第423話 後宮某重大事件(Ⅰ)

 『後宮某重大事件』

 この事件にはアドメトスの変やカトレウスの乱といったような公式の名称が実は無い。

 何故なら正史に一切書かれていないからである。それどころか同時代の公卿の日記などの一次資料にすら、その存在はほぼ見受けられない。

 辛うじて五辻宰相スティリコという公卿補任の端には連なるものの、歴史に何一つ足跡を残さなかった地味な男が書いた日誌に一行だけ書かれていることが確認できるだけである。

「本日、後宮でなにがしか重大事件が発生したらしい」

 たった一つある、この一文から本件は後宮某重大事件と呼ばれることとなった。

 五辻宰相は何かの間違いで宰相に上り詰めたような男で、「あのうっかりはまたヘマをしでかした」などと他の公卿の日記に辛辣に書かれている男であり、日記自体も伝聞や風説、あるいは誤記なども多いことから、本来ならばその日記の一文など取るに足らぬことであるとして歴史家も無視するのが筋であろう。

 だがその日以降の五辻宰相の日記が故意に破り捨てられており、さらには当時の公文書、あるいは日記などの私文書の類にも書き換えられた痕跡があるともなれば話は別になって来る。

 強大な力を持つ何者かが、この一件を歴史から抹消しようとしたということに他ならない。

 それに確かに直接、この事件について書かれた資料は一切ないが、高級官吏の人名録ともいうべき公卿補任にこの年を境に大きな変化が見られるのである。

 何かが起こったことは全ての歴史家が認める事実である。

 歴史家たちは『後宮某重大事件』について議論を戦わし、その真実の姿を巡っていくつもの仮説を立てた。

 幸い、私たちが読むのは歴史書ではない。後宮某重大事件について追っていくことにしよう。


 先に述べたように、母親は冷戦状態、女官たちは二派に分かれて敵対状態であるのだが、そんなことなど一切お構いなしに、この世界で一番自由で我儘な存在であるオフィーリアは彼女の愛玩動物とでも言うべきウァレリウスとステファノス、二人の愛すべき弟たちを連れて後宮中を我が物顔で闊歩かっぽした。

 女官たちにとっていつの時代も王の子供というは宝物のように扱わなければならない存在である。有斗はアメイジアに他に係累のいないこともあって尚更、その価値は計り知れない。

 特に王位を継ぐ可能性が有る男の子たちの片方の身に何かがあったらと思うと、女官たちは気が気でなかった。両者とも母后から、それはそれは大事に扱われているのである。

 特にどちらかの子供がもう片方の子供を傷つけなどしようものなら、その時は自身の首と胴が離れるだけでなく、一族にも類が及ぶことは間違いない。セルウィリアもウェスタも巨大な権力を持つのである。

 それどころか政争や内乱の発端にでもなりかねない。

 そういった訳で女官たちは、子供たちの一挙手一投足だけでなく、双方の母后や敵対する女官たちの動向に神経を磨り減らす日々を過ごすことになっていたのである。


 この物語の最初の方で述べたと思うが、宮中での食事は膳司が一手に引き受ける。

 王である有斗に始まって、セルウィリアやウェスタ、その子供たち、果ては女官や女童めのわらめに至るまで、内容に違いはあれど膳司が用意するのである。

 膳司は工部省の官吏の職のひとつであり、また後宮十二司の女官の職のひとつでもある。

 これは食材の調達や管理といった後宮の外で行う仕事は官吏が行わなければならず、また貴妃の御前に配する役柄は女官である必要があるからである。

 その中でも王などに給される食事は、本来は有斗の執務室や寝室がある清涼殿の西側にある御湯殿上おゆどののうえで作られるのだが、清涼殿の一部が四師の乱で焼けてしまい、未だ補修もされていない関係で有斗の生活空間がやや手狭になってしまったことで代わりの部屋として接収され、その場を退去せざるを得なくなった。

