第421話 後嗣問題(Ⅷ)

 皇后と梨壺女御が妊娠したとの知らせを聞いて有斗以上に喜んだのが、国の行く末を憂いていた官吏たちである。まだ産まれたわけではないから早計ではあるが、二人も妊娠したとあらば一人くらいは無事に産まれてくれようと安易に考えたのだ。

 これでオフィーリアに万一のことがあっても継嗣に悩むことは無いと胸を撫で下ろした。

 喜んだのは有斗や官吏たちといった高貴な身分の人間ばかりではない。このアメイジアで大多数を占める官位に無縁な一般庶民の間にも喜ばしいことととして、この話題を口々に膾炙かいしゃすることとなった。

 この頃には戦塵が納まってからずいぶん経っていたこともあって、人民の間でも王室の慶事は復興のあかしであるかのように感じられたのだ。

 喜びに沸く官吏と市井に対して喜び一辺倒でないのは後宮である。

 オフィーリアを挟むことで若干、改善の兆しを見せていたセルウィリアとウェスタ両者の間柄も再び武装中立に近い関係性に戻ってしまった。

 正確に言えば今書いた言葉には語弊がある。多少の牽制こそあるものの、本人たちの関係そのものはそれほど悪化していない。

 問題は両者に仕える女官たち同士のいさかいにある。

 彼女らにしてみれば自分が仕える女主人が産んだ子が王になるかどうかで大きく未来が変わる。

 王と言えども人だ。近しい人物の言葉に重きを置きがちだし、情も移る。

 幼い頃から側仕えをしていれば大なり小なり得るものはあるであろう。

 歴史を見ても母后が裏で権力を握った例は枚挙にいとまがない。いや、乳母や女官といった立場でさえ権力を握った例もある。

 女官たちはずいぶんと勝手な未来予想図に胸を高鳴らせた。

 セルウィリアとウェスタ、両者が奇しくも同時に妊娠したことで、どちらが先に男子を、すなわち次代の王を産むのか、当事者でない彼女達であっても嫌でも意識してしまう。

 自分の出世のみならず、一族全体の浮沈がかかっているのだ。無理もない話だ。

 すなわちセルウィリア側にとってはウェスタ側が、ウェスタ側にとってはセルウィリア側が敵であるかのように見えていたのだ。


 後宮は広いと言っても有斗は全ての殿舎を使用しているわけではないし、形式上は全ての女官は尚侍グラウケネの指揮下にある。何より食事を作る膳司は一つだ。後涼殿の女官たちと梨壺の女官たちは普通に暮らしていても、否が応でも顔を合わせることになる。

「これは梨壺勤めの方々ではありませんか。ごきげんよう」

「これはこれは皇后宮の方々ではありませんか。ごきげんよう」

 偶然会った機会を利用してウェスタの様子を聞き出そうと、セルウィリア付きの典侍が相手方に探りを入れた。

「梨壺様はお元気でいらっしゃいますか? 近頃お見えにならぬものだから、皇后さまも大層心配なさっておいでですよの」

 有斗があちこち連れて回ることもありオフィーリアは今でも後涼殿に毎日のように顔を出すが、関係がギクシャクしだしたこともあってか、ウェスタは身重を言い訳にして後涼殿の方には最近は近づこうとさえしなかった。もっともそれはセルウィリアも同じである。

「梨壺様はお二人目ですから、特に問題もなく母子ともにご健康でいらっしゃいます。皇后さまは初産ですわね? 無事にお産まれるなるとよろしいですけど」

「お気遣い痛み入ります。皇后さまも初めてのことゆえ、何かとご苦労はあるかと存じ奉りますが、お陰様でお腹の御子様共にお健やかにお過ごしでいらっしゃいます」

「そうはおっしゃっても、初産は何かと大変でございますからね。それに産み月も遅れることもありますし。梨壺様はオフィーリア様の時も順調でございましたから、今回も順調そのもので何も問題はありませぬ。もしかすると皇后様より先にお産みになられるのではないでしょうか」

 この時代だから腹中の子供の性別は一切分からない。だから有斗には信じられない話だったが、双方ともに今度こそ産まれる子は男であるとばかり信じ切っていた。

 そして先に産まれるか産まれないかが大きな問題になると双方が認識していた。

「身籠るのは皇后さまのほうが先でしたもの。御子が産まれるのもセルウィリア様のほうが早いに決まってます!」

 正妃であること、そして身籠った月日が早かったことがセルウィリア側の優越心の裏打ちである。そこを大きく強調することでここでもウェスタ側に心理的に優位に立とうとした。

