第401話 変革者(世界を変えるもの)

 バアルの眼前には王旗が高々と上がっていた。

 王の本陣はもう目の前、二百メートルあるかないかの距離。陣所からわらわらと弓を持った敵兵が沸いて出て、一斉に矢を射る。

 刀で払うがその数は膨大、とても全ては払いきれず多数の死傷者をだした。たちまち数を減じていく。

 ガニメデ隊から逃れえた七百いた将兵はもう四百にも満たなかった。

 それでも、とバアルは思う。

 まだ四百もある。

 近接戦に持ち込みさえすれば矢は使えぬ。王の本陣にいくらくらい兵が残っているかは知らないが、四百もあればひとりふたりは王まで辿りつけるかもしれぬ。

 三射目を射ようとした弓隊だったが、もう目の前に馬がいた。狩り立てられると、混乱を起こしさんを乱し逃げ散った。

 すぐさま代わって現れた煌びやかな鎧に身を固めた兵士たちが囲むようにバアルたちの前に立ちふさがった。王の左右を固める羽林の兵であることは見るからに明らかである。

 だが本陣まで攻め込まれたという事実は王の近習たちを慌てさせたようで、隊列も組まずに向かってきた。

 バアルをはじめ、一対一なら並みの猛者には後れを取らない者どもだ。

 次々と斬り捨てながら前へ前へと進んだ。


 と、前進が止まった。

 細身の武人が出てくるや、辺りを叱咤し、隊列を組ませて行く手をはばんだのだ。

 ここで止まってなるものかと巨躯の兵士がその者に襲い掛かった。

 だがその兵士は相手を舐めていた。

 影は男が振り下ろした薙刀なぎなたを刃で受け滑らせ、左に流すや、剣を切り上げて鎧ごと巨躯をまっぷたつにした。

 その赤い髪、見事な剣さばき、バアルには見覚えがある。今やアメイジアに名高き王の親衛隊長、ダルタロスの紅き薔薇に違いない。

 とすれば、とバアルの心は喜びにうち震えた。王はこのすぐ側にいることは間違いない。

 おそらくはこのくれないが出てきた陣幕のその奥に。

 バアルは牽制に匕首ひしゅを投げ、馬をもってその場を駆け抜けようとする。

 アエネアスは体を捻って匕首を避けると、バアルに向かって正面から真っ直ぐ向かっていった。

 直前に陣を前に進めたことで陣形は大きく乱れている。本営は満足な迎撃態勢を取ることができない。ようやく剣を持てるようになっただけの有斗を守るためには是非ともここで食い止めなければならないのだ。

