第400話 散る命、貫く意地

 前方から敵の攻撃による味方部隊の苦境、救援要請、さらにはバルカ隊による味方部隊の突破の知らせなどが次々ともたらされると、本営に詰める有斗の幕僚団は浮き足立った。

 前線の将軍による各個の判断による対応も、本営から発される指示も、全てが後手後手に回って裏目に出ていたことから来る焦りがある。

 その動揺は近侍している羽林の兵にも伝わり、どことなく本営全体がそわそわと落ち着かない。

 彼此ひしの戦力差はもはや勝負にならないほど王師が優勢である。混乱を治めさえすれば勝てるのだから、何よりも全軍の混乱を治め、立ち直らせなければならないと有斗は考えた。

「アエネアス、ここでは戦場全体の動きが見えない。本陣を前に押し出そう」

 有斗は陣替えを行うことをアエネアスに告げた。

 全体の戦況を自らの目で見て把握したいということもあったが、切れ切れになって来る情報を総合すると味方は敵の奇襲に混乱し、苦戦しているようである。

 ここは王旗を全軍の見える位置にまで押し出して、味方を督戦せねばならないところであった。

「分かった」

 有斗の命を受け、アエネアスは本陣を固める羽林の兵に機動隊形に移るように告げた。

「とりあえず当初の予定通り、目の前の丘に登ろう」

 もともと昨日の夜に立てた作戦でも、全軍が鶴翼体系に移って敵を包囲次第、有斗の本営を後年、陣馬丘と呼ばれるようになるその丘に移す予定であった。

 予定は若干狂ったものの、想定通りの行動と言える。

 その丘からならば敵軍が布陣したベラマやソグラフォスの丘までもが一望できるのである。

 王のこの動きは、軍全体の混乱を早期に集結させるために取って当たり前の行動で、後の世の軍略家たちも決して有斗を責めたりはしていない。

 だが有斗のこの行動こそが、大きな運命の分岐点となることを誰も知らない。


 近代以前、戦場にあっても軍を動かすというのは、それもひとたび防衛体制を敷いて布陣した軍を動かすというのは簡単に行くものではない。

 どういった手順で軍を動かすかの打ち合わせで、有斗たちはわずかではあったが時間を浪費せざるを得なかった。

 アエネアスが先陣を動かしはじめたのとほぼ同時に、先行させていた物見の兵がこけつまろびつして丘を降りてきた。

「敵がこちらに向かって来ます。その数、およそ五千!」

「なんだって!? どこの兵だ!」

 有斗は驚きのあまり、おおよそ見当違いのとぼけた問いを発した。

「教団の兵に決まってるでしょ!! 陛下、迎撃を命じるわよ!」

 有斗の返答も待たずにアエネアスは命を下しはじめた。それだけ切羽詰まっていたのである。

「弓隊前へ! 羽林の兵は三方に壁を作って防衛陣形を組んで! 陛下をお守りするのよ! 急いで!!」

 幸い丘の頂上まではもうすぐである。アエネアスは供回りの兵と弓隊とを連れて急ぎ頂上まで登った。

 眼下に広がる光景にアエネアスは愕然とした。迫りくる敵と本営との間には僅かな部隊が残っているに過ぎなかった。

 アエネアスの命に従い、羽林の兵が有斗の眼前に形ばかりの薄い戦列を形成し始めた。

 その間も眼前にいた数少ない味方は次々と打ち破られ、終にバルカ隊と本営の間を妨げる部隊は皆無となっていた。

 その数は二千六百。半数の兵を失いながらも、バルカ隊は中央突破を果たし、王旗を指呼の距離に捕らえることに成功したのだ。

「一番近い距離にいるのは右翼の救援に回ったエテオクロス隊だ! 至急、救援要請を行え!!」

 有斗の命に本営から慌てて伝令が走り出る。

 だけど少し遅いかもしれない、とアエネアスは思った。おそらく間に合わないであろう。

 右翼の救援に回ったといっても、ただ真横に水平にずれたわけではない。前方へと陣を進めたはずだ。エテオクロス隊はおそらく現状ではもうバルカ隊よりも遠方に位置しているに違いなかった。

 アエネアスは味方の不利な情勢と、本営の兵力と情勢とを考慮し、有斗を至急、脱出させたほうが良いと思った。

「陛下、味方は劣勢で敵の勢いが優勢よ。本営も突破されるかもしれない。ここはわたしに任せて先に退いて」

 本営の後方には義兵や一部の関西諸侯など三万ほどの兵力がまだ残っている。予備兵力として後方待機を命じておいたのだ。

 だが今からそれらに前進を命じて前線に投入しても間に合うかどうか不明である。むしろ質の悪い兵に移動を命じることで陣形を乱し、敵に付け入る隙を与えるだけである可能性が高い。

