第432話 南部巡幸(Ⅲ)

 当日の有斗はめまいがかなり酷く、真っすぐに歩くこともままらなかった。だが当初の予定通りに出発しようと無理に馬車に乗り込みまではしたのだ。

 だが見かねたセルウィリアや官吏たちが止めたこともあって、最終的には彼らの言葉に従うことにした。

「陛下、すみません。俺が調子に乗って無理に飲ませたばっかりに」

 前日、飲み比べをしたベルビオは自分のせいだと恐縮しきりだった。

「ベルビオのせいではない。年甲斐もなくはしゃぎすぎた。もう戦場を駆けまわっていた若い頃の余とは違うということだな。これではいざというときに戦場に立つこともできぬ。少しは机から離れて、身体を動かすような運動をせねばならぬな。反省せねば」

 机の上で書類仕事ばかりかまけていたのが悪いのかもしれないと有斗は漠然と反省した。アエネアスがいなくなってからは、朝の剣の稽古もすっかりしなくなっていた。

「陛下、ご無理は禁物です。出立を延期いたしましょう。体調がお戻りになってからでよろしいではない」

「わかった。日程を変え、明日まで南京南海府に逗留することといたそう」

 そう長い間いたわけではないのだが、南京南海府には何故か強い思い入れがある。逗留するのも悪いことではないと有斗は思った。

「是非ともそうなさいませ」

 この時はセルウィリアをはじめ、全ての者が有斗の体調不良をいつもの延長線上のものとして軽く考え、ことの重大さに気づいていなかったことがうかがえる。

 だが有斗の体調が戻りきるまで三日を要したのである。


 とはいえ三日後には一見すると有斗の体調は元に戻ったように見え、巡幸は三日遅れの予定で大河の西岸へと向けて出立した。

 だが東に向かったはずの馬車は、夕方には南京南海府へと舞い戻ることとなる。

 有斗が再び体調の不良を訴えたからである。

 多少のことは我慢する王が不調を口にすることも驚きであったが、それ以上にセルウィリアたちを慌てさせたのは、南京南海府に帰着する頃には、もはや自らの力で身体も起こせぬほどにまで悪化したことだ。

 これはただ事ではないと、この時になってようやく気付いた随行員たちは慌てふためいた。

 もちろん王の巡幸ともなれば御典医ごてんいの一人も同道しているのだが、いくら調べてもはっきりとした原因と考えられるものが見つからず、疲労から来るものではないかと言う当たり障りのない見立てをしたものだから、セルウィリアなどは憤慨した。

「陛下の御病気が何であるかも分からず・・・治療策も立てられないとは、何のための典医ですか!?」

「そう責めるな。典医も己が職分は果たしておる」

 有斗などはこの時代の医学に最初から期待をしていなかったこともあって、典医の見立てが曖昧であってもさほど腹は立たなかった。それに癌やウイルス性の病気などだったとすれば例え病名が判明したとしても、この世界では治す術はないであろう。

「ですが・・・!」

「それよりこの後のことを考えねばなるまい。手筈を整えてくれた者たちには悪いが、巡幸は中止して王都に戻るのが上策と考えるが、皇后はどう思う?」

 大河に向かった後は、南西へと道を戻り、潜龍坡せんりゅうはを越え、教団との戦いで死んだ者たちの供養を行う予定を立てていた。それが行えなくなることには後ろ髪を引かれる思いであったが、この病気の真実の姿が分からない今は大事を取って王都に戻るべきだと有斗は判断した。

 その言葉に官吏たちもセルウィリアも大いに賛意を示した。

「是非ともそうなさいませ! 南部にはまた来ることもございましょう。残念ではございますが、今は体調を整えることを優先なさいませ」

 有斗は静かに目を閉じて頷いた。

「そうだな」

 侍従たちが急ごしらえで馬車を寝台に仕立て、そこに有斗が臥す形で巡幸の列は西へと向きを変え再度動き出した。

 かつて徒歩でたった一日で走破した南京南海府とモノウの距離を巡幸の列は三日半もの日にちを費やした。それだけ有斗の体調を気遣って休み休み進んだということである。と同時に、有斗の体調がいかに悪化していたかということでもあった。


