第397話 離しはしない

 ディスケスが相手をする敵は王師右翼の先頭の三部隊、ザラルセン、ステロベ、ベルビオ隊だけでない。右翼後方のステロベ隊や、さらには味方の潰走に慌てて援護に駆けつけた王師の中軍の戦闘部隊であるアクトール隊をも相手をしなければならなかった。

 後方のアストリア隊、カレア隊からの援護は少しは期待できるとしても、兵が逃亡し五千を切ったディスケス隊にはそれだけ多くの軍を相手にするのは荷が重い仕事だ。

 寡兵の不利を先手を取ることで補うしかないと、柵から出した兵に次々と命令を出して戦場の支配を試み、それをなんとか形にすることに成功したことで、ようやくディスケスは一息つくことができた。

「どうして」

 ディスケスに余裕が出たのを見計らってタラッサが疑問を口にした。

「どうして王を突く役目がディスケス様でないのですか?」

 副官のタラッサにはそれが不満だったのだ。

「この戦は成否に関わらず歴史に刻み込まれることでしょう」

「だろうな」

 それは間違いないところだ。乱世を統一した覇王の最後の戦としてか、あるいは乱世をあと一歩で収めそこなった悲劇の王の最期の戦としてかは決着がつくまでは分からないが。

「将の名は永遠に語り継がれるのですよ? だがそれは王の陣に駆けいる者だけです! その他の将士は歴史書の隅っこで、ひっそりと書かれることすらありますまい! 誰一人記憶するものなどいないのです!」

「ふむ」

 それがどうしたと言わんばかりのディスケスの態度に、人が良いにもほどがあるとばかりにパッカスは怒った。

「確かにツダ(バアルの御名)の名は王の天敵として鳴り響いておりますし、才が卓越してるのも認めます。だけど兵を率いることならディスケス様とて勝るとも劣らないではないですか!」

 パッカスはディスケスにもその資格があるのではないかと言いたいらしい。

 若いなとディスケスは思った。実際の年齢だけでなく、何よりも精神が若いと感じた。

 どの人間であってもできることには限りがあり、手に入れられるものにも限りがある。それを知るのが大人であり、それを知らぬのが若さであるとすれば、タラッサはまだまだ若い。若いのだ。

 この若さがあるのなら、戦の中でしか生きられぬ自分たちと違って、人生をやり直すことはできたのではないか。そう思った。

 ここに来る前にとくと語り聞かせて落ち延びさせるべきだった。ディスケスはそれをしなかったことを悔やんだ。

 だがこうなってしまってはもう遅い。戦が始まってから一人で落ちるのはかえって危険だ。この俺がもう少し前に気付くべきだったのだ。

 王のことだ。おそらく一部の部隊を大きく迂回させて、退路にも伏兵を埋伏させているだろうから。

 ディスケスは唐突に柵にびっしりと並んだ兵士の中の一人を指差した。

「タラッサ、そこにいる者の名を知っているか?」

「は? 何をおっしゃっているのですか?」

「いいから答えよ」

 促されてタラッサは兵を見る。見覚えのあるその兵士は、オーギューガにいたころから彼の下で働いている者だ。

「カルカス」

「ではあの男は?」

 次に指差された男はオーギューガの元家臣ではあるが、別の家で働いていた陪臣ばいしんだったはずだ。

「・・・・・・確か・・・ボロニウス」

 タラッサは質問の意図がわからず戸惑うばかりだった。

「ではその横の男は?」

 それはまったく馴染みのない男だった。どこぞの傭兵ででもあろうか。

「いい加減にしてください! これはいったい何のための質問ですか!? 今からでも間に合います。我々も陣地を放棄し王師に突撃しましょう!」

 怒るタラッサの言葉を右手でさえぎりディスケスは尋ねた。

「彼らの名は歴史に残るのか?」

「・・・それは」

 決して残ることはないだろう。一兵卒の名など誰も気にも留めない。

「残ることはない。誰一人として。バルカの下で戦っているものたちもな。だがそれを知っても彼らは戦っている。名が残る残らないなどという不純な名誉心ではなく、自分が信じる何か大事なもののためにな」

