第406話 さよなら、ありがとう

 有斗は一旦、執務室に戻ったが、溜まった政務を片付けることなく部屋を出ると、アエネアスの遺体が安置されている一室へと向かった。

「開けて」

 有斗が命じると警護についていた羽林の兵たちが棺の上に覆いかぶさった分厚い無垢の一枚板を取り外した。

 棺に横たわるアエネアスはいつも有斗が見なれた彼女だった。女官に化粧をしてもらって、大量の花で死臭を消しているからかもしれないが。ともかくも生前のアエネアスと変わったところは見られなかった。ただ、動かないことを除けば。

 アエネアスはいつも子供か犬であるかのようにせわしなく動いて騒がしいものだから、まじまじと顔を見るということも少なかったから忘れていたが、こうして見るとやはり美人である。

 この世界で誰よりも傍にいてくれたのに、そんな単純なことも気付かなくなっていたことに有斗は今更驚き、同時に悲しみが沸き上がった。

 有斗は執務室に行って取って来た、みどりの髪飾りをそっとアエネアスの横髪に差し入れた。

「思った通りだ。似合っている」

 有斗はしばらくアエネアスの顔を眺めていたが、最後に長嘆息すると再び羽林の兵に命じてアエネアスの棺に蓋をした。


 ベルビオやプロイティデス、羽林のダルタロス出身者を中心にして葬儀が行われ、有斗と共に王都に戻ったアエネアスの遺体は速やかに葬られることとなった。

 一介の羽林大将の葬儀にもかかわらず、王の臨席を賜るという最大級の栄誉を受ける形となったが、それが死したアエネアスにとって慰めになるのかどうかは有斗にもわからなかった。

 埋葬が終わると有斗は最後の言葉を守ろうと、手紙を読むためにアエネアスの家へと向かった。

「陛下、わたくしもお供いたします」

 あの戦いの後、落ち込むことが甚だしい有斗をみかねたのか、セルウィリアが気遣いを見せて同行を申し出る。

「そっか」

 有斗はただ一言、そう言ってセルウィリアの申し出を受け入れた。


 アエネアス亭では例のテルプシコラという可愛らしい小間使いが有斗たちを出迎え、主を失った邸宅内に招き入れた。

 だがテルプシコラは主をふたたび亡くしたことでショックを受けたのか晴れぬ表情だった。

 有斗はそんな彼女に優しく語りかけた。

「今日、訪れたのは手紙を読むためなんだ。アエネアスの願いに従ってね。アエネアスは僕に出せなかった手紙を読んでほしいと言っていた。その場所はテルプシコラ、君が知っているとも。どこか分かる?」

 有斗の言葉にテルプシコラは眉間にしわを寄せて考え込んだ。

「アエネアス様がそんなことを・・・そう言われても私には心当たりはありませんが・・・・・・」

「よく考えて。アエネアスの最後の願いだったんだから叶えてあげたいんだ」

 有斗の問いかけにテルプシコラは眉間のしわを更に深くして考え込む。だがなかなか心当たりは思いつかないようだった。

「本当に心当たりは・・・・・・・・・・・・あっ! もしかしたらあれのことかも!」

「思い出した?」

「こちらでございます、陛下」

 テルプシコラに連れられて向かった先はアエネアスの寝所ではなく、その横の普段使っている部屋ではあるが半ば物置と化している部屋だった。

 後宮の女官の部屋のような女の子らしい可愛らしい装飾は少なく、壁には幾本もの剣や弓が飾られているところが実にアエネアスらしいと思った。

「こちらの棚の中にあるもののことだと思いますけど、でも・・・」

 有斗がその棚に近づき扉を開けようとするとテルプシコラが慌てて有斗の袖を掴んで邪魔をした。

「ダメです、ダメです! アエネアス様はそこに何か大事なものをお隠しになられておいでなのです! 開けてはだめです! そこだけは私にも掃除させなかったくらいなんですから!!」