 有斗は気丈にも隠していたようだが、体調は良く成るどころか更に悪化を続けていたことをセルウィリアは鋭く洞察していた。

 そこでモノウにつく前に早馬を王都に飛ばして御典医を呼び寄せると同時に、三公など朝廷の主だった者にだけ密やかに、有斗が不予であることを伝えさせた。

 セルウィリアからの早馬に接した三公は吃驚仰天し、すぐさまありったけの薬と典医全員を馬車に詰め込んでモノウへと出立させた。

 到着した典医たちは早速寄ってたかって有斗の身体を調べ、病名について討議した。だがその甲斐もなく、病名も、病に対処する術も見つけられず、セルウィリアを落胆させた。

 一方、その馬車に同乗してきた小さな影がある。三公が王都を離れるわけにはいかないので朝廷の代理としてラヴィーニアがやってきたのだ。

 まつりごとならいざ知らず、病に対して中書令が来てどうなるものかとセルウィリアなどは思ったが、ラヴィーニアは朝廷の代理である。会わせないわけにはいかないし、有斗も面会の意向を示した。

 ラヴィーニアは有斗の顔色を見て表情を曇らせ、珍しいことに少し考え込む仕草を見せた。そして考えがまとまると有斗とセルウィリア両者に向かって恭しく頭を下げた。

「陛下、陛下には王都に戻っていただかなければなりません。しかも早急に」

 その言葉にセルウィリアは咎めるような声色で叱声を発し、ラヴィーニアを睨みつけた。

「中書令!」

 だが有斗はセルウィリアに一瞬目をくれたものの、ラヴィーニアの言葉に対しては特に特別な感情を示すこともなく、目を閉じて深々と息を吐いた。

「やはり中書令もそう思うか」

 その態度から、どうやら有斗の中でも同じ結論は既にあったようだった。

「御意。陛下には必ず生きて王都の門をくぐられる必要があると考えます」

 だが、あまりにも有斗のことを考えたとは思えない言葉、あまりもの不敬な言葉に、再びセルウィリアが激昂げきこうした。

「中書令、失礼ですよ! 言って良いことと悪いことがあります!!」

「よいのだ皇后よ。恐らく余の命はそう長くはもたぬ」

「陛下、何を気弱なことをおっしゃられるのですか。陛下の病は治ります! きっと治られます!!」

「皇后よ、余も人だ。いつかは死ぬのだ。たまたまそれが今回だったというわけなのだろう」

「ですが・・・ですが今回とは限らぬではありませぬか! 無理を押して王都に向かわれて、それで陛下の身に何かあったら、わたくし、生きてはおられませぬ!」

「皇后よ、そなたの気持ちは嬉しい。だがよく考えるのだ。これはそなたらの将来を案じてのことである」

「わたくしの?」

「そなたとウァレリウス・・・そして他の子供たち・・・さらにはアメイジアの未来に深く関わることだ」

「わかりませぬ。そのようなものよりも、今はまずは陛下のお身体のことをお考え下さいませ」

「よいから聞くのだ。もし余がここで死んだとしよう。そうなれば、そなたは王都に帰ってウァレリウスを王にするであろう」

「そのような仮定の話はおやめください! 悲しいですし、不吉です」

「皇后よ、落ち着け。いいから答えるのだ。そうなった場合、そなたは余の遺言を違えず、守ってくれるか?」

「・・・・・・陛下の御遺命とあらば必ずやそういたします。他の誰が異論を唱えようとも、必ず陛下の御意に沿うようにいたします。お信じ下さい」

「そなたのことだから必ずやそうするであろう。それは心配しておらぬ。だがその遺言は本物であろうかと考える者も出て来る。あるいは嘘であると故意に悪意を持って広める者も出てこよう」

「ここには中書令もおります。誰が陛下のお言葉を疑いましょうや」

 皇后と中書令、すなわち後宮と朝廷を代表するその二人が有斗の遺言だと言えばだれも異論を差し挟む余地はない。セルウィリアはそう言いたげだったが、

「それはどうでしょうかね」と何故か当のラヴィーニアが否定的だった。

「そうだ。中書令は余の懐刀で朝廷のかなめとも言える重臣だが、同時に稀代の策士と思われている。その口から出てくる言葉が必ずしも真実であると全ての者は思わない」

 見方によっては人間性を悪し様に言っているようにも聞こえる言葉だが、ラヴィーニアはそういったことには無頓着なのか、特に感情を表さず、

「御意」と同意して頭を下げただけだった。

「果たしてそなたが行っている政治は本当に生前の余の望んでいる形で行われているのであろうか、あるいは余の遺言を捏造して我意を押し通している、または中書令と組んで政治を壟断ろうだんしようと企んでいるのではないのかと疑うものが出てくるのではないか。余が恐れているのはそのことなのだ」