 命を捨てて名を残そうと思うことは、命を惜しんで戦場から逃げだした教徒の考えと同じ、どちらも人間の欲から出てきた行動に他ならない。

 一方は死後の名声を得たいと思ったがゆえの行為で、もう一方は現世で生きのびたいと思ったがゆえの行為である。全ては打算に裏打ちされた行動だ。

 自分が信じるもののために死ぬことも、考えようによっては心ののりに従った行為に過ぎず、似たようなものではないかという考えもあるかもしれないが、上手くは言えないけれども、どこかもっと純粋だ、とディスケスは思っていた。

「そのほうが美しいとは思わぬか?」

 そんな彼らと共に戦うのだ。できるならばディスケスはそんな彼らと同じ境地で最期を共にしたかった。

 もちろん、ディスケスにも歴史に名を残すということに未練がまったく無いというわけではなかったけれども。

「バルカの名は後世に光り輝くだろう。だがそれを成し遂げるのは、バルカを王の元へ行かせんとこうして多くの者が戦っているからこそ。であるのなら、バルカの名はもはや奴一人の個人を意味する名ではなく、この戦場にいる全員を示すものと言えなくもない」

 そう、自身の名は残らなくても自身が一部となって成し遂げたことが歴史に残るのなら、それは十分誇るに値することだ。

「それでいいではないか」

 ディスケスの言葉にタラッサはため息をひとつ吐いただけで、もう何も言わなかった。


 ザラルセン隊を壊滅寸前に追い込んだディスケスの部隊だったが、それを見て慌てて中央から右翼に救援にまわったアクトール隊に横腹に食い込まれていた。

 もしザラルセン隊が退勢を建て直し、ステロベ隊やベルビオ隊が当初の予定どうり、街道を越えて回り込みさえすれば、ディスケス隊は三方から敵を受けて苦戦することになっただろう。

 だが本来中央の先鋒を務めるはずのアクトール隊は後備だけが中央に残る格好になっていた。

 そこをバアル隊に襲われた。

 そのためアクトールはディスケス隊の攻撃もそこそこに部隊を反転させ、急いで引き返そうとしていた。

 速いな、そしていい決断だ、とディスケスは思った。

 陣形を維持したまま前進することは容易でも、後退することは難事に近い。そのまま右翼に残りディスケス隊と戦うのが定石だろうに。

 だが、転進を選んだ。

 我々の意図を正確に読み取り、バルカ隊の意図をも悟ったのだろう。王の首を狙うという、その不逞ふていな意図を。

 だがアクトール隊を中央に戻すわけにはいかない。バアルのためにも、このまま右翼に釘付けにしなければならない。

 退こうとする呼吸に合わせて一気に叩こう、とディスケスは考える。向きを変えるその時に一瞬の乱れが生じるはずだ。隊全体を反転させるにしても、向きだけを反転させるにしろ、だ。

 その瞬間、部隊はひとつの有機体から、単なる兵士の寄せ集めに転落するのだ。

「ナイアド!」

「ここに!」

「見苦しく後ろを見せる阿呆どもを、街道の向こうの泥田にたたき落としてやれ!」

「はっ!!」

 ナイアドは慌しく本陣を立ち去り、自身の部隊へと歩を早める。

 まだ稲穂が茂る水田は水をなみなみと湛えている。鎧甲冑を着たまま落ち込むと足を取られ、容易には這い上がれないことだろう。敵の戦力をしばしの間無力化することができる。

