第435話 遺命(Ⅲ)

 セルウィリアは部屋の外に控えていた羽林の兵に声をかけ、中書省まで走っても

らった。

 それを受けて、ラヴィーニアが慌てふためき走って戻ってくる。余程の大事、すなわち王の薨去こうきょ出来しゅつらいしたのかと勘違いしたのだ。

 ラヴィーニアはまずは有斗が生きていることを確認すると、安堵した表情を浮かべた。

「陛下、急ぎのお召とお聞き、参りました」

「中書令には忙しいところ来てもらってすまぬ。頼みがある」

「どういったことでしょうか?」

「余が死んだ後だが、亡骸は王都の傍にある丘の上の墓群の一つに葬って欲しい。葬儀は簡素でかまわぬ」

 その言葉を聞いたセルウィリアはショックで目の前が真っ暗になった。

 そこにはアエティウス、アリアボネ、ヘシオネ、アエネアスの墓がある。有斗は特定の個人名こそ口に出さなかったが、それはセルウィリアにはアエネアスの横に葬って欲しいという意味としか受け取れなかった。

 これほど愛しているのに、有斗は過ぎ去った過去だけを見つめているのだろうか。だとしたら自分の王配として過ごした日々はいったい何であったというのだろうか。

 セルウィリアは失意と絶望で頭が真っ白になった。

 その頬にそっと冷たい何かが触れ、セルウィリアは現実に引き戻される。いつの間にか有斗が手を伸ばしセルウィリアの頬に当てていたのだ。

「すまぬ、こう言えばそなたが悲しむことは分かっていた。だが分かってほしい。余にとって、あの者たちと過ごした時間はかけがえのない宝物だったのだ」

 有斗は『アエネアスと』ではなく『あの者たちと』と言った。

 考えることすら億劫なほど苦しいだろうに、有斗が気を遣ってくれたことを感じ、己のことばかり考えていたセルウィリアは自分が恥ずかしくなった。

「陛下、わかっておりますとも。このような時にわたくしごとでご心配をおかけして申し訳ありません」

 セルウィリアとの会話が終わるのを待って、それまで口に手を当てて考え込んでいたラヴィーニアが口を開いた。

「陛下、陛下のお望みとあっても、それは叶えることは難しいと存じます」

 末期の願いであっても一顧だにしないラヴィーニアに、セルウィリアはきつい視線を向けた。

「中書令!」

「陛下は死後、巨大な墳墓に葬られるべきだと考えます。薨去日には毎年式典が行われ、この王朝が続く限り、祭り続けられるのです。陛下のことを知らぬ世代も巨大な墳墓を仰ぎ見るたびに、陛下の偉大な業績に思いを馳せるようになり、陛下の血を引く王朝の正当性を認識することになりましょう。魂魄は死んだとしても、巨大な墳墓となって、この朝廷の鎮守として永久とこしえにアメイジアを守り続けることとなるのです」

