第399話 命を捨てるに足るだけの価値あるもの。

 ガニメデは丘を越えて敵兵が現れても動揺を見せなかった。

 腕を組んだまま身じろぎもせずに小さく口中で呟いただけだった。

「やはり来たな」

 丘に隠れるように布陣したのが生きた、と思った。

 この混乱する戦場で王師の中で誰よりも現状を把握していたものはガニメデであっただろう。

 とはいえ初手から敵が全面攻撃をしてくるとはガニメデでも思ってもいなかった。王師と教団にはもはや歴然とした数の差があるのだ。潜龍坡せんりゅうはと同じく要害の地を押さえ、王師と戦うのが常道だ。

 ところがこの戦は教団の朝靄にまぎれた奇襲を持って始まった。

 だが堅陣を捨てて平地での決戦を求めたというのは何故だろう?

 そのまま放置しておいてはもっと深刻な事態になるかもしれないと、慌てて兵を動かして対策した他の武将とは違い、ガニメデはすぐには動かなかった。

 もっとも左翼の主将として左翼の最後尾に位置し、前方を関西の雑多な諸侯の兵で塞がれ動こうにも動けなかったというよんどころのない事情もそこには存在していた。

 ともかくもガニメデにはじっくりと考える時間が与えられた。これが大きかった。

 考えて導き出される答えはただひとつ、全軍の混乱にまぎれて王を衝くに違いないのだ。

 と考えると策は二つ。

 一つは比較的薄い中央突破。だがこれを行うのには敵の数が少なすぎると見た。

 もうひとつは王師を迂回して後方より王を討つ。

 だが南海道もケイティオ街道も王師が抑えている。後方に回り込むには軍を動かすには不向きな隘路あいろを通るしかないが・・・王師がその選択肢を捨てたように教団側もそれを選択する理由が無い。第一、王師に感づかれずにそれができるとは思えなかった。

 と、そこまで考えたとき、ガニメデは嫌な考えに思い至った。

 荒瀬川のことだ。

 川沿いの布陣は兵家の忌むべきところ。確かに川側からは攻められにくいという利点はあるが、川に追いやるように攻撃を受けると、重い鎧を着こんだ兵たちは川で溺死することを恐れ逃げ出す。そこに布陣するのは危険だ。

 だから王師も教団も川沿いには布陣していなかった。その死地に誘い込むように、わざとらしく空間を空けていたくらいだ。

 だが布陣するのではなく、そこを騎馬で一息に駆け抜けるとするならば・・・どうだ?

 特に荒瀬川の堤防は平坦で幅もある、あそこを駆け抜けるなら時間はかかるまい。

 それを我々が防ぐことができるのか・・・?


 そこでガニメデは陣を荒瀬川側に移動させようとした。

 が、そこで武将としての勘がガニメデに一瞬の躊躇ちゅうちょをもたらした。

 中央を突破することは本当に不可能なことなのか・・・? 私が不可能と考えているだけで、可能ではないのか? いや例え不可能だとしても、ディスケスやデウカリオやバルカが可能だと考えて実行に移した場合、王師はどういう動きになる?

 その場合王師は予定どうり鶴翼で包囲することになるだろう。

 鶴の首にあたる中央は、アクトールが柵を作って守備しているし、その後ろにはマシニッサとエテオクロスがいるのである。いずれも凡将ではない。何度考えても突破される姿が浮かんでこなかった。

 だがガニメデは自分の思考が誰よりも優れていると考えるほど傲慢ごうまんではなかった。

 長考の結果、陣を全て動かすのは止めた。論理的な理由からそうしたのではなく、武将としての勘というあやふやな理由からだった。

 荒瀬川から王の本陣は遠い。例えそこを通って奇襲をかけようとも、今の陣形でも十分に対処できるはず。

 むしろ中央突破こそを恐れるべきだ。

 結局二千ほど兵を分けて分隊を形成し、荒瀬川沿いに配置することにした。

 少し機動性に欠ける布陣ではあるし遊軍になる恐れが高い布陣ではあったが、大差あるまい。

 ガニメデは左翼の主将と意味づけられている。しかし両軍の兵力差を鑑みるに、今回の戦いではおそらく出番はないであろうから、これで問題がおきることは無い。そう思った。


 だから左翼が崩壊しつつあるという報告が来ても迂闊うかつには動こうとしなかった。

 両翼で戦闘が始まったのに中央で戦闘が起きなかったことも不安にさせた。

 これが陽動だとすると何故中央でも戦闘が起きない? 両翼の戦闘に注意を向けて突破する気ではないか?

