていた」

 山口先生は少しイライラしてきました。

「っていうか、これはなんですかこれは。この1番の(5)だけどこれは3番の(4)と同じことを聞いている」

「それは、現在話し合っていることとは違うと思いますよ。今まで話し合っていたのは1番の出題形式自体に問題があるので、その出題形式を変えるかどうかという話で、今言ったことは重複している問題があるからどちらかを削除または変更した方がいいという話だから、まず出題形式の話をすすめませんか。重複している部分はこちらで考えてどちらかを削除または変更しておきますよ」

 山口先生は、さらにイライラがつのり、貧乏ゆすりを始めました。

「うーん。っていうかねえ。それと教科書の右側によく出ている、指示語の問題がないんだけど入れて欲しい」

「それは確かに出題形式の話の一部だから、もとの話題に戻ってきていい流れになりつつあると思います。自分が作った1番みたいな丸ごと穴埋めの問題と、設問ごとに別の問題文があるような問題のどちらがいいかという話の一部として『thatは何を指すか』みたいな指示語問題をどう考えたらいいか、ということについて考えてみる、ということでいいですか」

「うん」

「何と何を比較検討するかというところで一つ共通認識ができて、よかったと思います。それで、中身に入りますが、結局こういう指示語問題は、聞いていること自体はかなりやさしくて小学校3・4年の国語でやっている。もちろん英語と国語の違いがあるのでそこはやや解きにくくなるのかもしれないけど、聞いていること自体は高校生にとってはけっこうやさしいので、出題してはいけないというほどでもないけど、出題しなきゃいけないというほどのことでもない。こういう内容は、小学校3~4年の頃からできていた生徒にとっては、もともとずっとできていたことを再確認するという限定的は教育的効果は確かにあるけど、今までできなかった生徒が今ここで急にできるようになる可能性は、非常に低い」

「そんなこと言ったら、他の問題だってやさしいから同じことじゃないか」

「『同じだ』という点は同感です。『同じ』というのはたぶん難易度が近いという点を指摘していると思うんだけど、そのことは『強いて変えた方がいい』ということの根拠ではなくて、『どっちでもまあいいじゃないか』という結論の根拠になりませんか。あと、難易度も大事だけど、それ以外の要素として問題を解く生徒の頭の中で何が行われているかということについて考えてみると、自分が作った1番の問題でも指示語問題でも、『どこを見て解答するべきか』という『部分の発見』ということが問題を解く上で大きな比重を占めていて、その点では問題にしていることは似ている」

 これを聞いた山口先生は不愉快そうな顔になり、イライラしながら「どうでもいいですよ」と強い口調で吐き捨てるように言いそっぽを向いてしまい、これ以上は何を話しても答えてくれそうにありませんでした。

 どうも言い方が悪かったかもしれません。素朴に考えている通りのことをしゃべり過ぎたのでしょうか。と言うか、言い方というよりは進め方と言った方がいいのかもしれませんが、「お互いに考え方の違いを生かす対話方法を心がけて落ち着いて考えてみましょう」みたいな言葉をうまくはさむようにした方がよかったような気もします。もっともその種の言葉も、言うタイミングが悪いと上から目線のような雰囲気になるのでなかなか難しいところではあります。

 でも、以前A校にいた頃は、もっと他の教員を強烈に怒らせていました。まったく素朴に相手の顔色を気にせずはっきりと結論を先に言う言い方だったので、それに比べれば自分のしゃべり方は多少ソフトになったのかもしれません。もちろん相手が違うという面はあるのですが。あの頃は、わかりやすい言い方と言えば聞こえはいいが、「変えません」なんていきなり結論をしゃべっていたと思います。「アメリカ風のカウボーイスタイル」と言えばいいのでしょうか。欧米人は結論を先にはっきりという。これからは日本人もそうしないといけない」という誤った情報を信じてそれを実践していました。それに比べるとよくなったかもしれませんが、まだ工夫した方がいいし、その余地はあると思います。

 自分としては「こことここが両者の考え方とか結論等が違うところだ」という共通認識をもって今後も継続して考えて行くようにしたかったのだが、かなり違う方向になってしまいました。一通り具体的な問題についての見方を出し合ってから、「それじゃあ、こうした見方の違いがあるということを共通認識にして、今後もそれについてお互いに考えていくことにしませんか」という流れにしたかったのだけど、そうはなりませんでした。

 反省点としては、具体的な問題に入る前に「お互いに見方が違うところをうまく共通の問題認識に持って行かれるように心がけながら話し合うことも大切ではないでしょうか。例えば、『私はAだと考え、あなたはBだと考えている』この見方の違いがわかったのが大きな収穫で、『それをどのように考えていくかという方法論について意見を出し合っていこう』という共通認識が得られればそれが大きな収穫になる」みたいなことをなるべく具体的な内容に入る前とか、少なくともどちらかが具体的な内容に関する意見の違いにいらだちを感じ始める前に言った方が良かったかもしれません。

 でも、話し合いに入るときというのは、普通自分の考えを相手にわかってもらうとか、せいぜいお互いの一致点を見つける目的で始める場合が多いので、こうした進め方や方法論について話す場合、その言い方やタイミングは、なかなか難しく、「そんな面倒なことを言わないで黙って俺の言うこと聞け」みたいなことを言われないような工夫がいります。

 それと、山口先生は比較的属人的な考え方をする人で、相手が自分よりもベテランだと思うとその人の言うことはなんでも「ハイハイ」と聞き、自分よりも後輩とか格下だと思うと最大限に自分の意見を通そうとするところがありました。教員になったのは自分の方が早いが、この学校にいる期間は山口先生の方が長いので、その面でもなかなか難しいところがあったと思います。

 そう言えばA高校にいた頃も、年齢は下だけどその学校に来たり県立高校の教員になったりしたのは向こうの方が早いという先生が同じ英語科に2人いて、どうも相手を怒らせることが多かったのを思い出します。

 「自分の方が先輩だ」と思っている人に対してこちらの意見を言う場合にどういうふうな話し方をするのか、というところもなかなか知恵や話術などがいると思います。

 でも、それが難しいことだとわかっていれば、うまくいかなくてもイライラする機会や度合いは少なくなると思います。

 委縮しないで自信を持って行動することはもちろん大切ですが、それと同時に、悲観的な見通しも無視せずに頭の中に置いておくことが大切なのでしょう。

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