「行かせない!」

 刀を上に切り上げて、馬の顔首を狙う。

 己の身を捨ててでも、僅かでも馬の足を止め時間を稼ごうとした。

 がバアルは空中の馬上から槍を器用に操り、刃に槍の穂先をぶつけた。

 刀がはじかれ、アエネアスが砕け腰になったところを狙い、バアルは器用に槍をもう一度突き直した。

 槍の穂先が首元を切り裂き、アエネアスの服よりも、そしてアエネアスの髪よりも赤いものが空中に吹き出し、アエネアスの手から剣が滑り落ちた。

 糸の切れた操り人形のようにアエネアスが膝から崩れ落ちた。

 思わず有斗は陣幕の御座所から立ち上がり、身を乗り出した。

「アエネアス!」

 有斗の呼びかけにもアエネアスはぴくりとも動かない。地面に血だまりが急速に広がっていった。


 指揮官であるアエネアスを失ったことで本営周りの衆は大きく動揺した。その多くはダルタロス時代から付き従ってきたのである、無理もない。

 バアルは頭に血が上って襲い掛かってくる羽林の兵を軽々と槍の一突きで始末し、とうとう王旗の掲げられた陣幕へと辿り着く。

 陣幕を蹴破って飛び出した先にいたものは・・・王だった。

 見間違えるはずもない。かつて見たその相貌。

「お覚悟」

 疲れきった手足に再び力が満ちてくるのがわかる。

 そう、この一瞬を欲して幾千の戦士たちをしかばねとなしてここまで駆けてきたのだ。

「くっ・・・」

 有斗は馬上のバアルと、遠くで倒れたまま動かないアエネアスとを交互に目で見やった。

「自害なされるか? それとも剣を取られるか?」

 腰に差した剣を目で確認しながら言う。

 丸腰の相手に槍を突き刺したのでは名前がすたる。剣を交えても負ける相手ではないという、武将としての余裕もあった。

 だが同時に油断なく目を配る。無様に逃げるようなら、そう、背後から刺し貫いてやる。

 二人の距離は八間(十五メートル)ほど、槍を交えるには少し遠い。馬の手綱を抑えてゆっくりと距離を縮める。

 と、その時二人の間に割ってはいる人影があった。

 本陣だけあってまだまだ近習の者がいるのか。

「チッ」

 無粋なやつとその影を槍で払おうとした刹那せつなだった。

 一瞬の驚愕とともに、その槍を止めた。

「・・・姫陛下!!?」

 その切っ先は端麗な顔の目前で止まった。

「お久しぶり・・・バアル」

 恐怖で引きつった笑みを浮かべるのがやっとのセルウィリアに、バアルは冷え切った声で返答した。

「どいてください」

 いつでも願いを叶えてくれる、優しい彼女自慢の騎士であったはずのバアルから返ってくる思わぬつれない反応に、セルウィリアは戸惑った。

「・・・いやです」

「どくんだ、セルウィリア。彼の狙いは僕だ。君には関係ない」

「あの者もそう言ってます。どかれてはどうですか?」

「関係あります! バアルはわたくしの・・・わたくしとの約束のために・・・陛下を殺そうとしているのでしょう!? でしたらやめて! 今のわたくしの望みは玉座などではありません!」

「いいえ。姫陛下。貴女との約束など覚えておりません。もう過去のことです。全て忘れました。私は貴女の知っている忠実な臣下としてここに来ているのではないのです。私は武人の・・・ただ武人としての誇りと尊厳を槍先に引っげ、この場所に来たのです」

「そうであるなら・・・なおさらどかない。わたくしも昔のセルウィリアではないのよ」

「・・・」

「王宮で蝶よ華よとおだてられ、美しい人形として鎮座していたセルウィリアではないの」

「どけ! 女子供が邪魔立てすることではない!!」

 それは彼女が耳にする始めてのバアルの罵声。

 だがそれでも彼女は少し顔を青ざめさせただけだった。その場を動こうとはしなかった。

「どかないわ、絶対に」

「・・・それほどその男が愛しいですか?」

 セルウィリアに訊ねるバアルの声はどこか苦しげだった。

「ええ、好きよ。陛下はわたくしのことなんか見てくださらないけれど」

 セルウィリアは悲しげに目を伏せる。バアルが見たこともない、女性の顔を持ったセルウィリアがそこにいた。

「・・・・・・」

 もう既に覚悟はしていたことだ。だけど本人から直接聞くその言葉は、バアルが思っていた以上に胸中を揺れ動かした。

 胸がきりきりと痛んだ。

「でも違うの・・・バアル、そうじゃない」

 セルウィリアは大きくかぶりを振って、バアルの考えの根底にあるものを否定した。

「わたくしがこうするのは愛してるからじゃないの。陛下がこの世界に必要なひとだからよ。戦国の世の終結は数多の民が願ったのよ。でも歴代の王が刻苦精進し、幾多の賢臣が粉骨砕身しても成し遂げられなかった! 王も廷臣も諸侯も民も皆が平和を諦め、現状を受け入れるしかなかった!」

