第398話 その時を待つ

 教団側の右翼、ソグラフォスの丘に布陣したデウカリオ隊も靄の晴れ上がる前に、前面に展開する王師左翼の先頭集団を蹴散らすことに成功していた。

 王師左翼先鋒のプロイティデス隊を中央突破し、エレクトライ隊を側撃し、その後方に位置していた関西の諸侯の軍に突き刺さった。

 デウカリオ隊はもともと七千の兵を抱える大所帯だ。一部は逃げ去ってしまったが、アンテウォルト隊の残兵のうち歩兵二千五百を加えることで九千近い兵力を持つ。その南に布陣したバラス隊も教徒という錬度の低い兵であるが、数だけなら八千ある。後詰としてその後方にはリュサンドロス隊の残兵三千も存在し、荒瀬川までの広範な地帯を守備しなければならないとはいえ、狭い戦場で寡兵でもって戦わなければならないディスケスよりもより優位な立場で王師と戦うことができた。

 この奇襲はデウカリオとディスケスの間で取り決めたことである。蚊帳の外だったバラスはデウカリオ隊の突然の先制攻撃にどちらかというと肝を冷やしたものの、優勢に教団側が戦を進めていることに勇気付けられて、自らも柵の外へと部隊を出して、デウカリオ隊と槍を並べて王師を攻撃し始めた。

「まずは成功といったところか」

 思惑通りに、いや思惑以上に攻撃は教団ペースで進んでいる。バラス隊も加勢してくれたことで特に教団右翼の戦闘は圧倒しているといってもよい。デウカリオは満足げに頷いた。

「あの馬印は『正義の宰相』とか言うやつだな」

 敵の最左翼で乱れずに交戦する一群の旗印は王師第四軍リュケネ隊であった。

 一見すると前軍の崩壊に巻き込まれて、闇雲に退却しているように見えるが、部隊を細かく塊に細分して縦に並べ、その塊単位で決まった距離を戦っては退き、退いてはまた陣形を整えて次の部隊が後退するまで戦線を維持する、繰り引きという戦術を駆使していた。

