第七話

 恐ろしく深く暗い感情の底に引きずり込まれていく。助けを求めて手を伸ばそうにも、一体誰に、何処へと、それを求めれば良いのかわからない。

 本来基準になるべき自分の事さえ、何一つわからないのだ。まるで、明かりのない真っ暗な箱に一人、閉じ込められているような気がした。


 右も左も上も下も、自分さえ何処に在るかわからず、何処へ行けばいいのかわからず、身を竦めて震えることしかできなかった。

 目覚めた頃に感じていた温もりが恋しい。こんな恐怖を、痛みを知るのならば、一人の寒さを感じるくらいならば、いっそ目覚めなければよかった。


 ゆらりゆらりと目眩の様に目の前の風景が揺らぎ、頬を冷たいものが伝う。


 「%#○&*‡〆」


 フッと、甘さを織り込んだ、歌うような不思議な音が耳元を掠めて、柔らい温もりが震える身体を包み込んだ。


 「ぁ…………」


 欲しかった暖かさを与えてくれた、優しさの方へ俯いていた頭を上げると、熱した砂糖のように美しい琥珀の瞳がすぐ側にあった。


 「€*#〓‡⊇〻?」


 燃えるように赤い髪の幼い少女。歌うような音は、彼女の唇から溢れていた。それは、知らない言葉だった。意味のわからない音だった。けれど、確かに優しい色をしていた。


 「#⁑△⊂〆……〻€○∃*」


 凍えた身体が、ぎゅっとまわされた小さな腕で溶かされていく。やっと手に入れたこの暖かさを離したくなくて、縋るように少女に抱きつくと、鈴が転がるような音色で彼女は笑って、宥めるように頭を撫でてくれた。


 「%£#€?」


 どれぐらいそうしていただろうか。ふと何かを尋ねるように、彼女は首を傾げてこちらを覗き込む。好奇心の覗く瞳に、浮ついていた気持ちが落ち込んでいくのがわかった。


 「ことばが、わからないんだ」


 きっと、意味のある言葉として彼女には伝わらないだろうとわかっていた。案の定彼女は不思議そうに目をぱちぱちと瞬かせている。申し訳ない気持ちが胸に溢れて再び俯きそうになった。


 「アルラーナ」


 瞬間、耳に落ちたその響きに、ハッと顔を上げた。意味のわからない言葉にはちがいなかったけれど、聞き取れた音の響き。


 「ある、らーな」


 彼女の発した音を追うように呟くと、彼女はパッと花が咲くようにその表情を綻ばせた。次いで、彼女は彼女自身を指差して、嬉しそうにその美しい音を再び紡いだ。


 「アルラーナ!」


 アルラーナ。そうか、これは、彼女の名前なのだ。


 「あるらーな」


 何度も何度も、彼女の名前を呟く。刻み込むように、忘れてしまった自分自身と同じように、消えてしまうことなどないように。大切な宝物のようなその名前を、何度も何度も呟く。


 ーーそういえば、ぼくはどんな名前だったんだろう。


 ふとよぎった考えに、ぷかりと泡のように音が湧き出て唇から溢れ落ちた。それは、無くなってしまったはずの音だった。


 「はると」


 その音を溢した唇は、あまりに自然にそれを紡いで、そしてその音の響きはとても懐かしく心を揺さぶった。


 ーーああ、これは、の名前だ。


 忘れていなかった。消えてしまってはいなかった。たった一つ残ったものだけれど、そのたった一つが嬉しくて、ぶわりと涙が溢れ出した。

 目の前の少女、アルラーナが、そんな僕にあわあわと狼狽えている。


 僕は彼女の手を取って、下手くそな笑顔で笑いかけた。きっと、涙や鼻水で酷い顔になっているであろう僕に見つめられて、けれど彼女は嫌そうにする事なく、ただ不思議そうな表情で僕を見つめ返す。


 「はると」


 ーーどうか、僕の名前を呼んで。


 そんな願いを込めて、僕は僕の名前を紡いだ。彼女は、アルラーナは、きょとんとした表情で僕を見て、金の瞳を蕩けるように細め、花が咲いたような笑顔にその表情を変えた後に。


 「ハルト!」


 僕の願いを、叶えてくれた。



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