第396話 疾駆

 バアルが大きくため息をついた、その時だった。

 パッカスは伸び上がってディスケスの陣を指差した。

「あれを!!」

 バアルは左手の丘の上、ディスケスの陣を見上げた。

 ディスケスが指揮用に立てられた物見やぐらに立って、こちらを見下ろしていた。ディスケスはバアルが自分を見たことを確認すると、にやりと笑って右手で天を指差し、ゆっくりと左へと振り下ろした。つられてバアルも右側、渓谷の向こう、敵軍の布陣する台地を見やった。

 そこでは先手を取ったディスケス・デウカリオ両隊が両翼の先陣を完膚なきまでに叩きのめしていた。左翼ではザラルセン隊をディスケスが手玉に取って狩り立てていたし、右翼ではデウカリオ隊がプロイティデス隊を瞬く間に百七十間(約三百メートル)も後退させた。さらにはその左翼に布陣していたエレクトライ隊などは最初の突撃で三十六名もの伍長を討ち取られるという前代未聞の損害をこうむっていた。

「ええい、引くな! 王の御前ぞ!」

 興奮し暴れる馬の手綱を絞りながら必死に大声で部隊に指示を出し、取られた先手を取り返そうとする。

「立ち止まって陣列を組みなおせ! 後ろを向いては死体が増えるばかりだ!」

 エレクトライが兵を叱咤をし、劣勢を跳ね返すべく奮闘するが、一度恐慌状態に陥ったエレクトライ隊は、もはや命令など聞かず、背中を見せて後退に次ぐ後退を重ねていた。

 プロイティデス隊もエレクトライ隊も決して弱兵ではない。数々の激戦を潜り抜けてきた猛者の集団である。将軍二人も南部から全ての戦役に付き従ってきた王軍きっての名将と言っても過言ではない。

 だが今、その誇りがあっさりと崩れ去ろうとしていた。

 そしてそれは瞬く間に他の隊に伝播でんぱしていく。

 考えても見るがいい。王師にしてみればコルペディオン、潜龍坡と兵数の多かった教団相手に立て続けに勝利したのだ。

 いまや教団は兵の逃亡が相次ぎ、大きく兵を減らした。前哨戦で敗れた教団は残った信徒を全て動員しても王師の二分の一にも満たないであろう。王師にとって見れば、もうこの戦いは消化試合なのだ。

 そして王師を率いる指揮官達は今や伝説の世界に片足を踏み込みつつある名将軍たち、そしてそれを率いるは天与の人なのである。兵士には味方の勝利しか予想できなくても、もっともなことだった。

 そしてディスケス等は野戦築城で堅陣を築き上げていた。戦場を支配するのは王師で敵は堅陣に引きこもるとばかり考えていた。ところが思いもよらず攻撃の火蓋を切ったのは敵軍。それだけでも不意を衝かれたといってもいい。

 その上、前軍が崩壊し味方が敗走してくるのだ。

 向こうからやってくるのが敵ならばいい。剣を振り槍を突くだけのこと。だが来るのは恐慌状態に陥った味方である。

 戦場で命のやり取りをしている歴戦のつわものも死の恐怖はある。

 それを振り払うのは戦いである。一旦戦闘に入りさえすれば、戦いの高揚感の中で押し殺せる。しばし忘却が許される。

 だが前から大量の味方兵が途絶えることなく、退却してくるという体験したことのない事態が起きた。

 味方兵相手では、手に持つ武器は使うわけにはいかない。武器は恐怖を振り払うのに、なんの役にもたたなかった。

 前線で何が起こっているのか? 見えない分だけ、剣を振るわない分だけ不安や恐怖だけが心の中で成長する。

 あったことのない事態に一人、また一人と魂を恐怖に捕まれる。

「うわあああああああ!!!」

「こらっ隊伍を崩すな!」

 恐怖に耐えかねて槍を放りだし後方へと走り出した兵を取り押さえようとした伍長だったが、二人三人と押さえつけようとしたが、それに失敗すると、もうここにはいられないとばかりに彼自身も逃げ出した。

 熟練兵であればあるほど戦場を生き延びる嗅覚を持っている。退くべきときに退く能力と言っていい。

 それが彼らに語りかけていた。これは今まで経験したことがない戦の形だ。とにかくヤバイ、早く逃げろと。

 恐怖はまたたくまに王師の中に広がっていった。二陣三陣も敵兵の影すら見る前に崩れさることとなった。

 これは命令の前に逃げ出すことが許されない近代の戦争では見られない光景だが、それ以前の戦争で大軍同士がぶつかった時にまま見られることである。いわゆる裏崩れと呼ばれる現象である。