 その嫌味が分からないようでは後宮の女官は勤まらない。嫌味には嫌味で応酬した。

「そうだとよろしいですけど。お忘れですか? 先に男の子が産まれた場合のみ、オフィーリア様に代わって世継ぎとなられるのです。先に身籠った順にではありませぬからね」

「それに何があるか分かりませぬものね。無事にお産まれるなるとよろしいですけれど」

 それは事実ではあるが、女官がセルウィリアに関して口にしてよい言葉ではない。僭上の極みである。

「聞き捨てなりませぬよ!?」

 典侍をはじめ、皇后宮の女官たちは詰め寄ったが、梨壺の女官たちは鼻で小さく笑って軽やかにかわした。

「ご無礼申し上げました。それではごきげんよう」

 勝ち誇った眼で去っていく女官たちの背を典侍がきつい目でにらみつける。

 嫌味、さや当て、口喧嘩、小競り合いなどは日常茶飯事となった。


 だがセルウィリアとウェスタ、またグラウケネの三者が思惑はそれぞれ違うものの巧みに隠していたから有斗の耳にそれらの騒動は一切入ることは無かった。

 女官たちもさすがに王の御前ではそういった行動を取ることもなかったので目につくことは無かったのである。

 そもそも二人が身籠ったとはいえ産まれてくる子が男子とは限らぬし、無事に産まれてくることさえ確約された未来ではない。それどころかアメイジアの医学レベルでは産まれる時に母子ともに死ぬことさえ考えられる。

 この時、有斗の関心は産まれてくる子とセルウィリアとウェスタ、あるいはまだ幼いオフィーリアに多くの関心が向けられており、後宮全体の空気に気を回す余裕というものがなかったのだった。


 ということで有斗はオフィーリアが体調を崩したと聞けば顔を青くし、セルウィリアの食が細くなったと聞けば、少しでも栄養のあるものは無いかと官吏に探させたり、また大きくなったウェスタのお腹を触っては子供が動く様子に喜びを顕わにしたりした。


 時は流れ、翌有斗王15年の三月朔日さくじつ、セルウィリアが一昼夜にわたる難産の末、有斗の子を産んだ。

 小さな泣き声を上げた子を有斗は王服が濡れるのも厭わず、すぐさま産湯からすくい上げて抱き上げた。

 そして赤子を抱いたまま、じっとその子を見つめて踊るような足取りで部屋の中を行ったり来たりした。

 産み落とした大事な大事な宝物を、有斗が抱いたまま何も告げないばかりか、いつまで経っても見せてもくれないものだからセルウィリアは何かが起きたのではないかと疑心暗鬼に陥った。

「陛下、わたくしにもお見せ下さいまし。産まれてきた御子は男の子ですか? 女の子ですか?」

 有斗は喜びのあまり自分が言うべき言葉すら忘れ、セルウィリアに心配をかけたことにようやく気が付いた。

「男の子だ。国の世継ぎたる男子だよ。よくやった、セルウィリア。これで余も臣民に一分が立つというものだ」

 待望の世子を得て喜びを隠しきれない有斗を見て、セルウィリアもまた嬉しくなった。

「良かった」

 既にオフィーリアがいるとはいえ、女である限り後継問題には政治的な懸念が幾分残るのである。誰からも後ろ指を指されることが無い継嗣を産んだということは、有斗が臣民に対して負った王位のつつがない継承と政治の安定という義務を果たしたと同時に、セルウィリアも正妃としての役目を果たしたとも言うことができるのであった。

「本当に良うございました」

 セルウィリアは出産の痛みから来るものだけではない、一滴の涙を流した。


 継嗣が産まれたという目出度い知らせに後宮が、そして国中が浮かれたつ中、そのきっかり半月後の、満点の月が浮かぶ夜、今度はウェスタが産気づいて有斗は叩き起こされた。

 二人目ということもあるだろうけど、セルウィリアと違いウェスタはいともあっさりと出産した。オフィーリアの時と負けず劣らず大きな泣き声を上げた子は、こちらも男子であった。

 相変わらずしわくちゃの子猿みたいだというのが有斗の偽らざる感想だった。だが半月前に生まれた子もそうであったことを有斗は思い出し、母親の美しさなど関わりなく、産まれてきたばかりの子供は概してそのようなものであるのだと思い直した。