 膳司は王の口に入るものを作る責任ある仕事だから、例えば女官であれば席次は内侍司、蔵司に次ぐという格の高い栄誉ある職である。すぐそばの殿舎に移るのが筋というものである。

 だが清涼殿のすぐ後ろは後涼殿であり、そこには正妃セルウィリアが住んでいる。場所を代わってくれと言うには相手が悪かった。膳司はさらに向こうの殿舎へと追いやられることとなった。

 これはすなわち、ウェスタやオフィーリアやステファノスに御膳を持っていくためには、必ずセルウィリアが住む後涼殿の前を通らなければならないということである。


 権威というものは何事にも順番を付けるということに他ならない。

 配膳にも席次というものが存在し、順番に有斗、セルウィリアとその子供たち、次いでウェスタとその子供たちという風に並んで運ばれる。

 追い抜くことは許されない。それは僭越である。つまり後涼殿にセルウィリアの食事を入れる間は、ウェスタたちの御膳を運ぶ女官たちは足を止める必要があった。

 女官になるには選抜試験を受けるのが通例であるから、後宮にいる女官は美貌に優れているだけでなく、知性と教養に溢れて、受け答えにそつのない気の利く女人がほとんどである。

 もっともかつて有斗を刺した女官が堀川宰相に推薦されて入ったように、高官の推薦という事例もある。だが王の不興を買えば推薦した当人が失脚するし、あわよくば王の御手付きになることを期待して送るということもあって、これもまためったな人物は選ばれない。

 だが美貌と知性が優れているからと言って、人間性まで優れているというかと言えばそういうわけではないのは世の悲しいところである。アリスディアのような女性は稀有な例なのだ。

 セルウィリアたちの膳を部屋に入れる作業の間、足を止めたウェスタ付きの女官たちにセルウィリア付きの女官たちが、毎回足を止めなければならないことに対して優越感も露わにして嫌味を言ったり、その逆にウェスタ付きの女官たちがウァレリウスの食が細いことを揶揄したりして、一色触発の状態になることもままあった。


 その日も後涼殿前では、御膳を運ぶ女官たちの列が順番待ちの行列を為していた。

 行列の横を、後涼殿に運び込まれた御前の中に、白湯が無いことに気付いたセルウィリア付きの女官の一人が膳司へ取りに行こうと擦りぬけた。

 途中で足を止め、膳を持ったウェスタ付きの女官とふたことみこと会話している姿を他の大勢の女官が目撃している。

 と言っても剣呑なところは何も見られなかった。

 それもそのはず、二人は元々同郷で、片やセルウィリア付き、もう一方はウェスタ付きとなったものの、仲は昔と変わらず良好であり、後に物語ったところによると親戚の慶事について祝いを述べただけとのことであった。

 何も毎回、諍いが起こるというわけではないのである。

 後涼殿に膳を全て運び終えると、行列は再び何事もなかったかのように動き出した。


 異変が起こったのは梨壺で、である。

 御膳を全て運び終えたのだが、食事する前に毒身を行った女官が腹痛を訴え、一刻後に死亡したのである。

 死亡したのは後涼殿前でセルウィリア付きの女官と話し込んでいた女官であり、彼女が運んでいた膳はなんとステファノスが食すことになっていた。

 これが『後宮某重大事件』の始まりである。


 この事件を耳にして色を成したのは五人。

 後宮で陰謀が企まれ女官が死に、息子が暗殺されそうになった有斗。

 同じく大切な子供を暗殺されそうになったウェスタ。

 自身が作り、毒見までした料理にどういうわけか毒が入っていたことになった調理の最高責任者である内膳司の長、奉膳ぶぜん

 後宮の最高責任者である尚侍ないしのかみグラウケネ。

 そしてもしステファノスが死んだ場合に、一番利益を得る人物と目される、すなわち容疑がかけられかねない立場にあるセルウィリアである。


「女官や羽林は元より、公卿であれ大臣であれ、皇后女御に至るまで余が許可を与える者以外は内裏に一切の出入りを禁ず」

 と有斗は直ぐに金吾に命じて内裏を封鎖し、羽林の兵で各殿舎の封鎖を行った。

 次いで捜査ということになるが、これが問題となった。後宮の女官は官吏ではあるが、王に近侍するという役割からか、大理や霜台といった普通の刑事、監察の扱いうる範疇はんちゅうにはないのである。