「これは・・・」

 バアルはその少数の味方が優勢な王師を圧するという理解不能な光景に口篭った。


 その時、奇跡が起こった。

 王の馬印が見えたのである。

 彼の前に折り敷いて布陣していたアクトール隊とマシニッサ隊は崩れ去る自軍の崩壊を防ごうと、それぞれディスケス隊とデウカリオ隊に横槍を入れていて、バアルの正面は手薄になっていた。

 だからといって王の陣までは距離がある、起伏がある、無人になったわけでもない。

 見えるわけがないのだ。

 だがバアルには見えた。見えたのだ。

 と同時になぜ両隊が当初の約定を破り、先制攻撃をかけたのかが透けて見えたのである。

 そう、残された彼の隊をもって中央突破をし、王の本陣を突けと言っているのだ。


 これは自分が考えていたもう一つの作戦と同じ状態だ。

 違いがあるとすれば、それは彼自身がこの攻撃に加わることなく、中央に予備戦力として温存されていることだけだ。

 そして予備兵力がすべき役割は・・・王の首を狙うこと。

 しかし、バアルが誰にも話していないこの策を何故デウカリオ達は行っているのだ? バアルは思わぬ事態に大きく戸惑った。

 バアルは驚いて、再び丘上のディスケスを見た。

 ディスケスは口を動かしていた。何かを叫んでいるようだった。

 と野太い声が彼の耳まで届いた。

「バルカ殿! 行かれよ!!」

 二度目の奇跡。鉦が鳴り、戦士の雄叫びと断末魔が木霊する戦場において、百間(約百八十メートル)は離れているディスケスの陣からどんなに叫んだとしても、物理的にバアルの耳にまで聞こえるはずがない。

 だがその時、確かにバアルの耳にはディスケスの声が聞こえたのである。

「そうか・・・私のために・・」

 そこから先は唇が震えて、声にならなかった。

 損な役割をあえて引き受けてくれたのか。死を覚悟して。

 バアルは自然と頭が下がる。深く、深くディスケスに向けて叩頭する。

 バアルが顔を再び上げたときには、先程までの沈痛さは影を潜め、恍惚こうこつとした表情になっていた。

「舞台を用意していただいたのなら演者はそれに答えねば、な」

 バアルと違い状況の全体像を把握できなくて、先程から戸惑った表情を浮かべたままのパッカスにバアルは笑いかけると共に命を下す。

「柵に配置した兵士を退かせよ。隊列を魚鱗に組みなおす。部隊長を集めよ。急げ」

 その声は先ほどまでと違い、戦場の喊声かんせいをも押しのけて力強く響いた。


 前日夜のことである。


「考えた・・・? 私がか?」

「そうだ」

 ディスケスはあえてとぼけて見せた。何を言っているのか分からぬとばかりに口を横一文字に結んで口を閉じる。

「わからぬな。詳しく聞かせてくれぬか」

「もう潜龍坡を失陥した段階で勝利する道はほとんど無くなった。これに異論はないな」

「・・・だな」

「だが戦場で全てをひっくり返す方法がひとつだけある」

「なんだ・・?」

「・・・王の首を取ること」

 やはりそうか。

「王はこの世界の人ではない。兄弟姉妹、親類がここにはいないということだ。つまり王には後継者がおらぬ。寵姫ちょうきはらんだという話も聞かん」

「そもそも組織としての後宮があるとは聞くが、そこに王の寵愛を受ける佳人が住まうという話は聞かぬしな」

「いまの国体は王を抱いて複数の勢力が同居しているだけの集合体にすぎん。王さえ死ねば権力争いが起こり、我々が付け入る隙が生まれるだろう。戦国を生き抜いてきた諸侯も王と言う頭の上の重しがなくなれば、再び元の血に飢えた飢狼に戻る」