「・・・・・・陛下にはそういった不逞人物にお心当たりがおありで?」

「例えば梨壺はどうであろうか」

「梨壺が!」

「その口ぶり、そなたにも心当たりはありそうだな」

「梨壺なら・・・でも・・・いいえ、そんな! 確かにわたくしと梨壺には遺恨がありますが、個人的な感情で大義の無い戦を巻き起こすほど梨壺は馬鹿であるとは思われませぬ!」

 実はセルウィリアはウェスタが少し怖い。それは有斗を取られるかもといった女としての本能的な恐れからくるものではない。また、セルウィリアにとってウェスタは癇に障る言動をする、気が合わないといった感情的な問題でも無かった。じつのところそういったことに対して、もちろん怒ったり悲しんだりはするが、根本は大した問題ではないのである。

 セルウィリアにとってウェスタが怖いのは、身分や法律を軽々と飛び越えて行動する、その精神背景である。ウェスタが身分や家柄に絶対的な差のあるセルウィリアをなんとも思っていないかのような行動をする背景には、身分や家柄といったこの世界を形作る秩序を意味のないものと捉えている精神背景があるのではなかろうか。

 そう、例えば王の子のうちに年長の男子が王位を継ぐという祖法さえも無視するような。それがセルウィリアには怖いのである。

「梨壺一人ならばな。だが梨壺の野心に火をつける者が現れぬとは限らぬではないか。王の遺言とやらはでっち上げに過ぎず、病弱なウァレリウスに代わってステファノスを王に付けるのが余の本当の意向であった。それをげたのは皇后である。正義はこちらにあり、梨壺のお力になりますなどと、まことしやかに耳に入れる者が現れぬとは限るまい。梨壺もそれを信じ・・・あるいは嘘と分かっていても、我が子を王にするために、その嘘を一時いっとき信じたふりをしたらどうする。梨壺は不遇の官吏や・・・東国の有力な諸侯を味方に引き入れ、そなたとウァレリウスに対して弓引くことを企まぬとは言い切れまい」

「高祖以来の定法で王位は長子が継ぐことと決まっております。それがある以上、梨壺に味方する与党は少ないものと心得ます。梨壺がよからぬことを考えたとしても、与党が少なければ勝ち目がないと謀叛を起こすまでには至らないのではないでしょうか?」

「確かに謀叛を起こすのには動機と力が必要だ。だが例えば焚き付ける者がマシニッサのような巨大な力ある者だとすればどうする? ベルメットとコンツェを合わせれば王師二軍(一万人)もの兵に匹敵する動員力を持つ。反乱の核となるには十分な大きさではないか」

「確かに・・・」

 確かにマシニッサならばいかにも言いそうな言葉である。それにウェスタとマシニッサが組めば河東にて巨大な一大勢力が出現することになる。その危険性に思い当たったセルウィリアは顔を青くしたが、同時にその話を全て素直に飲み込めぬものも感じた。

「ですが陛下、お忘れですか。コンツェ公は油断のならぬ陰謀家ではありますが、頭の切れる人物です。そんな勝ち目のない戦に加担するはずがないではありませぬか」

 ベルメットとコンツェの間には幾多の諸侯があり、反乱を起こしたとしても連携した動きは取れず、最終的に王師に各個撃破されてしまうに違いない。

 何より両者とも王都より遠い。もしセルウィリアが反乱の気配を掴めば、後宮にいるウェスタの身を抑えることは容易いのに対して、反乱側が助け出すことは難しい。ウェスタとステファノスという神輿を失っては反乱も続けようがない以上、成功の見込みが薄すぎる。そして成功の見込みが薄い以上、反乱など起こすはずがないと言うのが誰にとっても常識的な考えではなかろうか。

「だがマシニッサが梨壺を本心から助けたいと思っていないとしたらどうする?」

「どういうことでしょうか? わたくしには意味が分かりませぬが」

「正直、マシニッサが梨壺を助けて首尾よくステファノスを王に付けることに成功しても得るものは多くはない。他の者と違って位階や官職を得てもマシニッサは喜ばぬし、といって恩人とはいえマシニッサにこれ以上の大封を与える気には梨壺もとてもならぬであろうからな。だが・・・マシニッサがその欲望を満足させる方法が無いわけでは無い」