 言葉にすると簡易なその手法だが、一兵卒にいたるまで主将に対する全幅の信頼と尊敬がなければ為し得ることではない。

「実に見事なものだ」

 白髪の混じった髭をなで上げデウカリオはつぶやいて、敵将を褒めた。

「だが」

 と、デウカリオは思う。

 リュケネ隊以外はデウカリオ隊とバラス隊に駆り立てられ、恐慌状態で後ろを見せて逃げているのだ。

 すなわち言い方を代えるならばリュケネ隊は孤軍として戦線から飛び出した存在となっているということでもある。

「ここだ! ここを砕けば!」

 傍らに起立する副官の襟を掴むとデウカリオは大声でどやしつけた。

「ボイアース! レイトス! 正義の宰相とか言う忠臣面した佞人の横っ面をひっぱたいて荒瀬川に叩き落せ! あいつに王の為に殉死する栄誉をくれてやろうではないか!」

「委細承知!」

 二人は頭を下げると嬉々として戦場に馳せた。

 二人合わせて千はあろう騎兵が、エレクトライ隊を追い立てている前軍を交わすように弧を描いて、敵中に孤立したリュケネ隊の長く伸びた側面に襲い掛かった。

 騎兵たちは馬の横腹を勢いよく蹴り、馬の速度を上げて、槍を突き入れる。

「側面を衝かれる? まだ敵には余力があったというのか!?」

 敵軍は先手を取って主導権を奪うことに成功した。だが王師に勢いで勝るためには手勢を一兵でも多く、最初の攻撃に費やしたはずだ。

 すなわち最初の勢いを止めさえすれば、余剰戦力がない敵軍の広がるだけ広がった前線は、その勢いを少しずつ少しずつ弱めてくれるはずだ。

 やがて伸びきった兵勢は止まる。

 リュケネはその時を待って反撃に移るつもりだった。

 だがリュケネはカヒの騎馬軍団の突進力を正確に把握してはいなかった。早い話がなめていたのである。

 それが証拠に、味方はリュケネの想像を超える速度で壊滅しつつある。

 もしここでリュケネ隊が踏みとどまれなければ、左翼は崩壊する。関西諸侯の兵にデウカリオの攻撃を支えきれる力があるとは思えない。

 リュケネは顔を青ざめさせた。

 河中の大石のごとく屹立きつりつしていたリュケネ隊が、その攻撃で前後に分断されて退勢に陥った。

 それでも急遽円陣の形に組みなおし踏みとどまったのは、さすがは王師屈指の撤退戦の達人というべきか。

「だがそれもいつまで持つかな?」

 レイトスは馬首を返して、再びリュケネ隊に錐のように揉みこんだ。

「これはいかぬ!」

 レイトス隊とリュケネ隊は再び激突した。

 今度は先ほどのように分断こそされなかったものの、勢いに押され、ぐいぐいぐいぐいと荒瀬川へと追いやられていた。


 教団で最も荒瀬川に近い位置に布陣していたのはアンテウォルトと彼の騎兵五百である。

 昨日の全体会議で決められた作戦と大きく食い違う戦の展開にアンテウォルトは唖然とした。したが、そこはカヒ二十四将の一人としても名の知れた男である。素早く気を取り戻すと、情勢を素早く把握しようと努める。

 どうやら朝靄に紛れてデウカリオ隊が王師に先制攻撃をかけ、それに成功したらしい。

 それだけでなく幾隊もの王師を退け、あるいは分断し、その後方の関西諸侯まで蹴散らして、戦の主導権を掴んだようだった。現状、教団側が攻勢に出て、王師が防御するという当初の想定と真逆に戦は進行していた。

 だがその為、王師の一部の部隊は荒瀬川に押し付けられるように攻撃されてずるずると後退しており、このままではアンテウォルト隊の進路に当たる荒瀬川の堤防もいずれ人で溢れて通行できなくなってしまう可能性が出てきた。

 そこでアンテウォルトは予定より早く突撃を開始することを決意し、部隊を堤防へと移動させる。

 確かに当初の予定とは違うが、王師が大きく混乱している今こそ、背後に回りこんで王の本営を突く好機だった。

 堤防に上がって戦場全体の様子を伺って、初めてアンテウォルトはデウカリオらが期した作戦の全体像が見えてきた。

 ディスケス、デウカリオ両隊の靄を突いての不意の先制攻撃によって、王師を協力に揺さぶり、動揺したところを中央のバルカ隊によって強引に中央突破を計ろうとしているのだ。

 それはアンテウォルトの迂回行動をなんら計算に入れていない攻撃方法だった。

 だが不思議と腹は立たなかった。むしろ作戦の見事さに、何よりもディスケス、デウカリオ両隊の卓越した奮戦振りに大いに敬意を表したい気持ちだった。

 それに中央突破を図るからといって、アンテウォルトの迂回攻撃が無駄になるわけではない。むしろバルカ隊と歩調を合わせて挟撃することができる分、ますます好都合であると判断する。

 兵を全て堤防に上がるのを待たず、アンテウォルトは馬を駆けさせ、進撃を開始する。

 アンテウォルトは敵に見つかる前に堤防を駆け抜けるつもりだった。

 眼下ではレイトス、ボイアース両将軍率いる騎馬隊が王師の側面をえぐり取り、正面のバラス隊の奮戦もあいまって、王師はなすすべなく後退を続けていた。

 そんな中、アンテウォルト隊は存在に気づいた王師の各隊からの攻撃を受けることなく、堤防の上を高速で駆け抜けた。

 次の瞬間には王師の兵たちがレイトス、ボイアース両隊に押されて後退し、荒瀬川の堤防に駆け上った。まさに間一髪だった。


 もしその時、ガニメデ隊が長駆馳せ参じ、レイトス隊を攻撃せねば、リュケネ隊もプロイティディス隊もエレクトライ隊も全て川に叩き込まれて、大量の溺死者を出し、左翼は崩壊したかもしれない。それほどレイトス、ボイアース両将の指揮は際立っていた。

「さすがは『不敗の』ガニメデよ。好機も劣勢も見逃さぬわ」

 王師を荒瀬川に追い立てているということは、レイトス隊をはじめデウカリオ隊の分隊は、もろい側面を王師左翼後備に向けてさらしているということでもある。

 味方の壊滅を防ぐ戦略眼を持っている将なら、兵を出してこれを叩かないわけがなかった。

 だが、この瞬間こそがデウカリオが先ほどから待ちこがれていた時だった。

「だが、これを待っていたぞ!!」

 見張台の梯子を二段飛ばしで不恰好に駆け下りると、兜の紐を結ぶ手間すら惜しいとばかりに、真っ先に馬に飛び乗った。

「全軍進め! 打って出るぞ!」

 ボイアース、レイトスに千の騎兵を預けると、老兵から旗持ちまで入れても、本陣にはもう五百も残っているかどうかわからぬほどであったが、デウカリオには一寸の迷いもなかった。