 だがしばらく経って荒瀬川の土手をアンテウォルトの騎馬隊が進軍しているとの報告、さらにもうしばらくしてバルカ隊がアクトール隊と交戦を始めたと聞いてようやく安心し、荒瀬川沿いに配置した二千の兵馬をアンテウォルト隊とデウカリオ隊に差し向けたのである。

 それをデウカリオはガニメデ隊の本隊だと見誤ったのだ。

 たしかに敵は圧している。圧しているが王師全体を壊滅するほどの勢いではないと見た。

 戦線が広がり伸びればやがて勢いはなくなり、数で勝る王師が勝利するのは兵家の理。こちらは戦線を崩壊させずに維持すればいいだけなのだ。

 マシニッサが左翼の、エテオクロスが右翼の救援に向かったとの報告があったのは大分後になってのことだった。

 その時中央が手薄になると、ふと不安を覚えた。ガニメデは逆に陣を中央に向けて二百五十間(約四百五十メートル)ほど寄せた。

 それが丘を登ったデウカリオの前に現れたガニメデ隊だったのだ。

 読みがあたったことにガニメデは満足だった。

 陣を全て川側に配置しなくて良かった。ガニメデはそう思った。

「よし包囲する。右方は丘を利用して回り込め、一人として逃がすなよ」

 敵は五百に欠ける数だ。その数は急襲には向くがガニメデ隊と長時間五分に渡り合うには少なすぎる。陣を広げて包囲すれば敵は手詰まりになり、やがてその勢いも消えるだろう。

 事実、事態はそういう流れになっていた。

 ガニメデはこの時、勝利を確信していた。


 そこに丘を登り、包囲陣形を作ろうとした右翼から、馬に乗った将校が顔面を蒼白にして転がるような勢いでやってきた。

 嫌な予感がした。それもとてつもなく嫌な予感が。

「ガニメデ卿、右翼の丘から伝令!」

 伝令はそこまで言うと喉を詰まらせてしばらくは次の言葉を発することができなかった。それだけ、その知らせはその使者に深刻な精神的打撃を与えたということでもある。

 差し出された水を飲み、ようやく使者の口から出てきた言葉は信じられないような衝撃的な言葉だった。

「バルカ隊が本陣に向かっております! その数二千から三千!!」

「なんだと!」

 バルカ隊はアクトールと交戦したという報告が入ってから時間は四半刻も経っていない。

 ありえぬ。こんなにすぐに崩れることなど、常識的に考えてありえぬのだ。

「マシニッサとアクトール卿はどうした?」

「突破されました!」

「ありえぬ!!」

 それもありえない知らせだった。いくら先手を取られたとはいえ、その高名な二将軍が寄せ集めの将兵にかくも短時間で突破されるなど常識的に考えられなかった。

「ならばエテオクロス卿は?」

「丘の上からは見えません。エテオクロス隊には中央の混乱が見えず、いまだ右翼で敵と交戦してるものと思われます・・・!」

 まさか、とガニメデは愕然とした。この王の本陣を突くと見えたデウカリオ隊の動きすら囮だったというのか。俺はそれにまんまと乗せられたというのか。

 ガニメデはこれを考えたであろう敵将に敬意を覚えた。

 あらゆる可能性を自分は考えた。いや考えたと思い込んでいた。

 世の中には上には上がいるものだ、とガニメデは己の小ささを痛感した。

 実際は多くの思惑がからみあった末の複雑怪奇な結果ではあったのだが。


 想定外の事態に一瞬呆然としたガニメデだったが、今は何を優先すべきで、何を斬り捨てるべきなのか惑うことはなかった。

 とにかく今優先すべき事項はただひとつ。

 王を守ることだ。

「包囲は中止、右翼を形成してる各諸隊は反転して鶴の胴へと向かえ! 死んでもバルカ隊を王に近づけるな!」

 しかしここまで苦労して包囲陣形を敷いたのだ。副官達は一斉に異を唱えた。

「これまでの苦労が水の泡です!」

「デウカリオを倒してから向かわれては?」

 包囲陣形をつくるということは陣形を左右に長く伸ばし、それを丸めるて円を作るということだ。ガニメデの周りもすでにかなり手薄な状態になっていた。この状態から右翼の兵を中央にまわせば当然空になったそこを狙ってデウカリオは突破を図るだろう。

