第407話 獄囚

 アエネアスの遺骸を墓に葬ることで、思い出をようやく心の奥底にしまい込むことができて気持ちの整理がつき、有斗に他のことを考える余裕が生まれた。

「教団の審議は霜台そうたいに任せているけど、僕はアリスディアに聞かなくちゃならないことがあったんだ。久しぶりに顔も見たいし、会いに行こう」

 有斗は執務を切りのいいところで終わらせる目途がたったところで典侍グラウケネにそう言った。幸いにして今日は急ぎの案件はない。

「それは・・・おやめになったほうがよろしいかと」

 珍しくグラウケネが困り顔を見せたことを有斗は不思議に思った。グラウケネは言ってみればプロ中のプロの女官といってよい。自身の感情や考えを表に出すことはなく淡々と仕事をこなすのでアリスディアに比べると共感にかけるきらいはあり、そこが若干物足りない時もあるのだが、いつも有斗ににこやかな笑み(鈍感な有斗でも薄々気付くビジネス笑顔だが)を向けて仕事を着実にこなす女性である。有斗にしてみればアリスディアに次いで王様生活で重宝している女官なのである。

「どうして?」

 目を丸くする有斗に対してグラウケネではなく、他の女官たちが次々と反対を口にした。

「あそこは陛下が足を踏み入れるようなところではございませぬ」

「凶悪な犯罪者が多数収監されております。そのようなところに参りまして、万が一に陛下のお身になにかありますれば、取り返しがつかないではありませんか」

「そんなところなんじゃ、ますますアリスディアのことが心配だよ。会いに行かなきゃ。大丈夫、腕利きの羽林の兵を大勢連れていくからさ」

 それに悪人は牢の中に閉じ込められているのだから檻の外の有斗には手の出しようもない、何の心配もないと有斗は笑って見せたが、女官たちは困惑を更に深めた顔を見合わせるばかりだった。


 有斗がアリスディアのところへ向かうと知ると羽林たちもいい顔をしなかった。だが彼らは女官たちと違って王の意志にあえて反するような言葉を発することはなかった。彼らの間ではそういった役目はもっぱらアエネアスが独占していたし、王の身の安全を保持することを優先しつつも、有斗の意志をなるべく尊重しようというのが長い付き合いである彼らのスタンスなのだ。

 彼らの中では有斗は王というよりはアエティウスやアエネアスといった存在に近い特別な存在なのである。


 身柄の奪還を防ぐという観点からも、重要な牢獄は王城内にあるのが洋の東西を問わず当たり前のことであるのだが、高祖神帝サキノーフが過去の日本の出であることもあってか平安京に倣い、牢獄は王城外、市中の東西にあった。

 不用心なことに本来ならいるべき警備の兵の姿が見えず、獄の門前は無人であった。つい先日まで戦国の世であったというのに不用心にもほどがある。

 遠慮なく入ろうとすると、中からおっとり刀で囚獄司の役人らしき男が出てきて長杖を向けて有斗たちの足を止めた。

「なんだぁ? こっから先は霜台の預かるところである。どこの兵か知らないが帰った帰った」

 役人は顔も赤く呂律が回っていなかった。しかも離れていても分かるほど熟柿臭かった。昼から酒でもかっくらっていたものと思われた。

 大理も長官や次官は政務に与る立場であり、朝会にも出る。他の省庁と折衝せねばならないから、王城に詰めて自分より上位の朝臣と日々、顔を合わせることになる。

 よって偉い顔ばかりはしてもいられないのだが、一方の中級役人以下は京中の治安を与るから、日々接するのは民ということになり、王や朝廷の威を借る狐となって尊大な態度を取りがちで、民からの苦情も多い。