 それなら王である有斗自らが後退し、彼らを指揮して防衛戦を行ったほうが勝率は高いであろう。

 後退することで戦線が延びれば不利になるのは兵数の少ない教団側であることも見逃せない条件のひとつだ。

 だがアエネアスの提案を有斗はあっさりとね付ける。

「いや、兵士が今も泥沼の混戦の中、命を危険にさらして戦い続けている! ここで僕が・・・王旗が戦場を離れては味方は一気に士気が落ち、勢いに乗る敵の前に壊滅的な損害を蒙ってしまいかねない! まだ本営に攻め込まれたわけじゃない! ここは踏ん張りどころだ!」

 有斗の言うところも一理ある。

 先手を取られた王師は今のところ完全に押し込まれっぱなしである。ここで王が後退したと兵たちに伝われば、それは体勢を整えるために後方に退いたというよりは、敵の攻勢を恐れて戦場を離れたと受け取られかねない。

 そうなれば兵を支えるものがなくなりかねない。もし全面崩壊という最悪の事態が訪れれば、いかに有能な王師の将軍たちといえども、それ以上戦線を押しとどめることはできないに違いない。

 だが敵の数と本営の有斗の直轄の兵数はほぼ同数、このままでは勢いに勝るバルカ隊に勝利の凱歌が上がらないとも限らない情勢だ。

 いざとなれば有斗の口を塞いで、アエネアスが全権を握って逃亡させねばならないだろう。

 アエネアスがどうやって有斗を無理やり移動させるかについて考え始めたその時、羽林の兵が左前方を大きく指差し大声で叫んだ。

「左前方の丘の向こうより増援!」

 有斗もアエネアスも、その場にいた全員が左前方の丘の上を見上げた。黒い点となった兵が次々と丘の向こう側より蟻のように這い出てきていた。

「まさか敵の!?」

 敵が左前方より来るということはその前面にいるはずの王師左翼も壊乱したということかと思って、将士は一斉にざわめいた。

「いえ、あの旗は王師のもの・・・ガニメデ隊です!」

 旗に見覚えのある紋章がひるがえるのを見た羽林の兵の一人が嬉しそうに声を張り上げた。

「皆の者、見たか!? 少しの間、踏ん張れば左翼より救援が来る! ここは死ぬ気で食い止めるのよ!!」

 アエネアスはわざと大仰な動きでガニメデ隊を指差し、兵の気を昂ぶらせようと発破をかける。

 その後、口中で心の底から湧き上がってくる言葉を噛み潰した。

「少なくともこれで敵の攻撃の勢いの一部は削がれる。だけど・・・!」

 戦の流れは完全に敵にある。どこまで食い止められるものかは、アエネアスにも分からない。


 王の本営目掛けて敵を蹴散らして進むバルカ隊の前に右前方の丘から軍兵が、さながら巣を壊された蟻のように湧き出してきた。

「右前方に騎影。王師の増援と思われます!」

 翻る旗には見覚えのある鷲獅子の姿が描かれていた。・・・『不敗の』ガニメデか。

「この戦いは最初から最後まで想定外の連続だ。数々の戦を戦ったが、ここまで想像通りにはいかぬ戦は珍しい」

 マシニッサ隊を振り切った今、王の御座所まで障害物はないはずだった。

 ガニメデは丘の向こうに位置する左翼最後の砦だ。本来なら今頃、南海道沿いに布陣して左翼の混乱の収拾にあたっているはずなのだ。

 それを放棄してまで王を守るために部隊を動かした・・・か?

 それにしても速い。

 何ゆえ、かくも大部隊を迅速に送り込めるというのだ?

 考えられることはひとつ。

 ・・・この攻撃をも想定して陣を敷いたということか?