「中書令、陛下のたってのお願いなのですよ!」

 乱世を終わらせた偉大な王が最期に望むものとしては、なんと慎ましやかで遠慮深いものであろうか。セルウィリアは有斗の想いを叶えてあげたいと思った。

「よい。よいのだ。中書令の言うことはもっともである」

 有斗はセルウィリアにと言うよりは自分に言い聞かせるようにそう言い、大きく長嘆息した。

「もっともなことだ。中書令の言葉はいつももっともなのだ」

「陛下・・・・・・」 

「そうか、人は一度ひとたび王になったなら、死んでも王を辞めることはできないのだな」

 ラヴィーニアは有斗の言葉に深々と頭を下げた。

「御意」

「王とはなんと・・・・・・」

 瞬間、有斗の目のふちに小さな光が瞬いた。

「陛下・・・」

 それを見たセルウィリアは先ほど、己の中に浮かんだことを確認したいという誘惑にかられ、問いかけた。

「ひょっとして、陛下は王となられたことを後悔されておいでなのですか?」

 だが有斗は深い眠りに入ったようで、その問いに応えることはなかった。

 そして先ほどの言葉が有斗がこの世で最後に残した言葉となったのである。



 セルウィリアは気を失って目覚めない有斗が心配で、寝ずにずっと枕頭に侍っていた。

 翌早朝、誰時たれどきの空が白み始めた頃だった。有斗の目が開き、何かを探すように部屋を彷徨っていることに気付いた。

「陛下、お気づきになられましたか?」

 セルウィリアは喜び、有斗の顔を覗き込んだ。

 だが、わずかに手首を持ち上げ、唇を震わすものの声を発しない有斗を見、セルウィリアは有斗に残された時がもはや無いことを悟った。

「梨壺と御子を急ぎこれへ! 大臣や公卿へも使いを走らせるように」

 最後の別れを済まさなければならない。

 セルウィリアの言葉に半ば睡っていた女官たちは慌てて飛び起きて目を擦りながら、命を伝えるべく各所へ散っていった。


 やがて早朝の、静寂しじまが支配する後宮に甲高い子供の声が響き渡った。

「母上、早く、早く!」

 心が急くのかオフィーリアが足の裏を床板にドンドンと幾度も叩きつけて、ウェスタに早く歩くよう催促した。

 寝ているところを起こされたステファノスはぐずるし、お腹には産み月間近の子供が宿っているしで、体力自慢のウェスタといえども走ることはもとより、速足もままならなかったのだ。

「待ちなさい、オフィーリア! 待ちなさいと言うに!」

 ウェスタは侍女や自分の手を離れ、勝手に先に進もうとするオフィーリアを止めようとした。

「母上が遅いんですよ! 皇后さまは早く来るようにとおっしゃってるのです。急いで!」

「そうは言っても、このお腹では・・・」

 斜めになって体重をかけて急がせるオフィーリアに手を引かれ、ウェスタは大事な宝物が宿るお腹を抱えるようにして清涼殿へとたどり着いた。

「父上!!!」

 有斗の姿を視認したオフィーリアはウェスタの手を放し、両手を前に出して甘えに行った。

 オフィーリアに応えるように有斗は寝台から僅かに手を差し出した。


 次の瞬間だった。


 有斗の手にとてつもない力が加わり、強引に寝台から引きはがされて立ち上がらされた。

 まだ幼い娘が、いつの間にこのような怪力の持ち主になったのか、有斗は不思議でたまらなかった。

 そして不思議なことがもう一つあった。立ち上がるとそこは先ほどまでの真っ暗な有斗の寝室の中では無かったのだ。

 見渡す限り真っ白で、そして光が溢れて眩しい空間がどこまでも広がっていた。先ほどまで感じていた苦痛や心配はどこかに消え失せ、脳も身体も驚くほど軽かった。

 ここはいったいどこだろう、余は寝室で臥せっていたはずなのだがと有斗は思った。

 いや、不思議なことは更に一つあった。有斗の手を握って立ち上がらせたのはオフィーリアのはずだったのだが、目の前には愛娘とは似ても似つかない、赤い鎧を着、後頭部で赤髪を束ねた女が顔満面に笑みを湛え不敵な表情をして立っていた。

 その女がオフィーリアでないことだけは有斗にも瞬時に理解できた。だが有斗は頭がうまく働かず、それが誰かまでは即座にはわからなかった。どこかで見たような顔だなと感じただけだった。

「ここはどこだ? 余は清涼殿にいたはずだが」

 有斗は目の前の女に、心の中に浮かんだ当然の疑問をぶつけてみた。だが女はその有斗の疑問に直接答えることは無かった。

 代わりに───

「はぁ!? 余ですって!? 何よ、その気取った言い方!」

 と怒り出した。明らかに王を王とも思わぬその態度には有斗も目を瞑るわけにもいかず、咎めだてせずにはおられなかった。放っておけば、他の臣民に示しがつかないのである。

「そなた、王に対して無礼であろう!」

 万権を握る王に叱責されたのだ。有斗は相手が恐懼して平伏ひれふし、己の非を認めるのを待った。

 だが女は逆に顔いっぱいに不満を表して、胸鎧をどしんと勢いよく有斗の胸にぶつけて来るという暴挙に出た。

「痛い!」

 戦場に出ることも無くなり、穏やかな生活を送っていた有斗は久々に感じる痛みに思わず悲鳴を上げた。

「何よ尊大ぶっちゃって、有斗らしくない! 友達だって言ってくれたのは嘘だったの? 忘れちゃった!?」

 ことここにいたって、頬を膨らませてね詰め寄る不遜な少女が誰なのかを有斗はようやく思い出した。

「アエネアス・・・?」

「そうよ。ていうか、何? その言い方? まさか、わたしの顔、忘れちゃってた?」

 王である有斗相手に咎めるような口調で平然と話す、そのような傲岸無礼な人物は、そして有斗を普通の人として接してくれる人物には、このアメイジアにおいて有斗は一人しか心当たりがなかった。アエネアスに間違いないと思った。