 それを防ぐだけの兵はガニメデにはない。だから副官たちは反対した。

「事態は一刻を争うのだ! かまわん! 行け!」

 ガニメデは残ろうとする副官たちを蹴ってまで陣から追い出した。


「・・・?」

 ガニメデ隊の右翼、デウカリオから見て左が突如壊乱するように後ろを見せて反転した。

「もうすぐ包囲陣形は完成するのに・・・何故だ?」

 考えられるのは・・・

 そうか。バアルが今まさに王に襲いかかろうとしてしているのだ。

 王を救出するため軍を反転させたと考えれば全てが理解できることだった。

「ならば、ガニメデ隊を突破し、バアルに呼応して王陣に攻め込むまでよ」

 デウカリオはがら空きになった左方向に馬首を向け包囲網を抜けようとした。

「防がせよ」

 当然ガニメデはそれを蓋するような形で陣を伸ばし、馬前をさえぎろうとする。

 だがデウカリオは欲の深い男だった。

 狙っていたのは王の首だけではなく、王師きっての名将と目されるガニメデの首をも狙っていたのだ。

 馬首を再び九十度回転させると、もはや戦列もまばらになっていたガニメデの本陣に突入した。

「行け! ガニメデの首をあげよ!」

 名だたるカヒの黒色備えの突撃がガニメデに迫っていた。


 ガニメデは覚悟を決めていた。

 本営には十分な兵力はもうなかった。槍衾さえ満足に立てられぬほどなのだ。

 だがデウカリオが自分に向かってくることも想定内だった。

 いや、むしろそれを願っていたといっていい。

 恐れたのはデウカリオが真っ直ぐバアル隊と合力して王に挑みかかることだ。

 今、何よりも王師に必要とされるものは何かと問われたら、答えは一つ、時間である。

 不意の強襲で畳み掛けるように攻撃を続ける教団だが、時間が経てば経つほど寡兵の弱み、やがて伸びきるだけ伸びきった軍は体力を失い腰砕けになる。

 王師はそれまで王を守りきればいいのだ。

 デウカリオの持つ貴重な時間を自分の首で削れるのなら願ってもないことだった。

 ガニメデはもはや不要となった采配を打ち捨て、床几から立ち上がると槍をその手に握り締めた。

 大封を持ち、多くの使用人に囲まれて贅沢三昧の余生を子や孫の顔を見ながら過ごす。長年描いていた、その未来図はどうやら最後まで叶えられそうになかった。

 どうやら俺は歴史書の一頁、過去の者となりはてる時が来たらしい。とうとう覚悟を決めなければいけない時が来た。

 だがそれも悪くない、そう悪くないさ。

 なにより王を守ることができるのだから。

 自分が曲がりなりにも爵位を得、高い地位につき、そして『不敗』などというこそばゆい名前で呼ばれるようになったのは王のおかげなのである。

 王がいなかったら、出世コースから離れた自分は、今でも辺境の地の守備隊長として不貞腐ふてくされたまま、悔い多い一生を終えることになっていただろう。

 デウカリオは俺の首を獲って喜ぶことができるかもしれないが、そのことによって王の首が取れなくなることをあの世で悔やむことになるだろう。

 ここには王師自慢の将軍たちがいるのである。不意を突かれて今こそ混乱しているが、時が経って全体が落ち着きさえすれば時機に反撃に転ずることをガニメデは疑いもしなかった。

 それに王がいるからアメイジアの戦乱の世は終わり、平和になるのである。その一助に自分がなっていることは紛れもない事実。

 ここで死ねば、後世の歴史書には本書の中に名が登場するだけでなく、王を守り死んだ忠臣として、わざわざ冊子を割いて列伝を立ててもらえるかもしれない。

 ほんの何年か前まで歴史的出来事とは縁遠く、地方の城砦の隊長で一生を終えるはずだった、この自分がである。

 王に会えてよかった。そしてその王の為に死ねる自分を誇りに思った。

 ふとまだ幼い子供らのことを想った。

 もう一度無垢な笑い顔を見てやれぬことだけは心残りだった。

 すまん。ここで死に行く父を許してくれ。

 だが王が死んだら平和への希望は潰える。自分が死んでも、王さえ生き延びれば、あいつたちに平和な世界を残してやることができるのだ。

 それは親として、いや人間として命を捨てるに足るだけの価値が十分にあることなのだとガニメデは思った。


 ガニメデは自分に向かってくる騎馬武者たちの姿を見た。

 さすがはカヒの騎馬武者よ。本陣前に布陣していた兵たちを次々と蹴散らすその姿に感嘆の想いだった。

 自ら槍を構えて敵を迎え撃とうとする。槍を握って戦うのは何年ぶりのことだろうか。

 槍を持つと懐かしい感情が彼を包み込んだ。

 そういえばあの頃は戦場に出るたびに震えていたっけな、と新兵の頃を思い出す。

 俺は若かった。恐れ知らずだった。槍を持ってただ一心に敵目掛けて突撃した。

 いつの日か、巨大な武勲をたて誰からも尊敬されるような男になりたいと、そういつも思っていた。

 だとしたらそれは見事に叶えられたというわけだ。実に満足のいく人生だ。

 何より将軍として敗北の味を知らずに生を全うできるのだから。王の偉業が語られるたびに、不敗のガニメデの名はきっと共に語られるだろう。未来永劫輝き続けることであろう。

 そう、この戦が勝利か敗北かは敵に王の首を取られるかどうかで決着する。

 だとすると俺がここで死ぬことで、デウカリオの王への道は塞がれた。きっと王は助かるはず。

 戦いに勝利するのは我々なのだ。


 大きな力がガニメデの肩にあたったと思うと、空中に跳ね上げられた。

 痛みはなかった。ただ槍に刺し貫かれた肩が異様に熱かった。

 三度突き上げられた後、体はぼろ雑巾のように地べたに転がると、赤黒い液体が大地に浸み込むように広がる。

 一斉にその首を狙って徒歩武者たちが走りよってきた。

 首に刃を当てる時には、もうすでにガニメデの目はこの世界の何ものも映さなくなっていた。


 大勢の史家や歴史小説家は彼のこの行動に持てん限りの字句を使って賞賛する。

 もし彼が自らを犠牲にしてでも兵を送りださなければ、バルカ隊は王の本営にもっとたやすく接近できたであろう、と。

 ならばああいう結末を迎えることもなかったのだ、と。


 戦場に吹き続けていた風が止んだ。


 凪に入ったのだ。

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