 もちろん女官と言えど聖人君子ばかりではない。それどころか王に近侍するがゆえに、なまじかな官吏よりも権力の亡者になるものも多いのである。何らかの事件を起こさないわけではない。むしろ数々の歴史的な事件に后妃や女官たちは関わってきた。

 だが政争に敗れたそのほとんどの者は闇に葬られたり、自害したりして、生きて法で裁かれることは無かったのだ。

 残りの例も地位を剥奪されて後宮を追放されるか、流罪とされたが、その裁定は王自らが下している。

 そもそも王に親しいというだけでなく、背後に朝廷の大物がいることが多い女官を官吏が忖度そんたくすることなく取り調べたりすることは難しい。

 それこそラヴィーニアやヘヴェリウスのような胆力のある官吏でないと無理なのである。

 ということで有斗は官吏の手を借りるのではなく、近侍する羽林の兵(その多くはダルタロス出身者である)たちを使って自ら後宮内の捜査を始めた。


 早々に内膳司の長、奉膳ぶぜんの容疑は晴れた。

 作った料理は奉膳自らがその場で毒身をする。その姿を膳司の多くの官吏や女官が見ていた。毒が調理中に混ぜられたというならば、同じものを食べた奉膳の体も何らかの変調が現れるはずである。だが奉膳には少しの異変も見受けられなかったからだ。

 それに奉膳は料理一筋の男で、官吏に珍しく出世や栄誉に興味が無く、セルウィリアだけでなくウェスタにも懇意にしているといった素振りもなかった。誰からか依頼されて毒を盛ったというのは考えにくい。

 とはいえ王の子の膳に毒が入っていたのは事実、奉膳は辞表を出して自ら蟄居したが、有斗は捜査途中であるとして、それを保留とした。

 毒は盛り付けられた後に入れられたと考えるのが自然である。

 毒を盛った犯人が誰かは分からないが、王子の食事に毒を盛るのはよくよくの覚悟のことだ。例え王が詰問したからと言って素直に吐くような人物とは思えない。

 周囲で何かおかしな動きをする者はいなかったか聞き取る中で、複数の女官の口から死んだ女官が後涼殿の廊下ですれ違いざまセルウィリア付きの女官と話し込む様子が見られたという証言が得られた。

 疑惑の目はその女官へ、そしてセルウィリアへと向けられることとなる。


 とはいえ有斗はセルウィリアが今回の事件で糸を引いているとは思ってはいなかった。

 自分の子供が産まれてもセルウィリアはオフィーリアやステファノスを分け隔てなく可愛がっている様子が見られたし、ウェスタとは微妙な関係が続いていたが、それは有斗に対する病的なまでの独占欲から来るものであり、その感情をステファノスに向けるような女性であるとは思わなかった。

 セルウィリアは王としての教育を受けたということもあって、基本的に自制のできる女性なのである。

 それに病弱とはいえウァレリウスはまごうことなき嫡子なのだ。高祖以来の不文律からして、何もなければ順当に王位を継ぐことになる。アメイジアの王制は王が子供の中から後継者を指名するというシステムを取っていないのだ。