 王が突然思い立って、こんなところを訪れるとは思いもしないであろうから、問題ともなっている、その側面が思わず出たということであろう。

「無礼者め!」

 有斗が言葉を発するより早く、羽林の兵が剣で長杖を斬り落とし、その小役人を一喝した。

「ひゃっ・・・! なにしやがるんだ!」

 弱い者にはとことん強いという悪い役人根性がしみついていただけに、不意に強く出られることで、その男はすっかり腰が引けてしまった。

「陛下のおなりである。アリスディア殿に御用がおありだ。案内を頼もうか」

「へ? へへっ・・・!」

 羽林の兵の言葉にも、今現在の自分の身に何が起きているのかまだ把握できないらしく、囚獄司は有斗たちに間抜け面をさらした。


「こ・・・こちらでございます」

 自分の前に現れたのが、王とその警護を司る羽林の兵と知って、牢番である囚獄司は今更ながらにへりくだって応対した。

 それもそのはず、羽林の単なる兵であっても有斗の傍に侍るからには実は官位は相当に高いのだから、この男にしてみれば雲の上の存在なのである。

 牢獄は抜け出せぬように巨大で分厚い石を積み上げて作られており、おおよそ快適な居住性といったものとは無縁の存在で、日当たりも風通しも臭いも最悪だった。

 最悪なのは住環境だけではない。そこの住人も実に質が悪い。

 見るからに凶悪な面をした男が言葉とも罵声とも分からぬ威嚇の声をこちらに向けて発するかと思えば、かと思えば焦点の定まらぬ、死んだ目をした男が身じろぎもせずに片隅でうずくまっており、足元にはネズミが這いまわっていた。道理で女官たちがいい顔をしなかったわけだと有斗は眉をひそめた。

 牢番は有斗たちを牢獄の一番奥へと誘った。

「陛下のお出ましだ。出てこい!」

 日の光が当たらぬ奥で何かが動く気配がした。

 ゆっくりと影が動き、辛うじて日の光が入る僅かな空間に這い出でた。

「アリス・・・ディア?」

 久しぶりに見たアリスディアの姿に有斗は思わず息をのんだ。

 顔は醜くはれ上がり、服は破け、服からところどころ覗く身体はどこもあざだらけだった。あの美々しい尚侍としての姿は微塵もそこにはなかった。

 アリスディアがここでどのような扱いを受けているかは一目瞭然だった。

「いつまで座ってるんだ!」

 牢番がアリスディアの髪の毛を手荒に引っ張って無理に立たせた。だがアリスディアは手を離されるや否や膝から崩れ落ちる。ただ立つこともできぬほど衰弱しているとは見受けられない。片方の足だけ力が入れられないといった崩れ方だった。どこか痛めているのではないだろうか。

「陛下の御前なるぞ、無礼ではないか! 立て、立たぬか! この売女ばいためが!!」

「・・・・・・ッ!!」

 牢番が手にした木杖で力いっぱい殴りつけ、アリスディアは声にならない叫びをあげ苦悶の表情を浮かべた。有斗はたまらずに声を上げる。

「やめろ! 手荒に扱うな!!」

「は?・・・はっ!」

 罪人を普段通りに扱っただけなのに、王にきつく叱責されたことに牢番は困惑し、動揺した。

尚侍アリスディアは立つには及ばない。座ったままでいい」

「陛下のご厚恩に感謝いたします」

 アリスディアは有斗に伏礼した。だがそれはいつも見られるアリスディアの華麗な礼ではない。女官どころか下女にも遠く及ばないぎこちない不恰好な礼であった。足以外にも痛めているところがあるのかもしれない。

 有斗は牢番に問いただした。

「これはどういうことだ!? 戦が終わった時はアリスディアは傷一つなかったはずだ!」

「へへっ・・・!!」

 有斗に怒鳴られて、牢番は慌てて平伏ひれふした。

「陛下はアリスディア殿がどうしてこうなったのかお聞きになっている」

 牢番は囚獄大令史であり、本来なら有斗に謁見など到底かなわぬ下級官吏である。直答などとても許される身分ではない。だが間に入って取次ぎを行おうとした羽林の兵を有斗は制した。

「いい。直答を許す。まどろっこしいことはこの際、抜きだ。ただし回答次第によっては生きていられぬことを覚悟しておくがいい」

 有斗は心のたかぶりを表に出さぬようにと気を付けたつもりだったが、牢番にぶつけた声は十分に厳しいものだった。

「へっ・・・・・・! その・・・なんで・・・」

 王の怒りに触れたことに気付いた囚獄大令史は震えあがり、返答も満足にできぬ有様だった。

「もういい、出ていけ。そして自宅に帰って謹慎していろ。この件は調べがつき次第、追って沙汰をする」

 有斗ににらまれ腰でも抜けたのか、あるいは足に力が入らぬのか、囚獄大令史は文字通りうの体でって牢を出ていった。

 牢番が出ていくまでその背を睨み続けていた有斗だったが、振り返ると警護の羽林の兵たちに命じた。

「皆も外してほしい。アリスディアと二人きりで話がしたいんだ」

「しかし・・・」

 相手は細腕の女性で怪我もしているようだし、王の命でもあるが、万が一のことを考えれば大罪人と二人きりという危険な状況は避けるべき事態である。兵たちは顔を見合わせた。