 テルプシコラは急にアエネアスに怒られた過去を思い出して、有斗を止めにかかった。

 例え布越しでも玉体に触れられるのは後宮の限られた女官だけである。その僭上は定法通りであれば死に値する。

女童めのわらわ、無礼ですよ。陛下の御希望なのです」

 さすがに見とがめたセルウィリアがテルプシコラをたしなめた。もちろん本当に罰しようとしたためでなく、彼女が罰されないようにするためである。

「あっ・・・失礼をいたしました! ですがアエネアス様はそこを触られることをたいそう嫌がっておいででした。真っ赤になって私を叱りつけたんですから!」

 有斗は二人の会話に割って入り、咎めたセルウィリアと咎められたテルプシコラ双方に話しかけた。

「セルウィリア、こんな年でも主に忠実なのは褒めるべきところだよ。でもテルプシコラ、これはいいのさ。アエネアスに許しは得てあるんだ」

 そう言うと有斗は戸棚をゆっくりと開けた。戸棚には鍵がかかっておらずすんなりと開いた。驚いたことに中には有斗の想像以上の大量の手紙が入っていた。

 アエネアスの普段の言動からしてみれば、有斗の次に文字や手紙とは無縁だと思っていただけにあまりにも意外だった。

「皆、下がって。一人で読みたいんだ」

「わかりました」

 セルウィリアが女官とテレプシコラを連れて部屋を出ていくと、有斗は恐る恐る手紙へと手を伸ばした。

 手紙を開くと、幸いなことに中は有斗が読めるように全て楷書で書かれており、女官の介添えを必要としなかった。あのガサツ極まりないアエネアスが珍しく有斗に気を遣ったのだと思うと、思わず笑みがこぼれた。

 いったい何が書かれているのであろうかと、有斗は恐る恐るその手紙を読み始めた。

 あるものはまず自分がどれだけアエティウスが好きだったかを理由を含めて書き並べたうえで、そこでアエティウスを褒め称えているだけの文になっていることに気付いたのか、どこか慌てた筆跡で今好きなのは有斗のことだと謝った上で、アエティウスが死んだからという理由で、有斗に簡単に鞍替えしたというわけではないと延々と言い訳めいた言葉が書き連ねられていた。これでは有斗への告白文なのか、アエティウスへの謝罪文なのかまったく分からない。

 またあるものは有斗が好きなのはセルノアだと知ってはいて、真反対の性格と容姿だとは分かってはいても、自分ではその代りになることはできないだろうかなどと書いてあった。

 さらに別の一通ではもし有斗に自分の想いが拒まれたとき、自分は羽林将軍として今までと同じ顔をして仕えていられるだろうかと不安が述べられており、このままの関係のほうがいい気もすると書かれていた。

 そのどれにもアエネアスの心の苦衷が滲み出ている気が有斗にはした。

 その要点を得ずにまとまりのない、不器用極まりなく、それでいてどこか温かい手紙を読み終えると、有斗は口の端に笑みを浮かべた。

「馬鹿だな、アエネアスは。本当に馬鹿で嘘つきだな」

 有斗は死者に対して毒づいた。そして身体を僅かに震わした。

「ウジウジしてるのは大嫌いだって、あれほど僕に言ってたじゃないか。なんだよこの手紙、僕よりアエネアスのほうがよっぽどウジウジしてるじゃないか。言いたいことがあるなら、まっすぐに僕に言えばよかったじゃないか。友達だって言ってくれただろ。心を開いて本音で話し合うのが友達ってもんじゃないか」

 それともそれは王である有斗が、友達というだけでなく臣下でもあるアエネアスの心に気付いて言い出さねばならないことだったのであろうか。

 目からあふれ出た涙が手紙に落ち、墨で書かれた文字がにじんだ。


 有斗は小一時間ばかりアエネアスの書斎に閉じこもって出てこず、セルウィリアやグラウケネらを心配させた。

 有斗はただ泣きはらした目が治まるのを待っただけなのだ。

 グラウケネやお付きの女官、羽林の兵やセルウィリアは有斗に近しい関係ではあるが、アエティウスやアエネアス、アリアボネやアリスディアのように南部から何もかも分かち合ってきた間柄ではない。