 だとしたら、「さすがは不敗のガニメデと褒めるべきか」と、バアルは口の中で小さく呟く。

 だがこの男がバアルの前に立ちはだかるのは何もこれが初めてではない。

 鼓関以来、幾度この男は私の前に立ちはだかったことだろう。私は王の宿敵と巷間に呼ばれてはいるが、その私に天敵がいるというならば、王ではなくまさにこの男だ、とバアルは思った。

 バアルはガニメデに明確に一方的に負けたことはない。だが明確に勝ったこともないのだ。いつもバアルの前に立ちふさがり、完全なる勝利をバアルの手から奪う存在。

 憎い存在でもあったが、同時にその知に敬服もしていた。

 だから今ここにガニメデ隊が自分を阻もうとしていることに一切の不思議はなかった。むしろそれが当たり前のことだと、運命であるとすら感じていた。

 バアルが王と戦う運命さだめであったように、ガニメデは王の為にバアルに立ち塞がるのが運命なのであろう。

 バアルが王と剣を交えるには、ガニメデを越えなければならない。ガニメデの死骸を踏み越えてこそ、王と戦う資格が与えられるのではないか。そういった思いが胸に渦巻いていた。


 近づいてくるガニメデ隊は丘の向こうからまるで津波のように、次々と数を増やしていった。

 まずいな・・・さすがに数が多い。

 このままではバルカ隊の前にガニメデ隊が立ちはだかること必定だった。兵は勁兵けいへい、しかも率いる将はあの『不敗の』ガニメデである。

 果たして突破できるだろうか。

 否、突破した後、王を討つだけの余力があるかどうか。

 しかも丘の向こうからは今も続々と兵士が途切れることなく湧き出しているのだ。

「将軍」

 パッカスが馬を御し、バアルの馬と鼻面を併せるように並んだ。

「私の最後の戦場が将軍と一緒で光栄でした。今までお仕え出来たこと、生涯の誇りとなりましょう」

 その言葉は過去形で締めくくられていた。バアルは驚きも露わにパッカスに振り向く。

「行くか」

 それだけで二人とも意志は通じていた。

 敵を止めるのは属将の務め、立場が反対ならバアルがその役を買って出ただろう。

「はい」

 短い間だったが、パッカスとは共に戦場を駆け抜けてきた仲だ。共に肩を組んで生死を共にしたのだ。親兄弟よりも恋人よりもその絆は深い。

 万感の想いがあったが、その戦場にふさわしくない、この始末の悪い感情を、どう言葉にすればいいのかバアルにはわからなかった。

 苦労したうえ、ようやく出てきたのはあまりいい言葉とは思えなかった。

「泉下でまた会おう」

 だがパッカスにはそれで十分だった。

「はい!」

 迷いのない良い笑顔だった。軽く槍を持ち上げはなむけにするとバアルはもう一顧いっこだにしなかった。

 パッカスがやるというのだ。必ず止めてみせるだろう。

 指揮下の五十ばかりの騎兵を手まねきし、パッカスは味方全てに聞こえるように大きな声で叫ぶ。

「ついて来い! 名だたるカヒの騎馬軍団が全て滅んだわけではないことを王師の腰抜けどもに知らしめてやるのだ!」

 小さな喊声がわいて騎馬隊は速度を上る。右へ少し緩い弧を描きながら、ガニメデ隊と衝突した。

 信じられない光景が出現した。

 丘陵を下って降りるガニメデ隊の前進する足が止まったのだ。

 ガニメデ隊は一軍、つまり五千を擁する。見える範囲内でも千は下らないだろう。

 それがわずか五十のパッカス隊に押されているのだ。

 パッカス隊がカヒ家に名だたる、一騎当千の武将たちで構成されていたわけではない。

 パッカス自身は一翼を担っていたとはいえ、あくまでそれは父の名代としてだ。当然二十四将でもない。カヒの侍大将でも席次は下から数えたほうが早く、デウカリオと違い名がアメイジアに鳴り響いてるとは言いがたい。