 有斗は喜びで自然と声が大きくなった。

「アエネアス!!」

 アエネアスは得意げに鼻孔を膨らませた。

「そうだよ。わたしだよ」

 あいかわらず子供っぽさが残る仕草に有斗は頬を綻ばせた。だが有斗はこの場にアエネアスがいることに違和感を感じた。

「アエネアスはどうしてここに!? 確か・・・バアルに斬られて・・・?」

 そう、死んだはずなのだ。

「ん? そんなことあったっけ?」

 余りにもアエネアスがあっけなく否定するものだから、有斗は口にしたことが真実だったのか確信が持てなくなってしまった。それに深く思い出そうとしても、だんだんと記憶が薄れてきて、先ほどまで持っていたはずの確信も揺らいできた。

「・・・あったような気がしたんだけど、気のせいだったかな?」

「そうだよ! 有斗はうっかりさんだからねぇ!」

 そうアエネアスが軽快に笑い飛ばすと、有斗も段々とそうだった気がしてきた。

 考え方も昔の有斗に戻ってきた。もはやアエネアスが取った不遜な態度にも、これを許していては王の権威が揺らぐなどといった小難しい理屈で腹を立てることもない。

 なぜなら有斗とアエネアスは対等の友達なのだから。

「でも変だな・・・長い間、アエネアスと会ってなかった気がするんだ。何故だろう」

「大丈夫、これからはずっと一緒だよ」

 アエネアスはそう言うと爽快に笑った。昔と寸分たがわぬ笑顔で。それを見た有斗も嬉くなって笑い、それ以上深く考えるのをやめた。


 と、二人の会話が一段落ついたのを見計らったかのように、有斗の背後から声が投げられかける。

「陛下」

 声が耳に入った瞬間、有斗の頭頂部から足先に電流が奔るような衝撃が走った。

 有斗はその涼やかな声の持ち主を知っていた。記憶していた。もう何年も聞いていなかったが、一度も忘れることなど無かったのだ。忘れることなどできるはずがない。何故なら、その持ち主は──────

「セルノア!?」

 ゆっくりと振り返ると、そこには有斗の想像通り、晴天の夏空のような濃く澄んだ青い髪をした、青い目の少女が笑みを湛えて立っていた。有斗は腕を掴んで引き寄せると、強く───強く抱きしめた。

「きゃっ! へ、陛下!?」

「セルノア! 会いたかった!!」

 有斗は抱きしめたまま、声も発さずに涙を流した。

「・・・・・・・・・・・・」

 しばらく有斗の気の済むままに身を任せていたセルノアだったが、やがてそっと有斗の背中に両手を回し、抱き返した。

「陛下、私もです」

「どこにいたのさ!? ずっとずっと探していたんだよ!」

「申し訳ありません。差し障りがあって、陛下の御元に参ること叶いませんでした。長い間、陛下にご心配をおかけしましたことを心よりお詫びします」

「いいさ。こうして再び会えたんだから。それより僕こそ謝らなくちゃ。君を助けることができなくて、それだけがずっと・・・ずっと・・・!!」

「そのお言葉を頂けただけで充分です。それに・・・お傍に侍ること叶いませんでしたが、ずっと陛下を遠くから見守っておりましたよ。ずっとずっと陛下だけを見つめておりました」

「僕を?」

「ええ、陛下がこの乱世を平らげていく、そのお姿を全て。陛下がなした大業に比べれば、わたし一人の犠牲など何ほどのものでしょう。やっぱり私が思った通りです! 陛下はまごうことなき天与の人でした!!」