 そういう感情を見せるべきではないと思ったのだ。

 アエネアスの書いた書簡を持って王城へ帰ろうと、有斗は馬車の階に右足を乗せたが、ふと気になることが一つ思い浮かび足を止めた。

 突然、立ち止まって館を振り返る有斗にセルウィリアらは戸惑いを浮かべた。

「陛下、いかがなさいましたか?」

「アエネアスが亡くなってしまって、この家はどうなるんだろう?」

 アエティウスやアリアボネが死んだ時はアエネアスが奔走して後始末をやったが、もうその二人もアリスディアもいない今、だれが後始末をするのだろうかと単純に疑問に思ったのだ。

 ベルビオやプロイティデスがやるのだろうかとも思ったが、それも何か違う気がした。彼らは身内同前ではあるが、正確な意味では身内ではない。有斗とアエネアスの関係と同じく君臣の間柄である。悲しいことだが。

「官が収公することになるか・・・近い血縁のトラキア公が継がれるかと思いますけど」

 トラキア公とは旧ダルタロス公トリスムンドのことである。

 アエティウスの遺産をトリスムンドが継いだように、アエネアスの遺産もトリスムンドが継ぐのが一般的な筋というものだ。

 だが、そうなると問題が一つ残る。この屋敷をずぼらなアエネアスに代わって切り盛りしてきた目の前の幼い少女はどうなるというのであろうか。その少女の役目も引き継がれるというものだろうか。

「君は行くところの当てはあるのかい?」

「いえ、とくには・・・南部に帰ろうかとでも思っています」

 テルプシコラは実家に帰ろうだとか、親や特定の人物の固有名詞を出さなかった。ひょっとしたら戦災孤児とかで帰る家はどこにもないのかもしれない。有斗は不意に切なくなった。

「なら王宮に来るがいい。僕にアリアボネやアエネアスの話を聞かせてくれないか」

「でも・・・私なんかが王城に行っても、ご迷惑なだけじゃ・・・」

「君にもし万一のことでもありでもしたら、僕はアリアボネやアエネアスになんといって詫びればいいのか分からないんだ。頼むよ」

 困惑したテルプシコラは周囲を見回してセルウィリアや女官たちの顔色を窺った。

 セルウィリアは目を合わすとゆっくりと頷いて同意するように促した。

「・・・・・・わかりました」

 幼い少女を一行に加えて、馬車は静かに王城へと戻った。


 王城に帰ると有斗は女官に命じ、持って来たアエネアスの書簡を一つ残らず寝所に運び込ませた。

「陛下」

 セルウィリアは二人きりになったのを見計らって有斗の耳元でそっとささやいた。

「陛下、もしお寂しいのであれば、今宵一晩、わたくしとお話しいたしませんか? 人と話せば、何かと気が紛れることもございましょう」

 有斗は最初、セルウィリアの申し出に目を丸くしたが、すぐにその意味を悟って微笑んで見せた。

「ありがとう、セルウィリア」

 有斗の反応を見てセルウィリアは喜色に顔を上気させ、潤んだ瞳で有斗を見つめた。

「わたくしは陛下の心の支えになりたいのです」

「君の気持ちは嬉しいよ。でも大丈夫、僕は一人で大丈夫だから」

 それは一人になりたいという意思表示だった。

「あ・・・」

 セルウィリアをその場に残し、有斗は立ち去った。その背中はどこか気落ちしているようにセルウィリアには思えた。

 

 有斗は寝所に籠って一人になると、夜更け過ぎまでアエネアスの書簡を何度も何度も読み返した。

 その度に後悔とやりきれなさだけが心に幾度も幾度も押し寄せた。

 そのうち夜も更け、内裏もすっかり静かになった頃に有斗は手紙の一つを手に取って寝床に入る。

 体を丸めて布団を頭の上まで引っ張り上げ深く潜り込むと、アエネアスの手紙を壊れんばかりにきつく抱きしめる。室外へ声を漏らして宿直の羽林の兵や女官に気付かれぬように布団の端を口で噛むと、やがてゆっくりと静かに涙を零して震えだした。

 有斗はその日、一睡もすることができなかった。


 翌日、朝議が終わると有斗は公務をすべて投げ出し、王都をひっそりと抜け出てアエネアスの墓へ向かった。

 アエネアスの墓は例の小高い丘の上の、丁度空いていたアエティウスの墓の隣に建てられた。

 もちろん、こうなることが分かっていたわけではなかったであろうが、アエネアスが頑強に抵抗してヘシオネの墓をアエティウスの墓の横に建てさせなかったことが、多少変な言い方になるが生きた形となった。

