第429話 夜半の寝覚

 再び後宮内の往来が自由になったことに一番喜んだのはオフィーリアであろう。

 幼い彼女には親同士のいさかいや、女官たちの争いのことなどまだ分からない。自分の思い通りに遊べないことに日々癇癪かんしゃくを起こしてウェスタや女官たちの手を煩わす日々が続いていた。

 彼女は再び弟たちを両手でつかむと、広い後宮中を我が物顔で歓声を上げて走り回って自由を満喫した。

 逆に迷惑を蒙ったのは子供たち付きの女官たちである。その分、心痛の種が増えることになった。

 再び賑やかさを取り戻した後宮に、全てが元通りとウェスタなどはお気軽に考えたが、ただ一人セルウィリアだけはそうは思わなかった。

 有斗は以前のように快活に笑わなくなったように思えるのである。笑わないわけでは無いのだが、その笑顔にはどこかしらかげがあるように思えるのだ。

 何より以前に比べて、一人で物思いにふけることが多くなった。


 そんな有斗であるが、セルウィリアの前で大きく喜びを発露した出来事がある。

 有斗にとって第四子、セルウィリアにとって第二子の誕生がそれである。

 セルウィリアは二人目であっても経過は順調そのものとは言えず、難産となったが、ともあれ男の子の誕生となった。慶事である。

 有斗は産まれたばかりの赤ん坊を女官から受け取ると、しっかりと抱きあげた。四人目ともなるとすっかり手慣れたものである。

「・・・陛下、いかがなさいましたか?」

 上三人の時と違い、大きく喜んだ姿を見せない有斗にセルウィリアは物足りなさを覚えた。

「ん、いや、子供はいい。何人いてもいいものだ」

 そう言うと有斗は産まれたばかりの赤子を抱き、あやすように部屋をゆっくりと歩いた。

 だが有斗のその姿は、殊更に皆に見せつけるためのようであり、どこかしら取り繕っているようにセルウィリアには思えた。

 皆が見つめる中、ゆっくりとした足取りで部屋を時計回りに一巡していた有斗が窓の傍に差し掛かると同時に、その足を止めた。

 両目を開いてまじまじと産まれたばかりの我が子を見つめていたかと思うと、その場を何度も行ったり来たりして往復を繰り返した。左右に激しく揺さぶられた赤ん坊は襁褓むつきの中から戸惑いと抗議の泣き声をあげた。

「陛下、若君の御誕生にお喜びはいかばかりかと存じあげますが、そのように激しく動かれては危のうございますよ」

「そんなにお動きになられては若君が驚いてしまいます」

 赤ん坊の身に何かあっては大変だと心配する女官たちの声を無視し、興奮した声で有斗はセルウィリアに語りかけた。

「皇后よ、見よ!」

「陛下、いかがなさいましたか?」

 いぶかしがるセルウィリアに、有斗は身体を傾けて泣きじゃくる赤子の頭を見せた。

「陽に当たればこの子の髪は金になり、日陰にあれば赤く見える」

 有斗の言葉の通りに、うぶ湯で湿った濃い橙色の髪は、陽が当たると色が変わるように見えないこともない。

 だがそれがどうしたというのだろうか。

「この子は・・・アエティウスとアエネアスの生まれ変わりに違いない! きっと、そうだ!!」

 有斗は内心の喜びを表すかの如く、我が子を高々と掲げた。

 そうだろうか、とセルウィリアはその有斗の言葉を疑問に思った。

 確かにこの子の髪は日に強く照らされれば赤色が飛んで金色に見えなくもない。また日陰に入れば赤みが深くなる。

 だがそれはこの子の産まれ持った髪色によるところが大きく、その色はと言えば、セルウィリアの橙色に有斗の黒色が加わって深みを帯びたためではないだろうか。

 だが有斗はそういった考えにはついぞ思い至らないようだった。

 だからセルウィリアは、

「そうかもしれませぬ」

 とだけ言った。

 そう思いたいのならば、そう思わせておけばいい。それが有斗にとって幾ばくかの慰めになるのであれば。そういった考えから、セルウィリアはあえて有斗の言葉に水を差さなかった。