「アリスディアは僕を害したりしない。その気になればすでに僕はこの世にいない。だからこの場を外してほしい。これは王命だ」

 彼らもアリスディアとは親しい間柄である。とても有斗を傷つけるとも思えなかったこともあって、最後は有斗に押し切られ、羽林の兵たちは無言でその場を外した。


「アリスディアは楽な姿勢でいてくれ。平伏する必要もない。僕が許す」

「陛下の御厚情に感謝いたします。ですがお気になさらぬよう。わたくしは咎人とがびとなのですから」

「しかし、この扱いを受ける道理はないよ。アリスディア、すまなかった。僕が気を回さないばかりにこんなことに・・・」

 有斗は座り込むと頭を抱えた。

「ゴメン、アリスディア。ここがそういう世界だということをすっかり忘れていた。僕はなんて馬鹿だったんだ・・・」

「陛下、本当にお気になさらずに。罪を犯したものは罰せらて当たり前なのです。正しく刑罰を行わなければ人心は乱れます」

「いや、違う。一個人が他人を感情や一人の判断で罰してはいけない。それでは偏りが生じて不満を持つものが出てくる。その為に王がいて国があり法があるんだ。従わぬ官吏を討ち、敵対する諸侯を滅ぼし、民に権威を押し付け従わせることで戦国の世は消えるんだと思い込んでいた。敵はまだ身内に潜んでいた。それもこんな近くに。僕はまた取り返しのつかない間違いをしでかすとこだった・・・本当にゴメン」

 有斗は頭を抱えたまま、ひたすらアリスディアに謝り続けた。そしてそんな有斗をアリスディアは何も言わずに無言でただひたすら見守り続けた。

 やがて有斗はゆっくりと頭部を持ち上げるとアリスディアと向かい合った。

「アリスディア、ここに来たのには理由わけがあるんだ。ひとつだけ聞かせて欲しいことがあるんだ」

「なんなりと、陛下。わたくしで役に立つことがあるのでしたら何でもお答えします」

「君は四師の乱の時、僕をあえて南部に行かせようとしたね。僕を無事に南部にいけるように巡礼団に偽装して監視役をつけたりしたと言ったね。それは・・・本当のことかな?」

「はい」

「教団の他の誰かの意思でなく、君が。それは間違いない?」

「・・・はい」

「・・・・・・なら」

 そこまで言って有斗は口ごもる。いろんな思いが心に浮かび上がり交錯して、上手く舌を動かすことが出来なかった。

 何より真実を知るのが怖かった。もし有斗が想像した最悪の事態が真実だとしたら、有斗はこの世界全てに絶望することになりかねなかった。いや、生きていくことにすら絶望しかねない、それだけの重みを持つ問いだった。

 でも・・・それでも聞かねばならない。それは有斗が、有斗だけがアリスディアに聞くことができ、そしてセルノアの為に聞かなければならないことだ。

 ぐっと全ての感情を腹の中に押し戻し、有斗はようやく口から言葉を紡ぎ出した。

「ならセルノアを助けずに見殺しにしたのも、教団の指示なのかな?」

 それは有斗の心をずっと苦しめていた疑問。心をむしばむ悪魔のような妄想だった。

 反乱を起こした朝廷の官に対して有斗が確実に憎悪を抱くようにする為に、アリスディアがわざとセルノアを見殺しにしたということだとしたら、僕は・・・!