「セルノア・・・・・・!」

「陛下!」

 もう一度、セルノアを抱きしめようとしたその時だった。有斗の左腕に何かが絡まり、セルノアから引きはがされた。

 左腕に目をやると、少し涙目のアエネアスが眉を吊り上げてセルノアを恨めしげな眼で睨んで有斗の手にぶら下がっていた。

「・・・・・・」

「・・・・・・・・・」

 しばしの膠着状態の後、セルノアは怖気づくことなくアエネアスを睨み返すと、空いている方の有斗の手を掴み、もう一度自分の方に引き寄せようとした。

 が、力ではアエネアスにセルノアはかなわない。あっけなく引き返された。

「・・・なんなんですか、貴女は?」

「・・・そっちこそ、何よ!」

 一触即発状態の二人に有斗は、韮山崩れの時もかくやというほど狼狽し、割って入った。

「ふ、二人とも争わないでよ」

 だがその気弱な仲裁はかえって逆効果で、

「「どっち!!!?」」

 と凄い剣幕で二人に詰め寄られた。

「どっちと言われても・・・その・・・難しいなぁ」

 片やこの世界での初恋の人、片や有斗のこの世界でのたった一人の大切な友達。有斗の中では二人とも大切な好きな人であり、甲乙つけがたいのである。

 どうやってなだめようか困り果てる有斗を睨んでいた二人だったが、当然声を合わせて笑い出した。

「嘘ですよ、陛下を困らせたりは致しません」

 さきほどのまでのいがみ合いが嘘のように二人は有斗を挟んで仲良くなった。

「さ、有斗行こう。みんな待ってるよ」

「みんな?」

「そ、みんな」

 アエネアスが指さした先に顔を上げると、人々が群れ集っていた。

 アエティウスがいた。アリアボネもいた。バルブラやエザウ、ヘシオネの顔もあった・・・そしてアリスディアもいた。その他にも大勢の、見知った馴染み深い、それでいて近頃見た記憶がない顔が有斗を待っていた。

 有斗は思わず涙ぐんだ。

「さ、行こう」

 声に誘われ、引き寄せられるように有斗は一歩、前に踏み出した。

「陛下!!」

 持ち上げた右足が大地を踏むより先に、どこかから有斗を呼ぶ声が声が聞こえた。

 有斗はその声にやけに切迫したものを感じ、足を止めた。

「ちょっと待って」

 有斗は声の持ち主を探して振り返ったが、後ろもどこまで行っても真っ白な光があるだけで人影一つ見えなかった。

「どうかなされましたか?」

「誰かが僕を呼んだ気がするんだ。女の声だったような・・・セルウィリアかな?」

 声の抑揚がセルウィリアに似ていたので有斗はその名を口にしたのだが、女の名前を口にしたことで、一瞬にして二人は再び険悪な表情になった。

「陛下、まさかとは思いますが、私がいないのをいいことに、ま《・》だ《・》他に女を作られていたのですか!?」

「有斗、有斗! まさかあの王女と何かあったわけじゃないよね!?」

「い、いや、そういうわけじゃなくってさ」

 大いに狼狽うろたえる有斗に、二人の少女は顔を見合わせるとまた笑いだした。

「嘘。嘘です。少しからかってみただけです。わたしたち、陛下を困らせたりは致しません」

「そうだよ、有斗。さ、行こう」

「でも・・・」

 先ほどの有斗を呼ぶ声には悲痛な色が滲んでいた。それがなんとなく気になって、後ろ髪を引かれるのだ。あの声を無視して進んだら取り返しがつかない何かが起きるのではないか、そうも感じた。

「大丈夫だよ。セルウィリアなら後からそのうち来るからさ」

 だがアエネアスに背中を押され、有斗は一歩を踏み出した。そうなるともう止めるものは何もなかった。

 有斗が本当は失いたくなかった全てがそこにあるのだから。

 先に進めば、どういうことが待っているかは今の有斗にもわからなかったが、ただ一つのことだけはわかっていた。

 今度は決してこの大事なものを失ったりはしない、いつまでも離さないと。

 有斗は右手をアエネアスに、左手をセルノアに捉まれ、大好きな二人の少女に手を引かれて光の中に向かって駆けだして行く。

 もう有斗は迷わない、振り返ることもない。

 王であることも、アメイジアの未来も、あるいは家族のことさえも、有斗を悩ませる全てのことを忘れ去って、かつて乱世の終結を願ってただ前を向いて進んでいた、幸せだったあの頃のように夢中で走り続けた。