 このことに対して歴史書に残った一文は、先ほどの有斗の発言だけである。歴史的に意義のある出来事では決してない。

 だが賢明な読者諸兄ならば次の一文だけで、有斗がこの子の誕生をどれほどの喜びをもって迎えたかを理解してもらえると思う。


 有斗はこの子をアレクシオスと名付けた。


 有斗の子供の中で『ア』から始まる名前を持つ者は、このアレクシオスただ一人である。



 さて、残念なことであるが、戦後十年を経たこの頃になると有斗の治世の評判は徐々に落ち始めていた。というか既に散々であった。

 有斗が天下を統一し、諸侯間の争いを禁じたことで以前のように戦で命を落としたりすることは無くなり、幸いにして天候不順も少なかったので飢えで死ぬ者も格段に減った。これだけでも大きな前進である。

 だが過去の苦難を覚えて、当たり前の今に感謝する知恵ある者はいつの世もそう多くはない。

 戦後復興が思ったほど進展していないことを民衆は不満に感じていた。

 その原因は何を隠そう有斗自身にある。

 有斗の後宮はセルウィリアとウェスタという二人の妃しかいない、歴史上稀にみる慎まし気な後宮であったが、これが後世の歴史家の筆になると『水道という金のかかる悪女がいたために、三人目を迎える余裕が無かっただけだ』と悪し様に書かれることになる。

 つまり戦時に大量に発行した軍票の償還、水道事業、教育関連費に多額の予算を取られてしまい、商業振興策や新田開発といった民衆が喜ぶような即効性のある大型な財政支出が行えなかったのだ。

 しかも水道事業が正当に評価されるのは水道が完成して、王都の人口が爆発的に伸びた後も王都の水の需要を補い、庶民の衛生環境の改善に貢献するようになってからである。

 教育法に至っては、世界で稀に見る庶民の識字率の高さが文化をはぐくみ、産業の仕組みを変え、民度を上げたなど実に有用な政策であったということを評価されるのは五百年もの時が必要であった。

 民衆の間では、口には出さないが王の御世が変わることを心待ちにしている者も少なくなかったくらいである。

 実際は為政者が変わったからと言って、政治が大幅に変革する、それも良い方向に変革することは極めて稀なのである。


 あの事件以来、有斗との間に少し間隙が産まれたことを感じてはいたが、有斗は以前と変わらずセルウィリアとウェスタとを夜ごと交互に訪れていたし、子煩悩で、どの子にもまんべんなく愛情を注いでいたこともあって、セルウィリアはまずまず満足した夫婦生活を過ごしていた。