 ウァレリウスの将来においてステファノスは目障りかもしれないが、あえて殺す必要は全くない。

 とはいえ疑惑のまま放置しておくのはかえってセルウィリアのためにならないし、セルウィリアの考えを歪んだ形で解釈して、女官が独断で行動したとも限らない。

 まず有斗は後涼殿にある、その女官のへやを羽林の兵たちに探索させた。

 少し捜索しただけで小瓶に入った怪しげな薬が出てきたという報告を受け、有斗は驚いた。

 その薬を典薬頭てんやくのかみに渡して鑑定させると「毒です」と難なく断じたことにより、犯行にその女官の関与が色濃くなる。


「死んだ女官と後涼殿前で話し込む、そなたの姿を他の者が目撃している。そなたが犯人ではないかという声がある」

 女官は王自らの取り調べを受け、しかも周囲を完全武装した羽林の兵に囲まれているせいか、目に怯えの色を浮かべていた。

 その怯えが犯した罪への意識から来るものなのかまでは、さすがに有斗も分かりかねるところだ。

「構えてそのようなことはございませぬ! 彼女とは同郷のよしみで他愛無い挨拶をしたまでのこと、決して膳に毒を盛るためではございませぬ」

「嘘を申せ。膳司から梨壺の間までの間で、あの膳に近づいたものは死んだ女官とそなたしかおらぬのだ。毒を盛ったのはそなたに相違あるまい」

「いいえ! 本当に、そのようなことはいたしませぬ!」

 有斗に訴えようとする、その女官の必死の表情には縁起臭さは微塵も感じられない。だが状況証拠を見る限り、この女官は限りなく黒に近いグレーなのである。

「だがそなたの一存だけでこのような大事を企むとは思えぬ。言え、誰に頼まれた?」

 この女官はセルウィリア付きではあるが、典侍ないしのすけのカロイエといった、有斗とセルウィリアの御前に常に侍るような位階の高い女官たちとは違って、直接声がかかる機会もそう多くはない。セルウィリアから直接命を受けて、あるいはセルウィリアの思いを忖度して行動したとは考えにくい。

「誰に頼まれたということはございませぬ」

 女官はか細く小さな声しか出せず、身体は小刻みに震えてはいたが、言語は明朗に関与を否定した。

「ならば、そなたの一存で毒を盛ったということか?」

「御子に毒をなどと、なんと恐れ多い・・・・・・とてもいたしませぬ」

「ならば何故、毒を所持していたというのだ。それこそが動かぬ証拠ではないか。正直に申せ」

「それはいざという時のお守り替わりとして持っていただけで、決して御子の食膳に入れたりはいたしませぬ」

 ここまで明確に犯行を否定するというのであれば、出てきた毒すらも自分のものではないと否定するものであるが、女官の口から毒の所持に関しては認める供述を得られたことに有斗はおやと疑問に感じた。

「聞き捨てならぬな。いざという時とはどういう時だ? 常日頃から梨壺の住人に毒を盛る機会を狙っていたということか?」

「めっそうもない。後宮は陰謀渦巻く魔窟でございます。望まぬ権力闘争に巻き込まれ、死を賜うこともございましょう。いざという時には自決せねばならぬという心構えで後宮に入るときに父に渡されました」

 筋は一応は通っている。だが疑いを晴らすには至らない。

 その後も有斗は問い詰めたが、女官は毒殺の関与だけは否定し続けた。

 同時に続けられた捜索でも部屋からは毒以上のものは出てこなかった。これ以上は時間の無駄であろう。背後関係も含めて、周辺から探っていくしかない。

 有斗は立ち上がると小瓶に入った毒を懐にしまった。

「嫌疑が晴れるまで、これは預かりおく。しばらくはこの部屋から出ることはまかりならぬ」

 有斗の言葉に女官は無言で大きく平伏ひれふした。

 その表情は己の犯した犯罪が隠しきれなくなったことに対する焦りからなのか、あるいは己の罪を今更ながらに悔いたからなのか、それとも冤罪にめられた恐怖からなのか、有斗には知るすべが無かった。

 そしてその口からそれ以上の真実を聞くことも叶わなかった。

 翌朝、女官が首を吊った姿で発見されたからである。

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