 やがて有斗の身体は光に飲み込まれ、見えなくなった。

 有斗は幽明境ゆうめいさかいこととし、永久とこしえに春を数える人となった。



 寝台に横たわる有斗の指をオフィーリアは小さな手で握った。

 そうすると有斗はいつも上機嫌に笑って握り返し、彼女の頭をやさしく撫でてくれるのだ。幼い彼女にはいつも行われる、それら一連の儀式が今回ないことが不思議であり、同時に不満だった。

「父王様、寝ちゃったの?」

 オフィーリアは振り返ると、目を閉じたまま動かない有斗を指さして、やっと追いついたばかりの母親に何か言いたげな顔を向けた。

 なにが起きたか悟ったウェスタは膝を付き、有斗の耳元に唇を寄せた。

「陛下!」

 反応が無い有斗にウェスタは再度、哀哭した。

「陛下!!」

 セルウィリアは傍らで控える侍医に目を向ける。侍医は有斗の手首に触れて脈を取るとゆっくりと首を横に振り、深く、深く叩頭した。

 セルウィリアは瞑目した。白磁のような肌を一滴の涙が伝った。

 部屋のあちこちから女官たちの声を殺したすすり泣き声が漏れだした。

 尚侍グラウケネは密やかにセルウィリアの傍から柱の陰に退くと、一人愁嘆場しゅうたんばを後にし、清涼殿の廊下を駆けだした。

 そして叫んだ。

「陛下、崩御!」

 慌てて駆け付けたが臨終に間に合うことができなかった官吏たちや、羽林の兵や女官たちも、グラウケネの言葉で有斗の死を知り、崩れ落ちるように慟哭した。

 告げて回るグラウケネの頬にも涙があった。

 グラウケネにしてみれば有斗は仕えやすい君主以上の何者でもなく、死んだからと言って何の感慨も浮かばないはずだし、現に心中に何か個人的な特別な感情が浮かんでいるということはない。だがどういうことか、ただ無性に悲しかった。

「崩御!!」

 グラウケネは涙を拭い、叫び続けた。

 きっと一つの偉大な時代が終わったからだとそう思った。



 皆が悲嘆にくれ、涙を流し、失意に打ちのめされる中、真っ先に動いたのはラヴィーニアである。まだ父の死すら理解していないであろう、あどけないウァレリウスに向かって袖を払って悠々と跪拝した。

「陛下、万歳万々歳」

 ラヴィーニアが跪拝する姿を見て、その場にいたすべての者が有斗が死んだと同時に、ウァレリウスが新皇帝になったという事実を今更ながら知ったのである。

「陛下、万歳万々歳」

「陛下、万々歳」

 官吏や女官たちが次々と床に額づき、新たなこの国の主、ウァレリウスに忠誠を誓った。

「陛下、万歳」

 そしてウェスタも遅れてウァレリウスに祝いの言葉を述べると、何が起きたかまだ理解できず、口を開けて立ちすくむ幼い娘の袖を引っ張った。

「姫も陛下にご挨拶を」

 そう言われてもオフィーリアは何のことだかわからず、母親の顔と弟の顔を交互に眺めた。

「・・・・・・?」

「姫も皆に倣って」

「へいか、ばんざいばんばんざい」

 ウェスタに再度促され、ようやくオフィーリアは新しいごっこ遊びの一つでもあろうかと思って母親を真似て頭を下げた。

 有斗の遺骸を前に、ウァレリウスの肩に手を置くと、セルウィリアは高らかに宣言した。

「先帝は身罷られました。残されたわたくしたちは御意志を継いで、万機に疎漏の無いように天下の安寧を保たねばなりません。それは非力なわたくし一人では難しく、ここにいる諸卿の力を借りねばならないことと思っております。よろしくお願いします」

 自分の言葉に皆が一斉に再び頭を下げる姿にセルウィリアはまずは最初の関門を乗り越えたことに満足するとともに、ここからだと心を引き締めた。

 天与の人、聖祖敬帝の伝説は終わり、文帝ウァレリウスの時代が始まる。

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