極上のワインに捧ぐワルツ 2

 落ち着いたテナーの声音だった。気品を湛えながらも、人の懐に容易く入り込む方法を熟知しているような色を感じさせる。けれどすこぶる卑屈になっていた私は、おちょくられているのだと思い、床を見つめたままぶすったれて応じる。


「その通りですわ。ダリア叔母様のお傍について、皆様とご挨拶しましたもの。わたくしは今日がデビューであることを叔母様が逐一ご説明して下さったのだけど、もうお忘れでしょうね。わたくしが誰の顔と名前も覚えられなかったように」


 やけくそになって捲し立てると、その人は先ほどまでの気品はどこへやら、快活な笑い声を響かせた。にわかに私達に視線があつまり、周りの人々が囁きあう気配がある。


「そうでしたか。わたくしはつい先程到着したばかりでして。レディ・エイヴリーが席を外されていたので、伯爵とご挨拶をさせて頂いたのですが――」


 しまった、謝らなければ、とようやくここで顔を上げた私は、一瞬で身が凍る思いに駆られた。目眩など忘れてばっと立ち上がる。飴細工のような金髪、柳眉、一度目を合わせたなら、どんな宝石もつまらなく思えてしまう水色の瞳……


「では、改めましてご挨拶を。チェーザレ・ド・ダッチェスと申します」


 何人もの殿方と挨拶を交わし、誰も印象に残らなかった。しかし彼は叔母様から聞いたとおり、その立ち居振る舞いの端々まで、なにひとつ欠落が見つからず、恐ろしく整っていた。


「……サー・チェーザレ、無礼をお許し下さい。わたくし、エイヴリー伯爵夫人の姪、ローズ・ブルワーと申します。以後お見知りおきを」


 以後、とは言ったものの、社交界の有名人であるチェーザレ様に失礼を働いてしまった私に、今後なんてあるのか。叔母様の面子も潰したのではないだろうか。終わった。


 青ざめながらもふかぶかとカーテシー式の礼をすると、チェーザレ様が私の手をとった。羽根を受け止めるかのごとくふわりと添えられた指は、しなやかでありながら男性的な無骨さも兼ね備えている。


「社交界へようこそ、ミス・ブルワー」

 そんな台詞、誰も言ってくれなかった。水色の瞳に、真正面から捉えられる。

「それから、これは貴女のものではありませんか?」


 チェーザレ様はそう言って口の端に笑みを乗せ、私の手の平を上向きにさせると、気付け薬の小瓶をそっと置いた。驚きの表情を肯定と受け取ったらしく、私の手を両手で軽く握り、冗談めかした調子で言う。

「ホールの隅に転がっていました。真新しかったので、きっと舞踏会に不慣れなお嬢様がお困りだろうと」

「ありがとうございます。感謝致しますわ」


 ああ、これでときめかない淑女なんているのかしら? 彼に促されて座り直し、気付け薬を嗅ぐと冴え冴えとしてくる。あたりを見回すと、私達はすっかり淑女達の視線を釘付けにしていた。隣に腰をおろしたチェーザレ様が誰に向かってでもなく、窘めるような微笑みを浮かべると、みんな頬を染めて顔を背ける。笑いそうになるのを堪えられても、ふつふつと湧き上がってくる優越感を抑えられない。


「それで、貴女もご寄付を? 感心します。お若いのに」

「いいえ、わたくしではなく、医師である父が――」


 話はじめると、チェーザレ様は長い脚を組み、腿の上で頬杖をついてじっと傾聴していた。彼は想像していたよりも男性的な輪郭を持ち、黒いタキシードが引き締まった体躯を美しく見せるのに最も相応しいお召し物のように思えた。


 見惚れるあまり口がとまりそうになるのを気にしながら、叔母様からいつも社交界のお話を聞いて憧れていたことや、家族や職場で落ちこぼれていることを包み隠さずに語った。


 この水色の双眸を前にして、私はなにひとつ取り繕うことができなかった。自分を良く見せようとしたところで、すべて見透かされるに違いない。それに、チェーザレ様は私のことなんてすぐにお忘れになる。だったら余計な格好をつけずに、素のまま振る舞ったほうが、一夜の思い出として残り続けるはずだと感じた。