「陛下!」

 このような屈辱的な扱いを受けても、いつものように平然としていたアリスディアが有斗のその言葉にだけは大きく反応した。

「あの混乱の中、わたくしたち教団は陛下を見失いました! 巡礼団を幾組みも派遣してやっと陛下を探し終えたのです! セルノアの件はわたくしたちの与り知らぬこと! もしあの場にいたら決して見殺しになどしなかった!」

 アリスディアは澄んだ瞳で有斗に訴えかける。アリスディアは裏切り者と思われようと、大罪人と思われようと一向に平気だが、セルノアを見殺しにするような酷薄な女であるとだけは思われたくなかった。

「もう、わたくしの言葉など、信じてもらえないでしょうが・・・」

 そう言って目を伏せるアリスディアを見て、有斗は全てを理解する。

 それはアリスディアが未だに有斗のことを特別な存在として認識してくれているという証であった。もし本当に教団のためだけに有斗に仕えていただけならば、全てが終わった今、有斗にどう思われようとも平気なはずなのだ。アリスディアは嘘を言ってはいない。そして心から有斗を裏切ったというわけではない。

「そうか・・・よかった。それだけが気がかりだったんだ・・・」

 有斗はアリスディアが否定してくれたこと、人間的な反応を返してくれたことがとても嬉しかった。

「よかった・・・本当によかった」

 有斗はようやく胸のつかえがひとつ取れた気がした。

「とにかく、この処遇には納得がいかない。調査をする。しばらく待ってくれ」

「もったいない仰せ。しかし、もう、わたくしのことなど思い煩うことなど御無用です、陛下。わたくしは天下の大罪人なのですから。報いは受けねばなりません」

「罪人であろうと僕が守るべきアメイジアの民であることには違いがない」

 アリスディアは黙って有斗に深々と拝礼した。

 本当にこの方はご立派になられたとアリスディアは思った。

 最初の頃はこれが本当に天与の人なのかと疑念を抱いたものであった。天与の人という権威はあれど、王に求められる才覚に乏しく見えたのだ。

 だが今なら確信できる。才覚に乏しくても有斗は戦国の世を終わらせるのに必要なもの、持続する意志や、慈悲あるいは徳目と呼ばれるもの、そして人の意見を聞く度量を持っていた。だからこそ天与の人に選ばれたのであろうと。

 その思いがアリスディアの頭を自然と下げさせた。

 が、頭を上げたアリスディアはここで一つの変化に気が付いた。有斗の傍に常にいるはずの影がここまで現れていないことに。それは実に不自然なことである。

「陛下、アエネアスがお傍におられませぬが、どういたしました?」

 有斗はアリスディアのその問いに即答せず視線を逸らした。そして何も言わずに牢を出ていく。

「陛下・・・・・・?」

 牢を出たところで有斗は足を止め、背を向けたままアリスディアに返答した。

「アリスディア、アエネアスは死んだよ。教団との戦いで僕をかばって死んだんだ」

「陛下!!!!」

 アリスディアは有斗の言葉に悲鳴を上げた。教団が取り返しのつかない大きな過ちを犯したことを知ったのである。

「申し訳ございませぬ!」

 去っていく有斗の後ろ姿に向かって、アリスディアは涙を流し、何度も何度も額を地に擦り付けて謝った。


 有斗は護衛の羽林の兵のうち、特に体格の優れたものを数名選び出して命じた。

「アリスディアを牢から出して後宮の暴室に運ぶように」

 暴室とは字面からすれば牢獄よりも悪く見える。その本質は後宮の牢獄と考えてよい。

 だが王の命令で入れられた貴人が憂悶のうちに獄死したといった事例はあるものの、流行病にかかった者を隔離するために入れることもあるくらいで、今の牢獄に比べたら天と地と言っていいほど扱いに差がある。何より、有斗の目が届く。非道なことは行われない安心感がある。

「アリスディアは足を痛めている。自力での歩行は難しい。くれぐれも丁重に扱って運んでくれ。彼女はまだ従三位の尚侍だ。それなりの敬意と扱いを受ける権利がある。僕はまだアリスディアを尚侍から解任した覚えはないからね」

「分かっております」

 有斗の傍にいて有斗と会話できる羽林の兵はそのほとんどがダルタロス出身者である。そうでなくても有斗の気質と有斗のアリスディアの関係性はよく周知している。

 彼らとてアリスディアの扱いには腹に据えかねるものがあった。

「それから急いで八省へ行って、中書令と御史大夫を呼べ。ことの次第を確かめる」

 有斗の命令はアエネアスを挟んで下されるのが常だったので確かなことは言えないが、有斗の語気が心なしかいつもに比べて荒いように、命令を受けた羽林の兵たちには感じられた。

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