 そう、アメイジアに住まう、どのような巨大な力を持つものも諦めた。かつてのセルウィリアのように。あるいは彼女の父のように。

 だが一人だけ、目の前に積みあがる無理難題を仰ぎ見ても、それを諦めなかった人間がいる。有斗だ。

「それを陛下は成し遂げられたのよ」

 それも一度は全てを失い徒手空拳の身の上になったにも拘らず、そこから成し遂げたのだ。本当に凄いことだとセルウィリアは思う。

「陛下だけが」

「・・・」

「わたくしが死んでもこの世界は小揺るぎもしない。あなたが死んでもね」

 セルウィリアが死んでも朝廷は明日も何も変わらずにまつりごとを行うだろう。関西の廷臣は少しは悲しんでくれるかもしれないが、所詮その程度である。

 バアルが死んでも同様である。セルウィリアはきっと大きく悲しむであろう自分がいることを知っていたが、同時にバアルが死んだからといってアメイジアの何かが大きく変わるとは思えない。

「でも陛下は違う! この平和はようやくちょに就いてきたばかり、まだまだ赤ん坊のように危なっかしくて目が離せないものよ。陛下が死んだらこの平和は砕ける。そしてまた長い戦乱の時が始まるの」

 有斗という接着剤を無くした朝廷は大きくばらばらに分解され、権力闘争を始めて諸侯への統率力を失っていくだろう。

 そうなれば諸侯は欲望をき出しにし、自領に拠って周辺を侵食する機会を伺う。戦国乱世の再開である。

「だからその槍にこの身を砕かれても、刺し貫かれても、私の体で陛下を守る!」

 そう、それだけは防がなければいけないとセルウィリアは固く決心していた。

 王女として気高い身分に生まれたという責任からだけでなく、このアメイジアに住まう一人の女として、未来のアメイジアの人々の為に果たさねばならぬ責任がある。

 だから次に叫んだ言葉は心からの叫び、その思いを集めたかのように大きく力強く響き渡った。

「絶対に!!」


 一瞬の静寂が二人に訪れた。

「姫陛下・・・ご立派になられた」

 そして一国の女王として見事になられた、と彼は嬉しかった。

 美しくなられた。

 生来の美貌よりも、自分の命より国や民の行く末を案じるその心の美しさこそまばゆかった。


 負けた。


 俺は目の前の男に負けたんだな、とバアルはその時ついに悟った。


 ・・・やっと、悟った。


 勝敗は兵家の常、一回の戦いになんど敗れようと、命ある限り負けたとは限らない。

 だが、これから何度、この男に戦場で勝利したとしてもこの気持ちは変わらないだろうと思った。

 なぜなら、意に沿わぬ窮屈な女王という仮面をかぶり、臣下の顔色を伺って都合よく王宮を廻していただけの、彼が知っていたわがままな少女がそこにはいなかったから。

 幾人の心ある臣が彼女が操り人形でない立派な女王になることを願っただろう。

 もちろん彼もそうだ。

 でも誰一人それに成功したものはいなかった。

 だが、この目の前の頼りなさげ少年は違った。

 収まりの悪い王冠を仰々しく被ったこの男は、王というよりは王様の格好をさせられた道化師にしか見えないこの少年は、いかなる手段をもってしてか、それをやってのけたのだ。


 人にはそれぞれに心がある。

 あやふやでも、一人一人違っていても、小さくても、それは世界。

 その小さな人間が、人間の心が集まって、社会という大きな世界が出来ているとするのなら、この男は、王女の心を変えていったように一人一人の心を変えていくという、他の誰もしたことがない、いや誰一人考えたことの無い、前代未聞の途方もないことをこのアメイジアにおいて成し遂げようとしているに違いない。