 有斗は大いなる喜びをもって我が子を抱き上げた。

 母親から引きはがされたことに対する抗議からか、赤子は一層大きな声で泣き始めた。

「君に似て元気でわんぱくそうな男の子だ」

 子供は何人目であっても嬉しく、可愛いものである。有斗は喜びに満ち溢れた声でそう言った。

「・・・はい」

 だがウェスタはオフィーリアを産んだ時と違い、そう嬉しそうには見られなかった。

 無理もないと有斗は思った。わずか15日の差で産んだ子は王の継嗣ではないのである。

 権勢欲の薄い有斗にしてみれば、今でも王になることにそれほど意義があるとは感じないのだが、そうでない人間が多いということも分かってはいる。

 そしてウェスタはどちらかといえば後者に入るということも分かっていた。

 だからウェスタを励ますつもりでこう言った。

「未来のベルメット伯の誕生だよ。良かったね、ウェスタ。これでツアヴタットの血は絶えることはない」

「・・・・・・はい」

 有斗の言葉にウェスタは笑んで見せたが、その笑みにはどことなくかげりがあるように感じられた。


 サキノーフの定めた法とアメイジア古来の伝統に従い、争いを避けるという観点からも年長の男子が王の継嗣となるのが定めである。

 アメイジアでは直系男子が絶えて戦国の世が始まった時を除いて、歴代の王は全て王位継承順位通りに後を継いだのである。

 ということで自動的に有斗の継嗣はセルウィリアが産んだウァレリウスということになった。

 ちなみにウェスタの産んだ子はステファノスと名付けられている。双方ともオフィーリアと同じように、母親が複数の候補を出した中から有斗が選んだ名前である。

 ウェスタが産んだステファノスは姉のオフィーリアがそうであったように、風邪ひとつひかずに元気に育って成長も早く、また好奇心が旺盛で、ハイハイできる頃になると目を離した僅かの隙に部屋の外へと脱走してはお付きの女官たちの顔を蒼白にさせた。

 一方、ウァレリウスは線の細い母親に似たのか、とかく順調さを欠き、しばしば咳をしたり、熱を出したり、乳を飲んでいたと思ったら突然吐きだしたりなどしてセルウィリアや有斗を心配させる日々が続いた。


 とはいえ幸いにして大事に至ることなく、有斗の三人の子らは無事にその年を越した。

 下の子が産まれると上の子は、構ってもらえなくなることから嫉妬したり幼児退行したりするものだが、オフィーリアは二人が歩けるようになると、右手にウァレリウス、左手にステファノスを掴んで仲良く庭で遊ぶなど、むしろ年の離れていない弟たちを可愛がった。

 というよりは弟を人形やぬいぐるみのような自分専用の新しいおもちゃと心得ている節があった。無邪気なものである。

 大変なのは子供付きの女官たちである。

 高貴な生まれと言っても所詮子供である。危ないものを口に入れないか、危険なことをしないか、始終ハラハラし通しだった。何かあれば責任を取るのはオフィーリアでなく彼女たちなのである。

 特に世嗣であるウァレリウス付きの女官は神経をすり減らす日々が続いた。

 しかも監督官であるはずのオフィーリアも猫や鳥に気を取られて弟たちを放っておいて駆けだしたりするものだから、女官たちはそれぞれ担当の子供を追いかけて後宮中を右に左に駆け回らなければならなかったのである。


 さて有斗が無事に男子を得たことに対して世間がどういった反応を示したかというと、市井の民は王位継承者を得たことに単純に喜んだだけだったが、官吏ともなればそう一筋縄に簡単ではなかった。

 彼らは誰彼なく集まると産まれたばかりの二人の高貴な赤ん坊について話し合った。

「三人いれば一人は成人するだろう。これで王朝はまず間違いなく次代に繋がる。まずは目出度いことだ」

「そういう意味では確かに目出度いが、目出度いとばかり言ってもいられない」

 巷にあふれる祝福ムードに水を差すような言葉に官吏たちは発言者に視線を集めた。

「どういうことだ?」

「何しろウァレリウス殿下は身体がご病弱だ。万が一ということも考えられる」

「しっ、めったなことを申すな。何かあった時に疑われるぞ」

「単なる可能性だ。よくある話に過ぎない」

 それまで二人の会話を押し黙って聞いていただけだった男が、慎重に言葉を選びながら会話に割って入った。

「それよりも産まれた日が僅かしか離れていないことのほうが問題だ。たった半月だ。せめて数か月離れていれば諦めもつくだろうが、半月で王位を逃したとあらば梨壺女御やステファノス殿下は内心は悔しかろう」

「悔しがってるうちはまだいいが、何か行動を起こさぬとも限らない」

「陛下がそんな行動は許さぬであろうことが分からぬほど梨壺女御も愚かでは無かろう」

「いや、本人たちは起こさないまでも、周りの野心家が起こした動きに否応なく巻き込まれないとも限らないぞ」

「我らとてそれは同じよ。巻き込まれたときにどう動くかで政界の浮沈にかかわることになろう」

 政争か政変か、あるいは戦争か。これから来るであろう暗い未来に身震いし、官吏たちは口を閉ざした。


 朝廷のそのさざ波のような動顛どうてんは内密なものだったから、一般には漏れ聞こえてくることは無かったが、鼻が利く一部の人種だけはどんなに距離が離れていても察知することができたのである。

「さて、久々に面白くなってきやがったぞ」

 ろくでもないことを思いついた時特有の表情が己が主人の顔に久々に浮かぶのを見て、最近は孫との安穏な老後を過ごすばかりだったスクリボニウスは昔の嫌な記憶を呼び覚まされ、顔の皺を更に深く刻んだ。


 ほぼ同時期に異なる母親から産まれた病弱な長子と元気な次男、母親同士はお世辞にも仲が良いとは言いかねる関係、しかも一方の政治的な後ろ盾には関西閥がいて、もう一方の後ろ盾には河東の諸侯がいる。

 これで何か起きないわけがない。

 後宮某重大事件の下地は整ったのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る