「・・・・・・どのような方策で?」

「梨壺を焚き付けその気にさせ、準備が整ったところであえてそなたの耳に入れるのだ」

「!」

「そうすればそなたは後宮にいる梨壺とステファノスを殺さずにはおられまい。違うか?」

「確たる証拠が揃えば・・・治世を守るためには、それしかないと存じます」

 セルウィリアはあえて腹を痛めて産んだ我が子、ウァレリウスの為とは言わなかった。

「中書令よ、そうなった場合、そなたはどちらに味方する?」

「世子は一の宮であり、法から言っても道理から言っても皇后陛下にお味方することになるでしょう。そしてそれは他の多くの官吏も同じと心得ます」

「その通りだ。そなたには印綬を預けることとなろうし、羽林や金吾の兵もそなたに従うであろう。梨壺もステファノスも河東へ逃れる前になす術なく討たれることとなろう。さてここからが問題だ」

「どういうことですか? 担ぐ神輿をなくしてはコンツェ公と言えども振り上げた拳を下ろさざるを得ないと思うのです」

「神輿などはいくらでも作ればよい。マシニッサならばその辺の流民の子供でも攫って来て、これがステファノスであると言い張るであろうよ」

「そのような言葉に正義があろうとは思えません! 誰がコンツェ公についていこうと思いましょうや」

「例え正義がそなたにあろうとも、世人が全てそう思うとは限らぬということよ。王が死んだ後に正妃が仲の悪い貴妃とその子供を獄に下した場合、それは正義の為でなく、私怨の為ではないかと邪推する者が多いであろう。そなたの評判は落ち、梨壺とステファノスに同情する者も出よう。マシニッサはその空気を利用すれば容易く味方を得ることができる。いずれ目の上のたんこぶになることが見え透いてる梨壺とステファノスとを己が手を汚さずに始末まで出来てな」

「かもしれませぬが、それで諸侯を糾合し、王師をうち破って、東海龍緑府に進軍してくること叶いましょうや?」

「無理だろうな。だが、そもそもマシニッサは偽物のステファノスを玉座に据える気はないのだ」

「それはどういうことでしょうか?」

「所詮は偽物だ、東京龍緑府には本物のステファノスと接した者が多く、会えば必ずボロが出る。それよりもウァレリウスとステファノス・・・これは偽物だが、を拮抗させ世論を割り、この世を再び戦国乱世にし、周辺諸侯を併呑できる状況に持って行ったほうが都合がよい。マシニッサが考えるとしたら、そういうところではないか、中書令?」

「あたしがマシニッサであれば、それくらいは考えるでしょうね。何しろ油断のならぬ男ですから」

 ラヴィーニアは王の言葉に全面的に賛意を見せなかった。あたかも自分ならば今、有斗が考えだしたものよりも、更に精緻で狡猾な策謀を企んで見せると言わんばかりの不遜な口調であった。

 有斗は気分を害したが、あえてそのことには触れずに話を続けた。

「そう言うことだ。それを防ぐためには余は必ず生きて王都に入り、梨壺や百官を前にして、余人の推量が一切入らぬ形で、余の口から後事をそなたに託しておかねばならぬということだ」

 セルウィリアは今度こそ有斗やラヴィーニアが何を恐れていたのかを理解した。二人とも旅先で王が崩御することで、よからぬことを考える者が出て、せっかく築き上げた太平の世が崩れることこそを恐れているのだ。

「得心いたしました」

「であるから余の病状など構わずに、手遅れにならぬように、息のあるうちに王都に帰らねばならぬ。わかったな」

「・・・承りました」

「この世を戦国の世に戻さないことが何よりも肝要である。かといって余は人の親として我が子が可愛い。平和の為であっても我が子が死ぬような未来はあって欲しくない・・・・・・それに」

 有斗は病臥の傍に座ったセルウィリアの手に静かに自分の手を重ねた。

「はい」

「余はそなたに、王が死んだ途端に梨壺とその子を嫉妬で殺した悪女などと後世に悪評を残させたくない。これは余の我儘であろうか」

 セルウィリアはその想いが嬉しく、そっと手を握り返した。

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