「成る程。興味深いお話をありがとう」

 チェーザレ様はそう言って、親しげな笑みを見せた。気恥ずかしくなって曖昧な微笑みを返す。この話題はここでお終い、と思ったのに、彼は真剣な調子で言葉を続ける。


「今の時代、必ずしも上流の人間だけが上流に在るわけではありません。商家から成り上がって議席を得た者もいれば、奴隷同然の生活をしていた下女が主人と婚姻を結んで貴婦人の仲間入りをすることもある。外野が煩わしいのは否めませんが、何者であろうと、何者にでも成れるのです」


 彼の瞳が瞬くたび、あたらしい水で満たされ、いつまでも澄んでいる湖のように静かに煌めく。


「ミス・ブルワー、貴女は自由です。ダッチェス家の男のようには成りません。我々は母や妻の尻に敷かれ続ける運命にありますから」


 チェーザレ様は、自らに魅入りそうになる人間を制す術を心得ていた。おどけて自嘲する声音に、なんとか現実に引き戻される。


「まあ、そんなこと仰って。チェーザレ様でしたら、熱心にお慕いになられるレディは大勢いらっしゃいますわ。たおやかで気立てのいい方を娶ればよろしいでしょう」

「そうしたいのはやまやまですが」脚を組み替え、残念だと言わんばかりの物憂げな溜め息を吐く。そんな姿も様になってしまう。


「許嫁は代々の当主が決めるしきたりなのです。物心ついた時から許嫁がいる、という貴族も少なくありませんが、ダッチェス家はより政治的に優位に立つため、長子が適齢を迎えた頃の世情を鑑みて相手を選ぶのです。母上は今まさに、わたくしの将来の妻――ダッチェス家の次期当主の選定に頭を痛めているところでしょう。何しろ、一族の血を持たない当主など、前代未聞ですから」


 チェーザレ様が当主ではいけないのか、とか、継承権第二位の姉妹や従妹はいらっしゃらないのか、などという野暮な疑問を飲み込み「心中お察し致しますわ」などと野暮なことを言う。


「わたくしの父も数多の見合いの申し込みの中から、とりわけ慎重に選ばれたと聞いております。亡き祖母は、ある事件から祖父のことを一族の恥として忌み続けていたものです。その所為か、娘の夫には、ダッチェス家の女の駒となりしもべとなる、身を粉にして忠誠を誓う者でなければならぬと声高に宣ったそうです。父が選ばれたのは、彼が辺境伯の次男で、家が傾きかけていたから。親兄弟の人生を思えば謀反は起こさぬだろうと……父本人から伺いました」


 チェーザレ様は目を伏せ――平静をつとめるかのように――とつとつと語った。整った顔立ちに穿たれる影が、おしゃべりの声と楽隊の華やかな演奏の中で浮き彫りになる。


「実際、父は母と一族のために汚れ役をこなしている。不思議なことに、本当に不思議なことに……一族の長い歴史上、男児として生を享けたのはわたくしだけなのです。他家の女を娶るのは異例中の異例。今後我々がどのような道を歩むのかはですが、いずれにしろ、わたくしも祖父や父上のようになるのでしょう。ダッチェス家の女達の気高い血を守るためなら、膝をついて泥水を啜る男に」


 ゆっくりと開かれた瞳はやはり、これまでもこれからも、少しも凪ぐことのない水色を湛えていた。言葉に表出する以上に、暗澹としたものの気配がある。


「初対面のレディを相手に、退屈なお話をしてしまいましたね。大変申し訳ありません。いかがでしょう、これでお相子ということで」

「……チェーザレ様が構わないのでしたら、依存ございませんわ」


 チェーザレ様はおもむろにダンスカードを取り出し「ふうん」と目を細め、室内に視線を滑らせた。金色のまつげに囲われた、水色の艶玉がつるりと動く。次の曲にお誘いしたレディでも探しているのだろう。私も叔母様を探さなくては。


「ミス・ブルワー」

お礼を述べてスマートに引き下がるべく立ち上がろうとした私の腕を、チェーザレ様が引く。熱を帯びた彼の美しい指は、力強かった。甘いしびれが身体を駆け巡り、動けなくなる。