 そんな無名の集団が、いや無名な集団であるがこそ、それぞれカヒの者としての誇りを示すために勇敢に戦い散っていったのだ。

 バアルを先途に進ませるためのほんの僅かな一瞬を稼ぎ出す、ただそれだけの為に。

 しかしそれも一瞬のこと。王師最強のガニメデ隊はすばやく隊伍を整えて、パッカス達に襲い掛かった。

 槍が交差する金属の重い音。鎧を叩き斬る鈍い音。馬のあげる断末魔のいななき。

 五十の騎兵はたちまち呑み込まれ、ガニメデ隊は再びバアル隊を阻止しようと動き出した。

 だがバアルにはそれで十分だった。

「すまぬ。パッカス。私もすぐに逝く」

 パッカスの犠牲で先陣の兵はガニメデ隊に前を塞がれる前にすり抜けることに成功したのだ。

 その中にはバアルも含まれていた。


 多くの歴史家はここもまた強調する。

 もし、彼ら五十人の犠牲がなければ、バルカ隊はここでガニメデ隊に食いつかれ、足を止められ、やがて周囲から集まってきた王師によって殲滅されていただろう。

 よって、あの物語のような奇跡の時間は生まれえなかったであろう・・・と。


 バアル隊の先備を逃がしてしまったことによって、ガニメデ隊はそれを追撃するか、残りと戦うべきか迷いが発生した。

 その時間がさらにバアル隊に優位に働く。

 足止めを喰うのではなく、むしろガニメデ隊を逆にこの地に足止めさせようと、中備以下の者たちは槍を並べて槍衾を作り、ガニメデ隊に喰らいつき、その足を止めた。

 バアルたち先備が王の下へと戦場を駆け抜ける時間をさらに稼ぎ出そうというわけだ。


「させるか!」

 バアル隊を追いかけようと、ガニメデ隊も奮戦する。

 だが壁を破っても破っても、その度に隊列から新たな兵士が現れては壁を作り、貴重な一瞬を稼ぎ出す。

 焦りはむしろいつまでたっても戦列を食い破れないガニメデ隊のほうにあった。

 なにより不安なのは・・・本陣を守りに行けとの命令の後、ガニメデから命令がまったく来ないことだ

 ガニメデ隊は王師一の精鋭。

 鉦の音、太鼓の音などにあわせて蜂のように集い、蜘蛛の子ように散る。

 敵軍からは見事な奇術と評される変幻自在のその動きこそガニメデ隊の強みだった。

 こんなに長い間、ただ全軍前進を命じる太鼓だけが続くことなど今までなかったことだ。

 特に両軍が接触する槍合わせの時間に巧みに退いて半包囲にもちこむ動きこそ、ガニメデ隊の得意とすることなのにだ。

 ガニメデ隊ほどの精鋭でも、いつにない事態に少し浮ついていた。


 一方、左翼ではガニメデの首を得たデウカリオはそのままガニメデの陣を食い破り、王の本陣を目指さんとした。

 普通ならば将軍が戦死すれば指揮系統を失った部隊は恐慌状態に陥り、苦も無く蹴散らせるものである。

 だが本陣を襲われ、ガニメデの首を取られたことにガニメデ隊の兵士は逆に奮起し、大将の仇をとろうと包囲を中止して、一斉に四方からデウカリオ向けて殺到した。

 その為にデウカリオ隊はガニメデ隊を突破することに失敗し、足が止まる。

 そこにデウカリオ隊が王目掛けて前進したことに危機感を感じ、後ろを追いかけてきた関西諸侯の兵やプロイティデス隊の一部の塀が加わり、ガニメデ隊は一転して四方を囲まれ窮地きゅうちに追いやられた。

 足が止まったデウカリオ隊はこのままでは全滅してしまうと、包囲の突破に向けて力を振り絞り大いに暴れまわった。

 その激闘の最中、デウカリオは乗馬の脚をげきの横に突き出た刃で刈られ、大きく地面に投げ出された。

 一回転しながら地面に叩きつけられ、デウカリオの体に激痛が走る。

 だが痛みをこらえて打ち付けた体を起こし、口の中に入った土を吐き出して立ち上がり、側に寄った王師の兵を一刀の下に切り捨てた。

 デウカリオの周囲をすぐに兵が取り囲み、王師の攻撃に反撃を開始する。

 それに対してデウカリオ隊を取り囲む王師は駆けつける兵で刻一刻と層を厚くすることで、デウカリオ隊の行動の幅を狭めていこうとする。

 だが不思議なことに左方から前方にかけて立ちふさがるガニメデ隊のところへ救援として駆けつけてくる新手の兵はいなかった。それどころかその方面では、隙があれば小隊単位で後方へと反転しようとする部隊が後を絶たず、浮き足だっている。

 デウカリオは全てを悟った。

 生前のガニメデが命と引き換えに王を守るために中央部に反転させた部隊も、バルカ隊を食い止めることができなかったということを。

「そうか、バルカは行ったか!」

 ハハハハハと、デウカリオは大きく高笑いをする。

 ならば彼のするべきことはただ一つ。

「我こそはデウカリオなり! 名高きカヒの四天王の首、我と思わん者は討ち取って功名するがよい!」

 剣を振り上げ高らかに名乗りを上げ、敵兵の注意を惹き付けた。

 ガニメデが王の為に時間を稼いだように、今度はデウカリオが自らの命をもってバアルの為に時間を稼ぐのだ。

 その声を聞き、馬に乗る見も鮮やかな名のある武者も、百戦錬磨の百人隊長も、槍を持った雑兵も、一斉に彼に向かって駆け集まってくる。

 デウカリオはそれを嬉しそうに眺めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る