 さあやるぞ。ディスケスは腕組みをし、不敵に笑った。


 いいだろう、”鉄壁の”ステロベだか”勇者”アクトールだか”不死身の”ベルビオだか何だか知らないが、みんなまとめて相手をしてやろうではないか。

 あいつらが襁褓むつきをつけ、母親の乳房にしゃぶりついていたころに、俺はすでに戦場で血と汗と泥が混じった水をすすり、仲間の死体を踏み越え、兜首のひとつも取っていたんだ。

 昨日今日生まれたような若造どもに遅れをとるいわれなどない。


 バルカのところに行かせない。

 王のところに戻らせなどさせるものか。

 あいつらの足はもう掴んだのだ。離しはしないぞ。全てこの俺が食い止めてみせる。


 バアルに幸いしたのは陣地前がペラマの丘とソグラフォスの丘にはさまれた狭間だったことだ。

 山峡のようなその狭間は抜け出すまで、敵兵の目から彼らを隠し通してくれた。

 狭間を出ると、そこはディスケスの攻撃で惑乱する右翼の救援に向かう中軍先鋒のアクトール隊の後備だった。不意を衝かれたアクトール隊の後備は一瞬で蒸発し、バアル隊の前に道を開けた。

 アクトール隊が築いた柵を倒し、塹壕を超える作業の合間に、五十ほどの兵が自主的に残りアクトール隊の反撃に備えようとした。

 だが予想された逆襲がないのを見ると、それらの者も隊列に戻り再び走り出した。

 バアルは先ほどの戦闘で崩れた隊列を整え前進していたが、アクトール隊の動きを不審に思い、馬上で伸び上がるようにして左翼の戦闘状況を見た。

 やがて笑みを浮かべる。

 アクトール隊はディスケスの攻撃により、進むも退くも容易ならざる状況に陥ってるようだった。

「ありがたい。ディスケス殿がアクトールの袖を掴んでくれたか。これでひとつめの障害は乗り越えた」


 次に前方に現れたのはマシニッサ隊だった。

 アクトール隊の後備から喊声があがり、壊滅したのを受けて、あわてて軍を当初の位置に返したのである。

「もう来たのか。アクトールは何をやっている? 敵軍の動きは速い。速すぎる」

 マシニッサは自身も敵に釣られて左翼の救援に動いていたのにも拘らず、アクトール隊の行動に対して舌打ちする。

 だが舌打ちしたところでこの現状になんら変化が訪れるわけではない。とにかく急いで陣形を整え応戦することだった。敵は勢いこそあれ、数は少ない。足だ。足さえ止めてしまえばなんとかなる。

 移動から、すばやく陣を展開するマシニッサの卓越した指揮にバアルは目を奪われた。

「不道殿か」

 その言葉に嫌悪感はまったくなかった。戦国乱世で生き抜くのには正義だけでなく狡猾さや非情さも時には必要なことをバアルも知っているからだ。

 それにマシニッサは見掛けや言動に反し、終始王の為に働いていた。

 己が主として認めるだけの器量の持ち主に出会わなかったため、人生の前半を醜名で過ごさねばならなかっただけの単なる戦国乱世の被害者で、実は存外義理堅い人物なのかもしれない、そうバアルは感じていた。