 死んでからであっても、好きだったアエティウスの傍らにずっと寄り添っているなら本望であるかもしれない。

 それが本当に慰めになるのかは有斗にも分からなかったが。

 有斗は真新しいアエネアスの墓にお供え物をし、花を交換して深々と頭を下げて拝んだ。

 そして羽林の兵に命じて墓の傍らに火をくべさせ、持ってきたアエネアスの書簡をひとつひとつ火に投げ入れ、その度にアエネアスの墓に何かを謝するが如くに深々と頭を下げた。

 その様を後ろに立って無言で見守っていたセルウィリアだったが、有斗が最後のひとつまで躊躇ためらいもなく火に投じようとする姿を見てたまらずに声を上げた。

「陛下!!」

 静寂が支配していたその場に、突如として大声が響き渡ったことに一同が驚き、一斉に視線がセルウィリアに集まった。

「これまで燃やしてしまったら、アエネアスさんが陛下におのこしになった大事な書簡がこの世からすべて無くなってしまいまうのですよ!? それでもよろしいのですか!!」

「いいんだよ、セルウィリア」

 有斗はセルウィリアに笑いかけた。だけどその笑顔にはどこか無理に作っているところがあるようにセルウィリアには感じられた。

「この世界ではあの世でも読めるようにと、本を燃やして供養すると聞いたことがある。もしあの世のアエネアスが自分が書いた文の中で、一通だけ来ない文があると気づいたなら、とても心配すると思うのさ。僕が全て読んだと知らせるために全部燃やしてしまわないと。アエネアスもそれでやっと全てのことに安心できる」

 そう言うと有斗は今度もまた躊躇することなく、手元に最後に残された文を火に投げ入れた。

 有斗もセルウィリアも一言も言葉を発することなく、文が燃え尽きて灰になるのをただ見続けた。

 その不思議な儀式が終わると有斗は何故か溜息を一つついて、ゆっくりと立ち上がった。

「さぁ帰ろうか」

「陛下・・・・・・」

「見ての通り、ここは眺めのいい場所だけど、風が吹くから今の時期は冷える。いつまでもいては体に悪い。風邪をひくかも」

「ではありましょうが・・・」

「さあ行こう」

 まだ何か言いたげなセルウィリアの肩を両手で押して、有斗は四つ並んだ墓に背を向け後にする。

『さよなら、アエネアス』

 有斗はセルウィリアに気付かれぬようこっそりと、もう一度、アエネアスの墓に振り返り、心の中で語りかけた。

『今まで、ありがとう。たぶん、好きだった』

 多くの人を失っても感じることが無かった、どうにも上手に言葉にできず、消化することのできない、この心の中のもやもやを形にすれば、そういうことになるのだろうと有斗は思った。

 近すぎて見えなかっただけで、きっと有斗はアエネアスのことが好きだったのだ。

 誰よりも大好きだったのだ。

 今頃気付いてもどうしようもないことなのだろうけれども。

 しかし、アエネアスは幸せだったと有斗はベルビオに言ってはみたが、よくよく考えれば本当にアエネアスはこれで幸せだったのだろうか?

 本音を言えば、とてもそうだとは思えない。

 こんな結末を迎えるためにアエネアスがこの世に生を受けたのだとすれば、それは余りにも悲しすぎることではないか。

 アニメやラノベや漫画の主人公のように異世界転生をしたのだから、有斗にも神かなにかから特別な力が授けられていて、それが幾度も時間を巻き戻して世界をやり直せる力だったとしたら、有斗はその力を使ってアエネアスを幸せにすることができるのだろうか。ふと思い浮かべた。

 だがらちも無い考えであることに気付いて苦笑いを浮かべ、その考えを打ち消した。

 人生はゲームやアニメではない。一度きりの人生だから皆、懸命に今を生きているのである。

 そして一度きりの人生だからこそ、こんなにも悲しく、過ぎ去った過去が輝いて見えるのだろう。

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