「先約がおありですか?」

 驚いて上手く声が出ず、首を横に振る。

「そう。実は、わたくしもまだパートナーをひとりも見つけていないのです。よろしければ、お相手願えませんか」


 まさか、そんな! 激しい喜びと焦燥が同時に湧き上がってきて、ああきっとこれがシンデレラの気持ちなのだわ、と身の丈に合わなすぎるロマンスとの遭遇に気がふれてしまいそうになる。


「い、いけません! いえ、あの、お気持ちはとても嬉しいのですが、ほんの少しワルツのお稽古を受けただけで……」

「初心者だから自信をお持ちでない、と?」


 チェーザレ様は眉をはね上げ、いかにも愉快そうな調子だ。

「たとえパートナーに足を蹴られようが踏まれようが、最大限に美しくリードするのが紳士のつとめというものです。舞踏会に憧れて、その為に此処にいらっしゃるのでしょう?」

 まったくもって彼の言う通りだ。ままならない稽古だって、殿方と踊るためのもの。しかし、最初のお相手がまさかこの御仁だなんて。

「大丈夫、恥はかかせません。ご安心を」

 ……もうダメだ。こんな麗しいお方に微笑まれたら、降伏するしかない。燃えるような熱さを顔に感じながら、どういう練習を積んだのかしどろもどろに白状した。正直さだけが取り柄だ。


 すると彼は、目を細め、口角をぐにゃっと引き上げ、整ったお顔をこれでもかと歪ませ、お腹を抱えて身体を折り曲げると、苦しそうに笑い出した。チェーザレ様の様子に、また視線が増えるのを感じる。どのぐらいの時間だったろう、彼はしばらくそうして笑い続け、私は真っ赤な顔を扇子で冷やしながら隠した。踊らずとも、もう十分恥ずかしい。


「ああ、大変失礼。貴女を辱めたいわけではないのです。感服いたしました。骨格標本を練習相手にするなんて、聞いたことがない」

 いくらチェーザレ様といえど、ここまでされるとむっとする。しかし彼は、そんな私を意に介さない。


「個人的にはお高くとまった円舞曲より、ミュゼットのほうが断然好みだ。ガンゲットにもよく出入りする。上流階級のパーティーよりも享楽的だし、市井の方々のほうがウィットに富んでいるように思う。品位には欠けるが」


 話しているうちに楽しくなってきた、と言わんばかりに、チェーザレ様の顔に悪戯っぽい色が滲みだす。水色の瞳は、如何なることにも動じない。だからこそ、恐ろしいほど鮮明に己の思惑を相対する者の瞳に投じ、捕らえてしまう。


そして、とんでもないことをさらりと言ってのけた。

「楽隊を買収しましょう。お近づきの印に、ミュゼットを一曲」

「はあ!?」

 抑えきれず、淑女らしからぬ素っ頓狂な声をあげてしまう。いろんな思考が追い付かず、開いた口が塞がらない。彼は不適な笑みをのせた唇を、すっと私の耳元に近づけた。


「貴女はご自身を見縊っている。しかし、貴女はその類いまれなる想念でここまでやってきたのです。我ながら哀れなものだ、あの家の血が巡る器に生まれついた因果か……貴女のような女に惹かれてしまう」


 抗う術もなく、彼の手中に落ちていた。爛れるように甘い毒に侵され、揺蕩うばかりだ。

鼓膜のすぐそばで、ひそやかに息がかすれる。


「ローズ、私は貴女の友人になりたい」

「……光栄の極みです」


 彼は私から身体を離すと、事も無げに給仕からグラスを受け取り、片方を私に手渡す。どんな好奇の眼差しも、叔母様の付き添いが外れたことも、内臓を潰しそうなコルセットの締め付けも、どうでもよかった。

 杯を軽く突き合わせ、口をつけると忽ち酔いが回る。


「さあ、飲み終えたら参りましょう。曲目のご希望は?」


 何もかもが、この男の成すがまま、その艶めきに翻弄される。それが一時の自由と栄華であることを、彼が誰よりも心得ていた。




 彼を思い出す時、必ずこの夜の葡萄酒の香りとともに、生きた彫刻のような姿が眼裏にたち昇る。その身が朽ち果てるほどの呪いを享けながら、気高く傲慢であった、ダッチェス家の末裔が。






極上のワインに捧ぐワルツ

原題 La Valse A Margaux

作曲 Richard Galliano

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旅人は地図を持たない 小町紗良 @srxxxgrgr

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