 五百あれば存分に面白い戦ができようというものだった。

 アムビアラ隊までをも荒瀬川に押し付けた以上、敵の左翼に残るのはデウカリオ隊の突撃に慌てて、中央から兵を差し向けた”不道の”マシニッサと左翼の主将”不敗の”ガニメデだけであった。

 ガニメデ隊は崩れ行く味方を救おうと荒瀬川の方に兵の槍先を向けた。

 そしてマシニッサはバルカ隊の突撃に慌てふためき、再度反転した。

 だがデウカリオはディスケスと違い、その後退をはなっから阻止しようとはしなかった。

 確かに中央に戻ったならばバルカ隊は側面から攻撃をうけよう、だがバルカ隊を壊滅させるほどのものではないはずだ。なにしろバルカ隊は五千を擁するのだから。おそらく掴まえられるとしても後備の一部分。大勢に影響はないと判断した。

 それよりも彼にはマシニッサ隊にはある役割を演じさせたかったのである。

 今現在、戦場は混乱の極致。王師は立て直そうと必死で、完全に全ての流れが見えているものなど一人もおらぬはず。

 マシニッサ隊がそこにいることによって、デウカリオから王の御旗は見えない。ということは、王からも彼が見えないということだ。

 そして王師の左翼の前備は、荒瀬川方向へと追いやられている。中備の関西諸侯は混乱し、ある隊は逃げる背後から攻撃を受け、ある隊は前備と同じように荒瀬川に押し付けられていた。

 そして、それらを救援に向かった後備のガニメデ隊も当然荒瀬川方向に部隊は限界近くまで伸びきっているはず。

 だから左翼と中軍の間には実は空隙がある。後ろを見せているマシニッサ隊しかいない空間があるのだ。そしてマシニッサ隊の目にはバルカ隊しか映ってないはずだ。

 誰もがそこを注視していない。このワシ以外は誰も、とデウカリオはほくそ笑む。

 ならば五百の兵でも存分に面白い戦ができるはず。


 そこを衝く!


 そこを衝いてマシニッサ隊を突破さえすれば、もう邪魔者はいない。王の陣まで真っ直ぐに無人の野を駆け抜けて行ける。

 確かに中央から王を衝く役割はバアルに譲った。

 譲った、がだからといってワシが王を討つことまで禁じられたわけではあるまい。

 ワシはもう十分役割を果たしたはずだ。ならばワシが王を討っても誰からも文句は出ないはずだ。

 デウカリオは集めた将兵を前に檄を飛ばした。

「いいかバアル隊はもう出陣した! 王の首を取りにな!」

 それが戦を決定付けようとする攻撃であることを悟った兵たちは、思わぬ成り行きに大きくどよめいた。

「我々も遅れを取るな! 目指すは王の首一つ! 全軍突撃!!」

 出陣の角笛が再び戦場に鳴り響く。


 マシニッサ隊は半ば中央に戻って布陣しているようだった。

 だが隊列に混乱が見られた。どうやらバアルに中央突破されて分断されたらしい。

「やるな。七経無双の名は飾りじゃないな」

 デウカリオはその混乱したマシニッサ隊に躊躇ちゅうちょせずにぶつかると、後備を蹴散らす。

 思いもしない方向からの突然の攻撃に後備は混乱し、我先に逃げ出した。

 この後備の乱れこそがバアル隊を片翼包囲に持っていこうとしたマシニッサ隊を崩壊させるきっかけを作り出したのである。

 大した抵抗も受けずにデウカリオ隊はマシニッサ隊を超えることができた。しかも収穫はそれだけではなかった。

「これはありがたい」

 マシニッサの兵たちは一目散に味方の陣めがけて背中を見せて逃げ出していた。今や彼らはデウカリオ隊の先触れのように味方のいるほうへ、すなわち王の本陣へと導くように動いていた。

 デウカリオは彼らを道案内に王師の陣営深くにやすやすと斬り込んで行く。


「この丘を越えれば王の馬印まであと一息だ! ものども行くぞ!」

 駆け上がったそこは小高い丘で、頂上に登ったデウカリオは王の本陣が見えるかと期待したが、まだ間にひとつ丘があり、残念ながら王旗をその目に拝むことはできなかった。

 変わりに見えたものがあった。その前の丘の麓に布陣していたものがいたのである。

 鷲獅子グリフォンの旗印、ガニメデ隊だった。

「なんだと!」

 デウカリオはそこにいるはずの無い旗を見て驚愕した。

 ガニメデの旗が左翼の救援に向かったのをデウカリオは見たのだ。

 ここにいるはずがない。

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