 その夜、有斗は後涼殿を訪れていた。

 それが起きたのは、皆が寝静まった深夜のことである。

 有斗は突然、誰かに自分の名前を呼ばれたような感覚に陥り、飛び起きた。

 声がしたと思われる方向に顔を向けたが、そこは部屋の奥隅で暗闇がただあるだけだった。

 目を凝らすと、深い暗闇の奥底で一対のまなこがもの言いたげに、じっとこちらを見つめていることに気付いた。

 有斗はその奥に深い悲しみを湛えた目にどこか見覚えがあった。だが誰であるかまでは思い出せない。

「そなたは誰だ。何故、余の名前を呼んだ?」

 有斗は問いただすが、その目は有斗の問いかけに何も答えず、ただ真っすぐに有斗の目を覗き返すだけだった。

 声はしないが、その目が有斗に何かを訴えようとしているように思えた。

「余に何の用だ? 何か望みがあるのか?」

 有斗はもう一度、尋ねてみるが、眼の持ち主は何も語ろうとはしない。

 気味が悪くなった有斗は、目の持ち主が誰なのかを知ろうと両の目を覗き込んだ。その目は赤いようであり、碧いようでもあり、また別の色であるようにも見えた。

「そなたは誰だ? 何の権利があって、余の名前を呼ぶ!?」

 有斗の声に応えて目が近づいたのか、目が大きくなったのか、はたまた有斗が小さくなったのか、目が有斗を飲み込もうとした瞬間、意識が急速に遠のいた。

「陛下、いかがなさいましたか? ひどくうなされておられましたが」

 気が付くとセルウィリアが心配そうな眼差しで上から覗き込んでいた。

 セルウィリアの言葉で有斗は先ほどまでの出来事が夢であったことを知った。

「いや、なんでもない。他愛無い夢を見たようだ」

 返答しながら有斗は首筋を袖で拭った。いつの間にか汗をかいていた。

「さようでしたか」

 セルウィリアが寝たのを見届けて再び布団に入ると、有斗は夢の中の目が何色だったのかを思い出そうと漆黒の天井を見上げ考え続けた。

 有斗が眠れずに何度も寝返りを打つ様子を、セルウィリアは寝たふりをしつつ感じた。


 翌日、清涼殿で有斗は自ら呼び出したにもかかわらず、当の相手であるラヴィーニアと盛大な言い争いをした。

 珍しいことである。意見が異なることは今でもあるが、理知的に議論が行われ決着を見るのが、ここのところの成り行きである。まるで最初の頃の二人のように大声で感情的に罵り合う姿を見て、先の事件ですっかり委縮してしまった女官たちは怯え、グラウケネは目を丸くした。

 原因は有斗が強硬に自説に固執したからである。突然、有斗が南部に巡幸を行うと言い出したのだ。

「巡幸には莫大な予算が必要です。また道々の地方の官吏、民に多大な迷惑をかけます。是非ともお考え直し下さい」

 王が巡幸するとなれば、街道の整備から始まって、警備や宿の手配などに莫大な金銭と人手がかかるのである。秦の始皇帝や隋の煬帝の犯した失政の一つとして巡幸が挙げられるのはそれなりに理由があることなのだ。

「特に街道の普請や宿舎の新設を命じたりはせぬ。戦時の王師の移動と同じでよい。民や官吏には迷惑をかけぬ」

「であっても、陛下が巡幸するとあらば、官吏や兵や女官といった随伴の者だけでも相当な人数となりましょう。費用が掛からないわけではないのです」

「ならば予算が確保できれば、中書令は文句はないということだな」

「もちろんです」

 王である有斗の意向であっても、これ以上、有斗の趣味のようなことに国費をつぎ込むのは、官吏の要たる中書令じぶんだけでなく、三公や戸部に至るまで反対するに決まっているのである。どこからも予算が沸いて出てくるわけがない。やれるものならやってみろと言う気持ちだった。

 だが有斗はその日から精力的に動き出した。

 そしてゴルディアスやルツィアナなどの、どちらかと言えば有斗寄りの新進気鋭の官吏たちを使って予算の洗い出しを行い、必要な金を捻りだしてしまった。

 といってもその予算のほとんどは当面の水道事業を縮小することで捻出した。おかげで水道の完成は更に伸びることとなったのである。 

 このままでは本当に巡幸が行われることとなってしまう。ラヴィーニアにしてみれば、ただでさえ限られている予算をそんなことに使われてはたまったものでは無かった。

 ラヴィーニアは搦め手から攻めることにした。国母たるセルウィリアの口から反対の言があれば、王と言えども実行はせぬであろうという腹積もりである。

「民情を視察したいという陛下のおっしゃることは道理ではありますが、今すぐに行わなければならないような切迫した状況にあるわけではありません。皇后さまから陛下に翻意をお願いしていただきたい」

「陛下には陛下の深いお考えがあるのです。陛下のお気のすむようにいたしましょう」

 有斗に理解を見せるセルウィリアにラヴィーニアは呆れ、開いた口がふさがらなかった。


 ここまでくればもう誰も王を止めることはできなくなった。巡幸を行うことが正式に決定される。

 いわゆる、世に名高い『有斗王の南部巡幸』、あるいは『南部巡幸』である。

 南部は王都に近いこともあって、巡幸した王は数多くいるが、日本で「太閤」という一般名詞が豊臣秀吉を指すようになったように、アメイジアではこの時以来、「南部巡幸」といえば有斗王の南部巡幸を皆が思い浮かべることとなる。

 そしてこの巡幸が有斗にとって最初の、そして生涯最後の巡幸となった。

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