「理屈ではそうだがな」

 果たしてそううまく行くかどうかは疑わしいところがある。

 だがそれこそが唯一教団が、いや、彼らが朝廷に勝利する可能性がある方法であることも間違いない。

「さて、その方法だが」

 デウカリオはまるで生徒にとっておきの話をする教師のようなもったいぶった言い方で口を開いた。

「王軍は中央は薄く左右両翼が厚い。両翼を広げて包囲する形に持って行きたいだろうな」

「我がほうには余剰兵力も無いことだしな」

 ディスケスは苦笑いを浮かべた。

「だが翼を広げきる前に、包囲される前に攻撃を始めればどうだ。敵はわが方が高所に布陣した堅陣を見て我々からの攻撃はないと思っているはずだ。そこがつけ目だ。朝靄にまぎれて翼の付け根を叩く。すると敵軍は右、中央、左と分断される」

 デウカリオは体から離すようにして両のこぶしを握った。

「王は兵理を知っている。軍をひとつの生命として機能させようとするには中央と両翼とのつながりを再生したいと望むだろうな。分断に気付いた両翼の兵だけでなく、中央のそなえからも攻撃部隊は出るだろう。当然、分断に成功した隊は側面からも猛烈な攻撃を受けることは覚悟せねばならない。死者も多かろう。だが、もしひとときの間、その攻勢をしのぎ、その状態を保つことが出来れば・・・」

 そこでデウカリオはディスケスの注意を惹くべく言葉を区切った。

「できれば・・・?」

 ディスケスはデウカリオの目を慎重にのぞきこんだ。

「中央は手薄になる」

 もちろんディスケスはデウカリオの言わんとしていることは理解していた。

「衝けるかな。王の本陣まで」

「ワシなら衝ける。例え肉の一片に成り果てたとしても、王の前までたどり着いてみせる」

「・・・そうかもな・・・だが、そう思うのならば、なぜ会議で言い出さなかった?」

「ワシはあいつが言い出すのを待っていたのさ・・・だがあいつは言わなかった」

「誰が中央を衝くかで揉めだすからな。言えるものか。言えんよ」

「ワシはますますあいつが嫌いになったよ。それはワシらを自分より劣る将と見ているだけでなく、ワシらが武功を貪り食うような男とあいつに思われていたということだ。それが我慢ならん」

 ディスケスは大きくフウと溜息をついた。これでデウカリオとバルカの仲は決定的に破局を迎えたといってよい。もはや修復は不可能だろう。

 そしてこの後は自分が中央を衝く役目をすると言い出すに決まっている。それを中止するよう説得するのは骨の折れる仕事だろうな、とディスケスは思った。

 だが、あえてディスケスは問いただした。

「誰がそれをやる?」

 内心の気鬱を表したかのような重々しいディスケスの問いに、何故かデウカリオは口の端を上げてにやりと笑って応える。

「バルカだ」

「・・・ほう?」

 ディスケスは意外な言葉をデウカリオの口から聞いて片眉を上げた。

「・・・おぬしはバルカを嫌っていたと思ったが」

「ワシはあの若造は好かん。確かに切れ者だが傲慢だ。他人を見下ろす態度が気に入らん。いつも自説を固持するその態度は、自分が誰よりも賢いと主張するも同じだ。自らを何様だと思っているのだ。そして他人をなんだと思っているのだ。高慢極まりない男だ」

 あれほどの逸材だ。時代に冠する傑物と呼んでも差し支えない。多少高慢になるのも仕方が無いとディスケスなどは思うのだが、デウカリオにかかるとバアルも形無しだった。

「・・・だが、それでもここまでにあやつがしてきた事は評価すべきだ。好き嫌いに関係なくな。教団の阿呆どもに振り回されながらも、なんとかここまでたどり着けたのは、あやつの手腕よ。それに王との長き宿縁を考えると、やはりここはあいつの舞台だ。ワシの舞台ではない」

 自分の舞台ではないといった時のデウカリオの顔ほど悔しそうな男の顔をディスケスは見たことがなかった。

 だが同時にこんなに澄明ちょうめいおとこの顔も見たことがない、と思った。

「そうか」

 ディスケスの顔に優しい笑みが自然とこぼれた。

「だから朝靄が晴れきらぬうちに強襲したい。ワシとおぬしで。我々の攻撃を見ればあいつもこちらの企図した意図を読み解くに違いない」

「こちらに異存はない」

 暗闇が二人を包み込むまで、打ち合わせは続いた。ふたりとも戯語は一切なかった。

 なにしろ、明日の戦いは二人にとって最後の戦いになる公算が極めて強かった。将としての死に方の問題に直結していた。

 ならば、それは人としてどう生きたかという問題ということにもなるのである。


 バアルが二将軍の意図を正確に汲み取り、自身の為すべきことを把握してもなお、バルカ隊が柵外に打って出るのには少し時間を要した。陣形を組みなおすのに混乱があったためである。