 なぜならこの男は百年も続いたこの戦乱の世を見事終らせようとしているのだから。


 凄い男だ。

 なんと凄い男であることか。

 その凄さを心底感じた。

 だが同時に不思議な満足感に包まれていた。

 そんな凄い男と戦い続けることができた幸せを感じた。

 戦いは同じ位置に立たないとできないのだとすれば、好敵手が偉大であれば偉大であるほど、人間の生は輝くのだ。

 歴史家はきっとバアルのことを書くだろう。

 王者に最後まで抗った愚かな男として、覇王に立ちはだかった勇気ある男として、平和を覆滅せんとした悪魔のような男として。

 だが、それでいい。

 おとことしてこの世に生を受けたからには名主めいしゅに仕え、偉大な敵と戦ってこそ華というもの。

 不運に倒れた、もしくは栄誉を極めた幾人ものいにしえの英雄たちがそれを得られずに嘆いている。

 だとしたら、たとえ富貴や栄誉や成功を得られずとも、私は幸せであった。

 セルウィリア様に出会え、このような偉大な男の敵としていられたのだから。

「だが」

 逡巡ののち、バアルは槍をもういちど強く握った。

 ここに自分を辿りつかせる為だけに命を落としていった者たちがいる。そして今だここに邪魔が入らぬよう戦い続ける者がいるのだ。

 その者たちの誇りにかけてここで退くわけにはいかない。

 ここに来たあかしだけはたてねばなるまい。

 そう


「ここに来た以上、この槍を投じぬわけにはいかぬのだアアアアアアアァ!!!」


 絶叫とともに槍を大きく振りかぶる。

「だめ!」

 だが王女の悲鳴も彼を止めることはできない。

 背筋が悲鳴を上げるのも構わず全身の残された力を集めて、その槍は投げられた。


 凄まじい轟音と共に王女の右の髪を引き裂いて、槍は後方へ、王のいるほうへとすりぬけていった。

 一瞬ののち、なにかにぶつかるようなにぶい、物がくだける嫌な音がした。

 そして静寂が訪れた。

 彼女はゆっくりと腰から力が抜けていき、その場にへたりこんだ。

 動けなかった。

 命を賭けても槍を止めるといった彼女の心は本物だった。

 だが彼女は知らなかった。戦場のバアルは彼女が王宮で見てきた、女官たちが憧れる優雅な貴族というだけではなかったのだ。

 それは目の前で命のやり取りをする非情な戦場を過ごした武将としての姿だった。

 彼の恐ろしげな表情を恐れたのだ。そして見えなかったのだ。彼の投じる槍の穂先が。

 小指ひとつも動かせずうつむく彼女に、馬上のバアルは頭を下げた。

「陛下がいれば、きっとこの世は治まります」

 言い終わるとくるりと馬首を翻して背を向ける。

「おさらばです。もう二度とお目にかかることは御座いますまい」

 そう言って馬の腹を蹴ると、現れたのと同じく砂塵渦巻く戦場の中に消えていった。

 一度も振り返ることなく。


 王女は後ろを振り向くことが出来なかった

 この距離である。そしてあのバアルなのだ。

 槍を外すわけがなかった。

 だいいち外したとしたら馬を駆って刀で切りつけるはず。それをしないということは・・・

 結論はひとつ。

 そう、槍は王を貫いたのだ。


 ああ、と王女は長く溜息した。

 これで平和は終る。

 王が死んだらこの仮初めの王朝は崩壊する。

 関東と関西、南部と北部。巨大な封地を持つ諸侯。ようやくまとまりつつあった宮廷は、ふたたび野心をむき出しにした豺狼さいろうどもの集う場所になるだろう。

 いや・・・それよりも彼女にはショックなことがあった。

 自分が初めて愛した人が、あの人がもうこの世にいない。

 彼女は王女としてできる数多あまたのことをせずにすごした過去の自分が、王を失望させたことを知っていた。自分のせいで片腕と頼んでいた、そして友と呼べる存在だった、アエティウスを亡くしたことも知っていた。そして・・・こころの中に大切な女、おそらくそれは自分ではない、がいることも知っていた。

 でもそれがなんだというのだろう?

 苦悩しつつも、気高い理想をかかげてこの世界のために戦う凛とした姿を見るだけでよかった。

 その横で手伝いが出来るだけでよかった。

 彼女は彼がいるだけで、いやたとえ彼が彼女のことをこれっぽっちも考えていなくたって、彼のことを考えることだけで幸せで胸がいっぱいになれたのだ。

 それが彼女が大事に思っていたもう一人の者の手によって壊されるなんて。

「どうして・・・こんな結末に・・・こんなのってない」

 宝石のような瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「こんなのってないよ・・・」

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