「律儀なことだ。王を守りに戻るとは」

「でも将軍。『不動の』という名に反して一旦左翼の救援に向かい、それから引き返したため、隊列は不完全で守りは薄い。今なら突破は容易です」

 その言のように、陣形はまだらに見えた。部隊の粗密で濃淡が混在していたのだ。

 バアルは抜け目なく、部隊が疎になっているところを狙って部隊をぶつけていった。塊同士がぶつかり、敵味方が混在する乱戦となる。

 だが兵力は同じくらいでも、彼我の勢いには明確に差があった。やがてマシニッサ隊は中央が押されてずるずると後退をはじめた。

 それを見てバアルはニヤリと笑う。

「よし手綱を緩めるな。一息で突破する」


 マシニッサは移動を考え、柵や逆茂木を造らなかった己の甘さを悔いた。

 移動の邪魔になるし、前方には友軍もあるのだ。こちらが攻めることこそあれ、まさかここまで敵軍が進入するとは露ほども考えられなかったのだ。

「来るぞ! 絶対に食い止めよ! もらすなよ!」

 エテオクロスが右翼のほつれを治そうと動いたことを確認して、マシニッサは左翼へと動いたのだ。後ろにエテオクロスはいない。

 ここを突破すればもう本陣まで遮るものはなにもない。

 今現在、前線は混乱し、各諸将が己の判断で戦線を立て直すだけで必死といった状態だ。

 もし本陣に敵が突入すれば、王までそれに巻き込まれ、王師は誰も指令する頭がない状態になる。敵の思う壺だ。

 いや、それだけではない。乱戦になれば王が命を失う可能性だってある。

 もし、そうなれば・・・

 不吉な想像が浮かび、ゴクリと喉をならして唾と一緒にそれを呑み込んだ。それだけはなんとしても防がねばならない。

 不思議なことだった。あれほど乱世が好きで、他人を踏みつけて、その所持するものを奪い取るのが、彼の冷えた心を唯一暖める愉悦だったはずなのに。生き残ることだけが唯一の徳目であると思っていたはずなのに。

 今、何故かマシニッサは己が命よりも大事なものがいつのまにか出来ていたことに気づいて心底驚いていた。だがそれは不思議と嫌悪を催さない。むしろ心の中に何か暖かいものが流れ込むような感覚だった。

 だがアクトール隊と違い柵も塹壕もなかったのがバアルたちにとっての幸運、マシニッサにとっての不運だった。

 騎馬を中心としたバアルの前備の勢いは、マシニッサ自慢の長槍兵を馬蹄で蹴散らし、槍で叩き壊し、刀で切り裂いて、遂には支えきれず突破された。


 中央を突破されたマシニッサ隊だが分断されたものの壊走には至らなかった。

 トゥエンクの兵士たちは長年マシニッサと苦楽を共にしてきたのだ。その絆がある。

 他の諸侯や他領の民がマシニッサのことをなんといおうと彼らは意に介さなかった。

 トゥエンクの地は南部と河東をつなぐ要衝、ために古より幾多の大商人を排出してきた。そこには商はなりと揶揄やゆされる精神が育つ風土があった。彼らに言わせると、騙すやつより騙される程度の頭しかないやつのほうが悪いのである。

 だからマシニッサが領民に見せる意外な寛容さや慈悲の心だけでなく、非難の対象となる狡知こうちや残酷さも含めて、彼らは彼らの領主様を恐れ、そして敬愛していたのだ。わずか五人の豪族から一代で四千の兵を擁する大諸侯となったマシニッサは信仰の対象ですらあったのである。

 この戦に参加した将軍の中で、これほど奇妙かつ強固な信頼関係を持った将軍は他にはなかった。

 それが分断され後方に回り込まれても、マシニッサの隊列が完全に崩れなかった理由である。

 マシニッサは左半分を自ら指揮し、後方からの片翼包囲に持っていこうとした。

「これが成功すれば、まだ俺にも挽回する機会はあるぞ」

 その言葉のように軍を展開できていれば、あるいはここでバルカ隊は止まったかもしれない。

 だが突如、後備が何者かの攻撃を受け崩れると、長く伸びたマシニッサの左翼の隊列は行き場を失って壊乱する。

 混乱は長く伸びたマシニッサ隊の全てを呑み込むように広がり続けた。

 マシニッサは後備の兵を叱咤し、陣形を保つようにしばしの間、孤軍奮闘する。

 だがそこまでが限界だった。

 遂にマシニッサの命令も一切聞かなくなり兵は陣を乱して壊走した。

 バアルたちはそれを横目にすぐに隊伍を修正すると、障害のなくなった南海道をひたひたと東へ東へと進む。

 ただひとつ、王の首を目指して。

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