 幸い、横槍を入れられても、味方は優勢のまま王軍をひた押しに押していた。

 これならばあと一刻は持ちこたえてくれる。一刻あれば充分だった。王の足下そっかに辿り着けるにしろ、最後の一兵まで全滅するにしろ、それだけあれば充分なはずだ。

 開き放たれた馬防柵の前でバアルは今にも戦場に駆け出して行きたそうな兵士たちの前に馬を入れ、戦場を見やる。

「眼前にきらめくは十万の刀槍とうそう

 野面を埋める敵兵たちの手に握られた武具は折からの太陽の光に眩く照らされてバアルの目を焼き付けた。

「まさに死神と呼ぶにふさわしいな」

 その凶悪な光から目を背けるようにして、振り向いたバアルの目に彼の部下たちの姿が映った。それは僅かな、そう、王師に比べたらほんの僅かな数でしかない。

「対する我が方はわずか五千・・・か」

「されど」

 パッカスが声を張って、誇らしげに告げた。

「されどこの五千、ただの兵にあらず。眼前に顕現した『死』を恐れず戦う、一騎当千の強兵つわものなり!」

 その声に応えるように兵たちは顔を誇らしげに上げ、バアルを見つめた。どの瞳も誇りで輝いていた。戦場で戦える喜び、戦士の瞳だった。

 そう、逃げたいやつはもう前日までに逃げ去っている。

 ここに残るものは平和な日々に心休まることのなかった哀れな戦の妄執。

 戦の中で生まれ、戦の中で育ち、戦の中でしか生きられなかった彼らの悲しい魂は知っているのだ。これが長き戦国の最後の残り火であることを。

 だからこそ、この戦で死ぬことが、何よりもの願い。逃げ出したりするはずもない。

 ここで戦わなければ、生きてるうちにもう二度と戦場に出ることは叶わないのだから。


「よいか」

 バアルは兵たち一人一人に言い聞かせるように、緩やかに語りかけた。そして眼前に並んだ一人一人の顔を眺める。

「目的はただひとつ。王の首だけだ」

 その顔はどれもこれも同じような顔をしていた。まるで憧れの女性に声をかけてもらった少年のように目を輝かせて彼を見上げていた。

「一人でも多く王の下に、敵の本陣にたどり着くことだけを考えよ」

 それにしてもこの顔はどういうことであろうか。

「組討するものや負傷した者があっても目もくれるな」

 これから死にに行くというのに、皆なんと晴れがましい顔をしていることか!

「例えそれが親兄弟や終生の友であっても、そして私であってもだ」

 きっと自分もそういう顔をしているんだろうな・・・バアルはそう思った。自分もこの清清すがすがしい仲間の一員である。それが少し嬉しかった。

「ただただ前へ、前へと駆けよ! まっすぐに!!」

 ここにいる皆は家族でも友でもない。多くは初めて槍を並べる者同士だろう。名前を知らないどころか、会話を交わしたこともない者が多いに違いない。

 だがバアルには分かる。いや、ここにいる全員が分かっている。

 ここに集った者たちは皆、同じ運命に導かれて集ったということを。

 ただ己が意地を天下に示すという他人から見たらくだらないことのためだけに命を捨てる愚か者たちであることを。

 そして、愛する人よりも、家族よりも強い絆で結ばれた、同年同月同日に同じ戦場で共に死ぬ、運命の友であることを。

「最後の一兵となっても、王の首に切っ先を差し込めば我々の勝利だ!」

 バアルが右手を剣と共に振り上げると大きな喊声があがった。

 そして再び戦場へと向き直ったバアルは独り言のようにこう呟いたと伝う。

「この疾駆は歴史に残る一駆となろう」

 そう、例え失敗に終ったとしても、後世の史家をうならせるだけの槍働きをしてみせる。

「いざや!」

 不敵な笑いを浮かべて、剣先をまっすぐ王の馬印へと向ける。

 そして再びバアルは声を張り上げ、響き渡らせる。バルカ隊の全てに聞こえるように叫んだ。

「王の御前に推参せん!!!!!」


 寅の刻、バアルの号令一下、旗が一斉にざわめきだす。

 風は追い風。陸から海へ、西から東へと吹く。


 アメイジアの戦史に、いやアメイジアの歴史に燦然さんぜんと輝く伝説の刻が始まる。

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